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内定よこんにちは



「おはようございます、松野さん。 本日もよろしくお願いしますね」

ほんわかとした笑顔で苗字さんが挨拶をする。苗字さんは、1ヶ月前から僕の担当をしてくれるハローワークの職員だ。
初めて会ったとき、LINEは交換できなかったけど可愛い子だったしまた会いたいなーと思って、前回と同じ人が指名したいって受付で相談したら、毎回苗字さんが担当してくれることになった。ずっと同じ人の方が安心だし、融通も利くしね。どうせ相談するなら、可愛い子とおしゃべりしたいじゃない?

「最近はどうですか? 前回いらっしゃったときは、まず働くことに慣れてみましょうって話でしたね」
「実はさぁ、あのあとカフェでバイトしてみたんだよね」
「すごい! 大きな一歩ですね! ではこれからはバイトを続けながら求職を続けていく形ですか?」
「それがさあ!聞いてよ苗字さん!」

僕は、兄たちに邪魔されスタバァで社会的に死んだ話を彼女に伝える。あれはもう社会的な殺人と呼んで差し支えないのではないか。もうあのカフェ行けない。おしゃれだし店員の子たちも可愛かったし大好きだったのに。
話を聞いている苗字さんは表情がくるくると変わって楽しい。驚いたり、不安げになったり。相槌も、まあ、とか、そんな!、とか女の子らしくて、そんなところも可愛いなあと思った。

「それは、お気の毒、でしたね……」
「どうしよう苗字さん。僕が就職したら絶対あの兄さんたち邪魔しに来るよ。バイトだろうと正社員だろうと関係ないよ。絶対絶対、足を引っ張りに来る。もう僕、まともな就職なんて出来っこないよ……」

ハローワークの机に顔を伏せる。机に置いてあった僕の履歴書が、風圧でふわりと顔に当たった。松野トド松。サービス業志望。人に甘えるのが上手です。本当は苗字さんに付き添って内容を一緒に考えたからもっとたくさん書いてあるけど。要するにそんなことが、薄っぺらーく内容を伸ばして書いてある。
あーあ。どこかに僕にぴったりの、僕だけの仕事があればいいのに。

「実はここだけの話、松野さんにおすすめしたい職場があるんですよ」
「え?」
「この求人、募集主は法人ではなくて個人なんですが、住み込みで家事手伝いなどが主な仕事なんです。松野さん、事務は苦手と仰っていましたしいかがですか?」

要するにホームヘルパーってこと? いつも母さんが僕ら六つ子の炊事洗濯をこなしてくれているから、僕、家事なんてほとんどしないしなあ。それに、住み込み?住み込みってことは、あの松野家を出るってことだ。でも自他共に認める甘えん坊である僕が、夜に1人で眠れるだろうか。両隣におそ松兄さんもカラ松兄さんもいない。トイレについてきてくれるチョロ松兄さんもいない。おかえりと言ってくれる一松兄さんもいない。一緒に遊んでくれる十四松兄さんもいない。そんなところで、僕は過ごしていけるだろうか。あんな目に遭っても、僕はあの5人の悪魔に囲まれていないと落ち着かない。
表情が陰った僕を心配したのか、苗字さんが声をかけてくる。

「松野さん? どうしました?」
「あー、僕、ずっと8人家族だったから、独り立ちできるか、正直、不安で……」
「その不安は分かります。ですが、もう少しだけ、この求人の説明、聞いてくれませんか?」

どうして苗字さんはこんなにその求人をお勧めするんだろう。いつもだったら、僕が躊躇ったら「仕事には相性がありますから、仕方ないですね」って笑って、すぐに別の求人を出してくれるのに。

でも、苗字さんがあんまり熱心に説明するから、とりあえず詳しく聞いてみた。
住み込みだけど、仕事の拘束時間は短いから終わったら好きに過ごしていいこと。
雇い主は家事が好きだから仕事が全くない日もあるけれど、給料はそんな日も必ず支払われること。
三食賄いが出てくること。
福利厚生もしっかりしていること。
定員は1名で、今日応募が無かったら締め切られてしまうこと。
聞けば聞くほど、おいしい話だった。それは、怪しいほどに。


「……苗字さん、なんかそれ随分な好待遇だけどさ、逆に怪しくない? なんでそんな拘束時間少なくて楽で良い求人が、資格も無いニートの僕に斡旋されるの?」
「……実を言うと、この求人の雇い主、私なんです」

え?
何言ってんの? 苗字さん。
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。
ていうか、さっき苗字さんは何て言ってた?
家事以外は自由時間で、住み込みで三食付いてて、福利厚生もしっかりしてて、定員は1名? それってまるで、専業主婦みたいじゃないか。

「ねえ松野さん。これでも私、国家公務員ですし、貯金もしてるし、1人養うくらい訳ないですよ。家事だって得意ですから仕事の前後にパパッと終わらせられます。それに私、尽くすタイプです。深読みしてくださって構いませんよ?」

待って、待ってよ苗字さん。理解が追いつかない。
つまり、これは、苗字さんが僕を主夫にしたいってことで、でも家事はしなくていいって言ってるから主夫ですらなくて、つまり、ただただ、僕を旦那さんにしたいと言ってるってこと?
苗字さんが、僕の、お嫁さん?

「松野さん、三食昼寝にセックス付き。絶対幸せにしてみせますよ。永久就職、いかがですか?」
「す、末長くよろしくお願いします」

差し出された手を握る。苗字さんの手は柔らかくて小さくて、じんわりと暖かかった。
目の前で満足そうににっこりと笑う苗字さんは、やっぱりいつもみたいに可愛くて、なんだかよく分からないままに僕の就職活動は終わりを迎えることになった。

1抜けごめんね兄さんたち。僕、可愛い女の子と、一生安定のお仕事、同時にゲットしちゃったみたい。



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