小説
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友だちが出来た猫



俺のことだけ分かってればいいんだよの前日譚


 月曜日。いつものように友だちに会うため路地裏へ足を進めると、見知らぬ女が既にそこにいた。
 うわ。思わず眉をしかめる。友だちと言える存在が猫しかいないコミュ障のおれに、この状況は正直気まずい。ちょっとまじ勘弁してくれおれの唯一の憩いの場なんだよ頼むどっか行ってくれ。おれの心中の懇願に気が付くはずもなく、女はただ猫を撫でている。ああ違う違う、そいつは喉じゃなくて額を撫でてやるのが好きなんだ。猫それぞれ好きなところに個体差があるなんて当然なのに、これだから素人は。
 眉間にしわを寄せてそんなことを思いながら、女がおれの友だちと戯れているのを路地の入り口で足を止めて眺めていると、女は気配を感じ取ったのか、不意に顔を上げた。
 ばちりと音を立てるかのように、視線が交わる。そいつの顔を見た瞬間、「げ」と思わず声を上げた。美人だった。しかも、ポーズ取って雑誌とかに載ってそうなレベルの。笑ってる顔が想像つかないくらいの仏頂面だけれど、それでもこいつあれだ、人間カーストで言えば最上位の方にいるタイプだ。リア充。最底辺のおれとは正反対。そいつが、おれの顔をただ黙って見つめている。心なしかいい匂いがする気もする。だめだ、もう無理。一緒の空間にいることが無理。一緒の空気を吸っているだけでプレッシャー。逃げたい、帰りたい、よし帰ろう。
 踵を返して路地裏から逃げるように家へ走った。途中で力尽きて肺が痛くなったから歩いた。


 水曜日。女はまたそこにいた。
 顔に眼鏡のような柄をしたおれの友だち、おそ松兄さんたちに言わせればエスパーニャンコを彼女は抱き上げていた。今日ももう諦めてしまおうかと思ったけれど、一昨日は餌をあげずに帰ってしまったし、何より三日もあいつらに触れないのはおれが辛い。でもこの女と同じ空間にいるのは耐えがたい。
 女は、おれに気が付き、猫を見つめていた瞳をおれに向ける。長い睫毛に縁どられた大きい瞳が、おれの姿をとらえた。女はゆっくりと口を開く。

「そこに突っ立ってどうしたの」

 うわ、しゃべった。これおれに話しかけてんの? おれ? 本当におれに言ってる? きょろきょろと周りを見回してみるけれど、他に人がいるはずもない。

「ねえ、あんたに話しかけてるんだけど」
「……おれ?」
「他に誰かいるの」
「い、いない、けど」
「じゃああんたしかいないでしょ」

 分かってたよ、おれに話しかけてんだろうなってことは。でも、目の前の美人がゴミクズ底辺松野一松に話しかけてるっていう事実がどうにも受け入れがたくて、脳が拒否した。
 女はおれの答えを待っているのか、黙ってじっとこちらを見つめている。大きい黒目に見つめられると、まるで睨み付けられているような気分になる。これ、何か答えないと解放してくれないんだろうか。
 普段ここへ来ればにゃあと鳴いて迎えてくれる友だちは、女のすねに頭を擦りつけて甘えていた。おれの、おれのものなのに。そいつはおれの友だちで、そこはおれの場所なのに。

「ねえ、聞いてるの」
「あ、う、」

 もうだめだ。無理。泣きそう。もう無理。助けて十四松。勢いよく後ろを向いて、家まで走る。途中でおそ松兄さんにつかまって競馬に連れていかれた。あの女の後だと、兄さんのクズさに安心した。


 金曜日。やっぱり女はそこにいた。いっそおれを待っているのかと思うくらいにきっちりそこにいた。そんなことあるわけないけど。
 でも、今日は、今日こそは、言ってやる。あそこはおれと友だちの場所だ。あとから来た余所者はあっちなんだから、おれがあの女に遠慮してあそこへ行かないなんてことはしたくない。自分の縄張りを守るのは大事なことだ。

「あ、あんた、なんでここにいんの」

 言えた。ついに言ってやった。エスパーニャンコを撫でていた女が、おれの方を見やる。

「……? なに?」
「あんた、月曜も水曜もそこにいたでしょ、だから、なんで」
「なんでって言われても。こないだ変な男にナンパされて、そいつから逃げてたら偶然ここを見つけたの。猫のたまり場だったから触るためにまた来てる。それだけ」
「路地裏へ逃げてどうすんの、わざわざ人気のないとこ来て、しかも行き止まりじゃん」
「平気だよ、私逃げるの上手いもん。ちゃんと撒いてから来てる」

 女はけろりと答えた。べつにこいつが心配だったわけじゃなくて、こいつのせいで変な輩がここに来たらおれの友だちが迷惑するから聞いただけ。
 でもこれで分かったのは、気まぐれとか偶然じゃなくて、こいつは猫に会うという目的のためにここに来ているってこと。多分これからもこの女はここに通うのだ。それできっと、これからおれは一人で安らかに友だちと逢瀬を交わすことは出来ないのだ。泣きそうになった。

 日曜日も火曜日も、そいつと路地裏で出くわした。会うのが嫌ならそこへ行かなきゃいい話だけど、友だちと会えなくなるのはもっと嫌だった。


 水曜日。普段は一日ごとに違う路地裏へ交代で訪れているのだけど、なんとなくあの路地裏へ足を向けた。女はいなかった。もしかしたらあいつも二日ごとにここへ通っているのかもしれない。もしそうなら、これからは日をずらせば平穏に過ごせる。一人でガッツポーズをしていると、友だちが足下にすり寄ってきた。こないだまであの女に甘えてたくせに、調子のいい。だけどそんなところもたまらなく可愛くて愛しい。

「久しぶり。最近撫でてやれなくてごめんな」

 一時間ほど猫を撫でて、ここ一週間かまってやれなかった分を補うかのようにひたすら猫を堪能した。猫はやっぱり最高だ。怖くないし、劣等感も刺激されない。おれにはやっぱり猫しかいない。
 ひととおり満足するまでじゃれあってから、立ち上がって路地裏を出る。久々に好き放題猫を撫でられた余韻に浸っていると、騒々しい声に邪魔された。うるさい。

「ねえ、ちょっとだけでいいからさ。話だけでも聞いてくれない?」
「離して、うっとうしい」

 あの女だった。あの女が、歩道の真ん中でスーツ姿の若い男に手首をつかまれて、迷惑そうな顔をしていた。うわ。ナンパかな、めんどくさそう。あの女とは、知り合いじゃないと言えば知り合いじゃないし、知り合いと言えば知り合いと言えば知り合いだ。周りを見渡しても、誰も助ける素振りも見せてない。見てるだけのおれが言うのもあれだけど、薄情だなと思った。
 助けるべき、なんだろうか。いやでも助けるって、どうやって。声をかける? 無理でしょ。それに、あの女なら助けとかいらないんじゃないの。逃げるの得意って言ってたし、おれが助けに行ったところで、何しに来たのって思われそうだし。その場で突っ立っているうちに、キャットフードの空き缶が手からこぼれた。缶は足の下のアスファルトとぶつかって、からんと音を立てる。
 うわ、やだ、こっち気付くな。女が、ちらとこちらを見た。おれと女は目が合った、はずだった。けれど女は、立ち尽くしたおれなんか見えなかったみたいに、ふいと視線を逸らした。
なんで、助けてって言えばいいのに、あのときみたいに目を逸らさず、こっちを見たらいいのに、話しかけたらいいのに、なんで。助けに行かない理由ばかり探していたくせに、そう思った。そしたら、なんでか分からないけれど、身体が動いていた。
 彼女とスーツの男の間に入って、彼女の手首をつかんでいる男の腕を、強く取った。

「い、嫌がってる」

 口に出せたのは、それだけだった。そのあとは、なんだかパニックになってよく分からないうちに、彼女と男が一言二言喋って、男はいなくなっていた。

「……なんで出てきたの。関係ないのに」

 本当になにやってるんだろう、おれ。多分おれが入る必要はなかった。おれがあそこで行かなくても、彼女は多分一人でその場を何とかしたんだと思う。

「わ、わかんない、けど、身体が、動いて」
「ふうん。変な人」

 変な人。べつに変だとかおかしいとか、そう言われるのは慣れているけど。おれが行かなくてもよかったし、無駄足だったってことも分かっているけど。助けに行った相手に言われるのは少し、微妙な気分になる。そもそもあれが助けだったのかと問われたら、多分違う。おれは一言話しかけて、その場で固まっただけだった。

「……あ、あいつ、何だったの。ナンパ?」
「スカウト。名刺もらったらすぐ引き下がるんだから、最初からそうすればよかった」

 ああ、ほらやっぱり。おれが助けに行く意味はなかったんだ。無駄なことなんてしなきゃよかった。きっと、彼女もそう思ってる。ただ道端で数回顔を合わせただけの男がヒーロー面して話しかけてきたって、気持ち悪いって、そう思ってるに違いない。

「……でも、ありがと」

 彼女は一言、それだけ言った。おれがその言葉にびっくりしている間に、いつの間にか彼女は立ち去っていた。


 木曜日。彼女は路地裏に来ていなかった。
 飽きたのかな。よくあることだ。たまたまたまり場を見つけてしばらく猫を可愛がっていたって、おれみたいにずっと飽きもせず猫のたまり場に通う人間の方が珍しいのだ。
 猫がおれを見て、にゃあと鳴く。パーカーのポケットの中に煮干しがあることに気が付いたようで、急かすようにすねに頭突きをしてきた。
 その場にしゃがんで、煮干しを袋から取り出し手の平に乗せると、猫が一斉におれに集まってくる。食いしん坊だけが煮干しにありつくことがないよう、猫みんなに目を向けながら煮干しをやっていく。

「おれにはやっぱり、お前らしかいないよ」
「ねえ、私にも煮干しちょうだい」

 独り言のつもりだったのに、突然背後から声をかけられた。びくりと肩をふるわせて振り向く。彼女だった。

「ねえ、それちょうだい。食べたい」
「や、やだよ……。これ、こいつらの、だし」
「あんたの友だち用の煮干しなんでしょ。だったらあんたの友だちの私が食べても問題ないじゃん」
「……は、」

 なに、何言ってんだこいつ。

「私、あんたの友だちでしょ?」

 きょとんとした顔で首を傾げる。そんな姿すらも絵になっている。顔のいい奴は得だななんてそんなことを場違いにも思った。

「……や、いや、友だちとか、そういうんじゃないでしよ」
「違うの」
「……違う。そういうんじゃ、ないから」
「友だちでもない人間が困ってるのを助けてくれたの」
「あれは、だから、よく分かんないけど、身体が動いたから」
「ふうん。でもさあ、私たちこうして、ここでもうずっと会ってるじゃん」
「あ、会ってるだけでしょ、会話するわけでもないし」
「今しゃべってる」
「……で、でも」
「私は友だちだと思ってたけど。じゃあ聞くけどさ、あんたの基準だと、何したら友だちなの?」

 なんでだ、なんでこいつ、こんないきなり話しかけてくるんだ。今まで会話なんて、ほとんどしてなかったのに。友だち、友だちってなんだ。混乱する頭で、とりあえず答える。

「い、一緒に、飯食ったり、とか……?」
「そう、分かった」

 何したら友だちかなんて知るかよ。いたことないんだから、おれに分かるわけないだろ。

 彼女は勝手に納得して、おれの手から煮干しを数本かっさらっていく。
 一つ食べて、もう一つをおれの口に押し込んだ。は、なに、なんなのこいつ。驚いて身動きできないおれの目の前で、彼女はもぐもぐと口を動かしている。

「はい、一緒におやつ食べた」

 これで友だちね。そう言っておれの隣にしゃがみこみむ彼女は、笑っていた。初めて見る彼女の笑顔はやっぱり美人だった。

「ば、馬鹿じゃないの」

 こうしてこの路地裏は、おれと、おれの友だちだけの場所に戻った。面子が一人増えたけれど、それについては、言葉にするのが気恥ずかしから察してほしい。


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