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願わくは君の心臓がほしい



 卒業証書を受け取って、あんなに涙を流して別れを惜しんだって、さようならをしないわけにはいかない。感傷に浸る暇もなく、まるで何でもない日のように、下校時刻だから早く帰りなさいと早々に教室を追い出されてしまった。教師陣はもう少し、情緒とかそういうのを配慮してくれないものだろうか。思春期の学生生活、高校の卒業式は人生に一度しかないのだから、センチメンタルな気持ちにふける時間くらい欲しいものだった。

 バス停のベンチに座って、次の便が来るのを待つ。普段はもう少し学生が並んでいるのだけれど、今日は私一人しかバスを待つ人間はいなかった。先ほど前のバスが行ってしまったばかりだし、両親が乗ってきた自家用車でそのまま帰宅する者もいれば、そのまま卒業祝いとしてクラスや部活で遊びに行った者もいるだろう。そんなわけで、私は一人で思い耽る場と時間を思いがけず手に入れた。

 ここでバスを待つのも最後だ。三年間毎朝、硬い椅子に座ってここまで通っていたけれど、それも今日でおしまい。制服を着てこのバスに乗る機会は、もう一生訪れないのかと思うと、さっきまで友人との別れを惜しんで流した涙がぶり返してきそうになる。鼻の奥がつんとするのをこらえて、上を見上げた。

 過ぎてみれば、高校三年間はあっという間だ。呆気ない、という言葉が似合う日々だった。思えばこの学校で過ごした間、ずっと彼の背中を眺めていた。

 顔を合わせれば軽口を叩きあう関係の、男友達。私にはそんな存在がいた。彼の名前は松野おそ松といって、同じ顔をした六人、六つ子の長男だった。勉強は出来なくて、いつも悪ふざけばかりして、担任と生活指導の教師を怒らせていた。それでいてどこか人を引き付ける魅力があって、体育祭や学園祭では実行委員会でもないのに場を盛り上げるのにかなり貢献していた。おちゃらけてばっかりで、憎めないというべきか、それが彼の魅力というべきか、この学校中の者に、学生教師問わず、彼はなんだかんだで好かれていた。
 私はそんな彼に、松野に三年間ずっと惚れていた。両想いになりたかったとか、恋人になりたかったとか、そういう高望みはしていない。だって、誰にだって明るく接する学校で知らない人はいないほど人気者の彼が、少し話す程度の仲の私に恋慕を抱くわけがないんだから。

 彼とは一年生のときだけ同じクラスだった。クラスのムードメーカーで、男女問わず話しかける華やかな彼に惹かれるのに、時間はそういらなかった。学年が上がりクラスを違えても、彼は廊下で会うたび笑って挨拶をして、時には忘れ物を借りに来て、軽口を叩いて、その度に私はひそかに胸を弾ませていた。でも、その程度の交友なら、私以外の誰だって持っていたのだ。私だけ特別なわけじゃない。それでも、特別ではなくても、顔を見れば笑ってくれるだけで嬉しくて、私は三年間、彼に惹かれ続けてしまった。

 彼にずっと惹かれていたのに、ぬるま湯のような心地の良い、だけど少し物足りない関係を壊すのが怖くて、結局最後まで伝えずじまい。どうせ最後だったんだから、いっそ壊してしまえば良かったのかな。そう思う自分もいるのだけれど、振られてしまったら、面と向かってお前とは付き合えないなんて言われたら、きっとこの三年間が思い出したくないものになってしまう。

 そうやって色々と理由づけたところで、結局、私には勇気が無かったのだ。目が合えば話す程度の関係だったけど、それ以上の関係でもない。卒業式だからと会う約束もしていないし、呼び出してもいない。だけど、最後に一目くらい、会いたかった、話をしたかった。式の最中に横目で見た彼の背中を思い出す。人気者の彼のことだから、今頃クラスメイトの男子たちとカラオケにでも行ってるのかもしれない。もしくは、家族そろってごちそうでも食べにいく準備をするため早々と帰宅しているか。もう会うこともないのだなあ、なんて今更分かりきった事実を突然実感して、悲しくなってきた。

 バス停で一人、深いため息を吐く。玉砕するわけでもなく、結ばれるわけでもなく、ただただ思いを告げずに別れるだけだ。ドラマチックでも何でもない別れだった。付き合いたかったわけじゃない。ただ、ただ、だけど、思い出に第二ボタンくらい。

「欲しいって、言えば良かった」
「何が?」

 後ろから突然聞こえた声に驚いて、肩がびくりと跳ねあがる。振り返ると、自転車のハンドルに気だるげに肘をついた彼が、私が三年間惚れていた男が、私を訝し気に見ていた。

「ま、まだ帰ってなかったの?」
「まあね。写真撮ってーって老若男女問わず引っ張りだこってわけ。担任にもお前には本当に手を焼かされたって泣かれちゃって、人気者は辛いよなあ。……で、何が欲しいって?」

 そう尋ねる彼の学ランには、ボタンは一つも残っていなかった。前を閉める手段を無くしてワイシャツが中から丸見えになっているそれを見て、心臓がざわつく。彼の心臓に一番近い場所にあったボタンは、すでに誰かのものになってしまったようだ。三年間、彼の鼓動を聞いて過ごしたそのボタンが、自分ではない他の誰かの掌の中で握り締められているのを想像すると、胸がざわつくのを止められなかった。だけど、きっとその子は勇気を出したのだ。自分には出せなかった勇気を。

「別に、ただの独り言。気にしないで」
「ふーん。あ、ねえそういや聞いてよ。俺ってばカリスマだからさあ、ボタンくださいって後輩の女子にめちゃくちゃせがまれちゃったんだよね。見てよ、この学ラン」

 見せびらかすようにボタンが一つも残っていない制服を私の方に向ける。普段は中にパーカーを着ていたから、彼が学ランとワイシャツだけを身に着けているのはなんだか落ち着かない。

「……松野目立つから、ミーハーな子に人気あるもんね」

 ああ、嫌な言い方をしてしまった。私、今すごく嫌な女だ。松野は面白半分に好かれているような男で、ボタンを欲しがった女子たちも本気なわけではないのだと、そう決めつけて、最低なことを言ってしまった。
 怖気づいて欲しいものを欲しいと言い出せず一人でグチグチと言っている私なんかより、きちんと伝えたその子たちの方がずっとすごいのに。

「相っ変わらず苗字は失礼だね〜。素直に、後輩に大人気の松野くんに嫉妬しましたって言えばいいのに。 ……まあお祭り騒ぎで欲しいって言われたのは、否定できないけどさあ」

 彼は私の最低な物言いを怒るでもなく咎めるでもなく、笑ってかわした。

「あ、でも一人だけガチだった子いたわ。告白されて、せめて思い出にボタンくれませんかって」

 彼が何でもないことのように切り出す。彼が、告白されるという事態を予想していなかったわけではない。むしろ彼の人気を考えれば、想像しない方がおかしかった。だけど、彼本人からそれを聞くのは話が違う。声が震えないよう注意して、続きを促した。

「ふうん。じゃあ、第二ボタンはその子にあげたの?」
「まあね。俺優しいし、顔真っ赤にして震える女の子無碍にするわけないじゃん? 目の前でボタン千切って渡してあげたよ」
「……そう」

 そっか。彼のことが本当に好きな女の子が、それを手に入れたんだ。その子は、きちんと勇気を出して伝えたんだ。私には出来なかったのだから手に入らないのは当然だった。努力したものが報われるのは世の摂理だ。それならまだ、諦めがつくってものだ。私みたいに松野が好きで、でも私とは違って気持ちをきちんと伝えた子。きっとその子は、第二ボタンを思い出として大事にするのだろう。机の引き出しなんかにしまって、ふとしたときに引き出しから取り出して思い出に浸ったりするのかもしれない。


「……ねえ、お前も欲しかった?」
「は?」
「俺の第二ボタン。苗字も、欲しかったりした?」

 いきなり、彼が私にそんなおかしなことを問いかける。
 なんで、そんなことを聞くの。どうして、そんな。きっと彼はいつもみたいに軽口として話しているのだろうけれど、図星を突かれた私は、動揺を隠せなかった。
 もし今欲しいって言ったら、何か変わるの。もし、欲しいって言っていれば。たらればなんて、今更どうしようっていうんだ。

「何、言って、そんな、…………もし、もし欲しいって言ったら、どうすんの? くれるっていうわけ? 無理でしょ」
「んー。まあもう無いもんあげるのは無理だけどさ。まあでも、そしたら、さっきあの子に渡したの、ちょっと後悔するかも」

 なんで、なんで。そんなこと言われたら、期待してしまうじゃないか。彼にとって、勇気を出して伝えた女の子よりも、私の方が第二ボタンを渡す価値があるって、彼にとって特別な女の子なんだって勘違いしてしまうじゃないか。動揺に思わず視界が潤んで、咄嗟に俯いた。

「なに、それ。……後悔とか、その子に、失礼でしょ」

 こんなときだって、私は素直になれない。

「お前さあ、ほんっとーに最後まで意地張る気なの?」
「……何の話」
「俺はさあ、お前が、俺の第二ボタン欲しかったか欲しくなかったかって聞いてんの」

 欲しいよ。欲しかったよ。喉から手が出るほど、胸が痛いほど欲しい。だけど怖くてそれを言えない程度には自分が可愛い。ここで素直になれているくらいなら、もっと最初から言いだせていただろう。返事を返せずに、下唇を噛みしめて自分の膝を見つめる。

「はあー……、ほんっと手のかかるやつ」

 彼は深くため息をついた。おもむろに、彼が寄りかかっていた自転車のスタンドを立てて、私の目の前に歩み寄る。

「苗字。俺の第二ボタン欲しかったんなら、何も言わなくていいからこの手握って」

 俯いていた顔のすぐそばに、彼の掌が差し出された。

「べつにどうでも良かったっていうなら、振り払っていい」

 本当に、本当に言っているの。いつもの冗談だって、言ったりしない?
おずおずと、こわごわと手を伸ばした。彼の手に、指先が触れる。彼の体温は高くて、熱がじんわりと私の指に伝わる。ゆっくり、ゆっくりと彼の手に私の手が重なった。握るというよりも、添えるという言葉が似合う二つの手は、彼が私の手を強く握り返したことによって固く結ばれた。握られた手を強く引っ張られ、ベンチに腰掛けていた体が引き寄せられる。突然のことに、彼に抱きすくめられたのだと理解するまでに時間がかかった。
 視界が彼の学ランの黒とワイシャツの白でいっぱいになる。今までにないくらい彼が近くて、彼に触れていた。うるさく鳴り続けている心臓の音が、彼にまで聞こえてしまうのではないかと不安になってしまう。

「第二ボタンはもうないけどさあ、本体ならまだ残ってるんだけど」

 彼が私のつむじに顎を乗せながら声を出す。彼が言葉を発するたびに、頭の上に衝動が伝わった。

「……もらう気ある?」
「…………うん」

 ようやく、素直に答えられた。



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