2016/11/15 16:25

その路地裏に用があったのは小さな子猫のためだ。誰かに捨てられたのかある日突然現れて、母親を探してかにぃにぃ鳴いていたのがどうしても放っておけなくて、ここ三日ほどスバルは大学の帰りにその場所に立ち寄っていた。コンビニで買った猫缶と水を携えて、のんきに鼻歌を歌いながら誰も来ないような奥まった場所に足をむける。
「・・・・・・・・ん、」
普段は人っこ一人いない場所に、その日は先客がいた。簡素なTシャツにダメージジーンズを履いた、紫色の髪をした男性が、汚れなど気にせずに路地裏の壁に身をもたれかけて座っていた。スバルが懐かせるのに二日半かかった小さな子猫がその指先にすり寄っている。なんだか意中の子を寝取られたような気分になってすこしだけスバルは眉を寄せた。男の横顔が美しかったからというのも、少しはあったかもしれない。
「あの、」
あんたもその子猫が気になるんですか、と声をかけようとしただけだった。過剰なまでにその細い体がスバルの発した二文字の音に震えて、男が勢いよくこちらを見た。そのこわばった頬に、緊張した体に、誰かにおびえているのだと察して足を止める。男の様子は二日前の子猫によく似ていた。
「え、と、悪い。話しかけて」
「あ、いや・・・」
スバルを認めて、緊張に張りつめた瞳が安堵にかかすかに緩んだ。俺はその子猫に餌をやりに来ただけですよ、とビニール袋を見せてアピールすると男はよろよろと立ちあがって後ろにさがり、その場所を譲ろうとした。スバルとしてはただ子猫をこちらによこしてくれればいいだけだったので、あわてて止める。
「いやいいっすよそんな退かなくて・・・ってかあんたふらふらじゃん。座っててよ」
「すまない・・・君の場所だったろうに」
「え、それはテリトリー的な?そんなん気にしませんて」
がさがさと袋を鳴らしたスバルに反応して、子猫が男の手を離れる。うにゃーんと餌をねだる声に微笑んで、猫缶をぱきりとあける。小さな動物がおいしそうに餌を食べる光景は良いものだ。特にそれがモフならば。スバルは動物の毛や手触りがよいものに目がないモフリストなのである。
「・・・・君の、子猫なのか?」
「いんや、三日前にここに捨てられててさ、今ようやく餌付けできたところなんだ。持って帰れるまであと2日は必要そうだけど」
「飼うのか」
「まぁここにいたら死ぬっしょ?」
餌をとれるような大きさではないし、周りに飲食店もない。猫が毎日にぃにぃ鳴いているのに助けようとする人間もいない、ならば、とスバルはその役を買って出た。幸いなことにスバルの住むアパートはペット可能なのである。
「てか、お兄さん大丈夫かよ。めちゃ顔色悪いよな」
「・・・・・・・・」
ぽた、と男の顎をつたってしたに落ちた汗に顔をしかめる。具合が悪そうだし、顔色は今にも倒れるんじゃないかと思うぐらい白い。息も荒くなってきているし、目は充血している。どこからどうみても体調不良です、それか重度の病人です、とでもいうような有様だった。
子猫に飯を食わせながら、男の体調をうかがったスバルに男が薄く微笑む。ぎゅう、と自分の右腕を強く握りしめて、よろよろと立ちあがったのに声をかける。
「ちょっと!座ってたほうがいいって」
「・・・・・・君は優しいんだな」
「へ」
壁にもたれかかりながら、男がよろよろとスバルへ近づいてくる。冷や汗に濡れた額に髪が張り付いているのがどこか凄みを感じさせて、無意識に足が一歩後ろへ下がった。スバルの前でへたり込みそうになった男の腕をあわててつかんで、地面に倒れるのを防ぐ。
「ちょっとあんた・・・うわ、すげぇあついんですけど!なんでこんな体で外に・・・・」
「・・・・君に、頼みがある」
「え?何?今ここでゲロ吐くからそれを受け止めてください以外のことだったら聞いてやるけど・・・なんならパシリも可能、ちょっとしたとこにコンビニあるし、たぶんポカリ飲んだほうがいいと思うし」
「いや、それはいいんだ」
力なく肩をつかまれる。全く力が入っていない手は男の体調が本当に悪いことの表れだろう。救急車を、と言ったスバルに首を振って、男がまた笑う。濁った色をした黄色がスバルを見た。病んだ星の色だ、とスバルは思った。男の息はどこか甘く、退廃的な香りがしている。イケメンの息は甘いのか、知らなかった、ととても近い顔に半ばスバルが現実逃避をしていると男がすがるような声音でスバルに言った。
「捨てられた猫に慈悲をかけ、見知らぬ人間の心配をする。君のその優しさに付けこむ私のことをいくらでも罵ってくれて構わない、・・・・・・どうか、私を、助けてもらえないだろうか・・・」
「えっ」
「頼む・・・・」
お願いだ、と絞り出すように言って男が崩れ落ちそうになる。肩から落ちそうになった手首に、Tシャツの陰になって見えなかった、まるで何かで縛られていたようなひどい擦過傷を認めて、それから男の首の後ろにいくつか押されたタバコの痕を見て、見てしまって、それでもって縋られてしまったスバルは覚悟を決めた。猫缶を食べ終わって満腹になった猫が、人間の事情なんてしらないわとでも言うようににゃあと満足げに鳴いた。