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他人の不幸は蜜の味、という言葉を昔聞いたことがある。それはたしかそう、第209188398世界に渡って自分の腹を好きなように満たしていたときのことだった。自分は物覚えが悪いほうであるけど、その言葉は不思議と覚えていた。多分、その言葉が酷く腑に落ちたからだ。私が食べているものは一体何か?生き物の体からあふれ出る黄金色の、とろみを帯びた食物。

『なぁ、あんた俺の何を食べてるんだい』
『よくわかんないけどおいしいもの。口あけてみて』
『・・・・・うーん、そもそも俺はあんたに触れられないだろう。自分から出てるそれを口に入れるのもなんだかいやだ』

たまーに、ごく稀に自分が見える餌がいる。自分が見えて、会話してくれて、撥ねつけられて。もっとも最後のようなことをされても、こっそり食べてしまえば何も問題ないのだけど。そういうものと話すのは何より楽しかった。自分と同じような存在は見たことが無かったからだ。いつ頃自分が自我を持ったのかはよく覚えていない。でも、おそらく母のようなそんな存在はいたのだと思う。乳房からあふれ出す甘い、胃がとろけてしまうような甘露を、腹を満たすために必死に吸った記憶がある。

『久しぶりに人と話せてうれしいわ』
『ナマエは人間ってやつじゃないよ』
『それでもいいの。会話ができるだけよかったの。動物は人の言葉を話さないから』

自分には不幸というものがよくわからない。そんな気持ちになったことが一度もないからだ。どこの世界かは忘れてしまったが、年老いた女に一度その気持ちを言葉で教えてもらったことがあった。なんでも胃がきゅーっとしたり、頭が痛くなったり、体の調子が悪くなったり考え事をしても悪いほうへと向かってしまうようになることが不幸というらしい。あとはさびしかったり、何かを失ってしまったりすること。その女はなんで不幸だったんだっけ?広い家に一人で住んでいた老女は、なぜ。それを説明されても自分には理解できなかったから、もう忘れてしまった。

『僕、もう駄目だ。なにしても上手くいかなくて、本当に死ぬしかない』
『んーナマエは、そうでもないんじゃないかなーって思う』
『でも、僕自身が僕のことを許せないんだ』

だが、自分が主に餌として見ている人間という種族。それの顔色はさすがに判別できるようになっている。だから納得したのだ。他人の不幸は蜜の味。追い詰められて何もかもをなくして不幸である。疲れている。顔色が悪い。そんな人間から漂う食欲を誘う甘い香り。芳しきいのちの雫。金色をしたそれは透明色の瓶に入った蜂蜜という食べ物によく似ているのだ。だから餌の体から滴り落ちるこれを、自分は蜜と呼んでいた。

『教えてくれ、ナマエ。ワシは、ワシは、皆に不幸を振り撒いているのか』

そんな、誰に言うでもない昔のことをふわふわと思い出しながら時空の隙間に体を滑らせる。そこを渦巻く流れに身を任せれば、あっという間に別の世界だ。

「あっ、そうだ」

そこから離れる前に、と裂け目の特徴をよく見ておく。第39981059830世界。多分自分はこの数字をしばらく覚えているだろう。なんせ、初めて自ら不幸にした餌が住んでいた世界だ。たった一つの言葉で、体からどろりとあふれ出た大量の不幸。その光景を自分は忘れていない。

「お前はお前で美味かった、ごちそうさまでした。家康」

聞こえているわけがないサヨナラを一方的に告げて、渦巻く時空に飛び降りる。体が完全に渦に飲み込まれるその前に先ほど、あの世界で最後に口にした甘くて苦い自分好みの金色の味をもう一度記憶によみがえらせて、舌なめずりをする。彼らはどちらもとても良い『不幸』だった。ありがたいことだ。次の世界の不幸の味も、そうであればいいと思った。


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