ぎぶぎぶぎぶゆー
2016/10/22 22:43

ぱき、と小さな音がして目の前の、人が一人入れるほど大きな卵に微かなひびが入る。みるみるうちに大きくなったひび割れの中から、五本の指先がかすかに姿を現し、ひびを広げていく。そこから出ようとしているのだ。パキ、パキ、と硬質な音を立てて殻が崩れ、その中から一人の人間が姿を現すのを、見ていることしかできなかった。ユリウスは、ただ見ていることしかできなかった。



「変な魔獣がいる?」
「せや、何でも他の魔獣を自分の配下にしてしまう厄介な性質持ってるような奴がいるらしくてなぁ。まぁ俺かて見たことあるわけじゃなくて聞いたことあるだけなんやけど。コッコの卵がちょい割れた、みたいな姿しとるんらしいで。ユリウス、聞いたことあるか?」
「いいや、そんな魔獣の話は一度も耳にしたことがない」

ユリウスがその話を聞いたのはそう遠くない過去の話だ。アナスタシアのすすめる政策がうまく行き、祝いにとリカードと酒を酌み交わしている最中の、酒の摘みに語るような、そんな話だった。

「刷り込み、ってあるやろ。初めて目にした生き物を親だと思ってしまう生き物の性」
「ああ、…」
「何でもあれをな、対象に呪いをかけて無理やりやってしまうらしいんよ。なーんかひび入った卵がこんな所にあるなー思うたらな、気づいたら魔獣の人形が出来上がりって寸法や」
「それは……随分と恐ろしい話だな」
「せやろ。ま、一応ユリウスも気ぃつけぇや。お前がアナスタシア様の敵になった暁にはこの陣営は壊滅してしまうわ」

そう笑いながら言って、リカードがぐいとエールを飲んだ。ユリウスも杯を傾ける。その時は与太話のようなものだと思っていたから、アルコールが喉を焼く勢いに任せて忘れてしまったのだ。

そうだ。火がないところに煙は立たぬ。カララギの諺にそんなものがある。噂には必ず出元があるという意味だ。まさかそれを、こんな場所で後悔するとは思わなかった。

「……スバル」

ぱき、と不思議な形をした靴が卵の殻を踏みしめる。蹲るような体制から、よろよろと立ち上がった人間にユリウスは思わず声をかけた。ユリウスの声に反応してか、うつろな瞳がこちらを見る。かすかに開いた口から垂れる唾液、意思の感じられない瞳。魔物の人形とはこういう意味か、と息を呑み、拳を握りしめた。彼女と、約束したのだ。意識を刈り取ってでも、エミリアの元へと連れていかなければならない。

「……スバル?」

あの後リカードからは、魔物の人形となったものは周りに襲いかかると聞いた。それだけの凶暴性を持っている、と。しかしスバルはゆらゆらと体を揺らすだけで、こちらに襲い掛かってくる様子は見せなかった。ただ、うつろな瞳だけが、ユリウスをじっと見つめている。まるで命令を待っているようだと思い、そこでとあることに気づく。

「まさか、とは思うが」

魔物の刷り込みにかかっていない、のだろうか。あたりを見回しても魔物らしき気配はない。つまりスバルが孵化をし、魔物を見る前にユリウスが彼の孵化に立ち会ったため、スバルの命令権がユリウスに移ったのではないか。

万が一の可能性にかけて、友人の名前を呼ぶ。

「スバル、……こちらに来てくれないか」

ぱき、とまた殻が砕ける音がした。うつろな瞳はまだユリウスを見つめ続けている。ゆっくりとこちらに向かって歩き始めたスバルを、希望と受け止めていいのか絶望と思えばいいのか、ユリウスにはわからなかった。





ユリウスが、スバルがいなくなった、と聞いたのはつい昨日のことだった。ロズワール領でほそぼそと売りだされた新しい調味料であるマヨネーズ、の仕入れへ主と共に向かった際に、認識阻害のローブを羽織りこちらにコンタクトを取ってきたエミリア自身に聞いたのだ。

「なんや、それはうちらに一つ貸しを作るってこと、理解してはるの?」
「もちろんよ。私だって、悩んだけれど……でもスバルは私の、私達のとっても大事な人なの。……みんなで探してるのに、もう3日も戻らなくて」
「あの王選の時のことやらなんやら考えると、あんたに呆れて出てったいうわけやなさそうしなぁ。……うん、まぁええよ。貸しはいくつあってもええもんや」

ユリウス、と呼ばれて主の隣へ立つ。不安そうなエミリアに一礼とともに笑顔を向けるとその表情が僅かに安らいだ。

「傭兵団の皆も、手伝うてな。敵に塩送るときはケチってたらあかんもの」

おう、とユリウスの後ろに控えたリカードが吠えたのに、それに、とアナスタシアが微笑んだ。

「白鯨討伐の英雄様を助けることが出来るなんて、それはそれでおいしそうやん。なぁ、ユリウス」
「仰せのままに、アナスタシア様」
そうして主の命令通り、山狩りが行われた。以前ジャガーノートに荒らされたというロズワール領には結界が貼られていることもあり魔物はあまりおらず、なんらか魔物に襲われたという訳ではないようだった。ただリカードが、スバルの匂いは領の中にあるというのでただひたすら痕跡を探す。

「・・・・最近は、鳥の孵化の季節だっただろうか」
「いんや、違うはずや。おかしいなぁここらで誰かがゆで卵食い散らかしよったわけでもなかろうに」

しかしこれといったものは見つからず、ただ領内の至るところに卵の殻のようなものがあった。それから小動物がすこし狂暴化しているだろうか。先ほどからリカードが手で押さえつけているのは彼に襲い掛かってきたリスだ。普段はこの小動物はそのような反応はしない。

「なぁユリウス、こないだ酒盛りんとき言うたこと、覚えとるか」
「・・・・ああ、卵の形をした魔物、だったか」
「俺はあれは与太話として話したんやけどな、なんか臭ぅないか。どうもこのちっこいリスも動きが変や。さっきから俺にかみつこうとしてきはる」

キィキィ、と鳴いているリスは牙をむき出しにして暴れている。興奮しているにしてはどうもおかしい、とマナの流れを確かめてみると、頭の中におかしな流れを見つけた。

「・・・・操られて、いる?」
「やっぱりか?これはあかんな」
「解除してみよう、少し待っていてくれ」

水魔術を使って、リスのマナの流れを整える。歪んで曲がってこんがらがったそこをどうにか元の流れに戻すとリスは暴れる動きを止めた。動きを止めて、一瞬だけ痙攣したのち、下腹部から糞尿を垂れ流して息絶える。

「な、・・・これは」
「死んだ・・・?ユリウス、お前何しよったんや」
「私はただ、歪ませられていたマナの流れをもとに戻しただけだ。こんなことに、なるとは」
「こらあかん。スバルが操られていたらことやで」

グルル、と喉のおくでリカードが唸る。息絶えたリスを見て、それに現在行方不明になっているあの少年を重ねたのだろう。頷き合って、別行動を始める。時間が立てばたつほど、スバルがこうなっている可能性は高くなる。もはや一刻の猶予もなかった。





「スバル、こちらに」

手を引いて歩き出すとスバルは素直にそれに従った。多少よろめきながらも歩き続けるその様子に、外傷はなさそうだと知る。ただし彼のマナの流れはひどく歪んでいた。あの小動物と同じように、頭の部分の回路がぐちゃぐちゃに手を加えられている。ここでユリウスがその流れを元に戻せば、おそらくあのリスと同じようなことが起こる。紐がきれたように倒れて、物言わぬ屍となる。それならばまだ、物言わぬ人形のほうが随分と良い。

「そこには段差がある。気を付けて歩いてくれ」

ユリウスがスバルを見つけたのは偶然だった。そこだけが柔らかくなっている地面を不穏に思い、穴をすこし掘ってみたところで小さな洞窟のようになってることが明らかになった。中に入るとそこには大小さまざまな大きさをした白い卵が並べてあり、そこでひと際大きかったものがスバルの入っていた卵だ。一つの卵を割ってみたところ、自発的に孵化をしないと中の生物が息絶える仕様なのか、その中の小さなウサギは取り出したところで死んでいた。魔物の意地の悪さを感じながらもすべての卵を割り、スバルの孵化を待ったのが今日の朝である。

「・・・・・どうすれば、君を救えるだろうか」

スバルの様子は先ほどのからくり人形のような動きに比べれば少しはましになったと思う。足運びも随分と滑らかになった。意思のない瞳は相変わらずだが、その視線はずっとユリウスに向けられている。親を追うひな鳥のように、ただひたすらにずっと。ずっとそうしてユリウスの言葉を待っている。

森の中を抜けて、ロズワール邸に向かう。彼の騎士の帰りを待ち続けているだろうエミリアと、ロズワール邸の面々にどのように現状を報告すればいいのか、ユリウスにはわからなかった。意思のない人形になった彼を見て、あのハーフエルフの少女はどのような表情をするのだろう。女性の泣き顔というのはそう見たいものではない。大きな憂いも悲しみもなく、スバルの隣で笑っているのがあの少女には似合っている。

「エミリア様をそう何度も泣かせるべきではないぞ、スバル」

返事が帰ってこないことを承知で、後ろの少年に話しかける。じ、とユリウスの口元を見ていた少年が、その言葉を聞いて頷くような仕草をしたことにユリウスは気づかなかった。




リカードが皆に「卵の魔獣」の説明をしていてくれたおかげで、ユリウスがスバルを連れ帰ってからは比較的早くことが進んだ。現在はベアトリスと呼ばれる、子供の姿をした大精霊がスバルの体に触れて呪いの有無を調べている。ユリウスの水魔法では、マナを元に戻したり怪我を治療させることが出来ても呪いの判別までは出来ないためだ。

「ちょっとばかり、面倒な呪いがかけられているかしら」
「どんな呪いなの?ベアトリス」
「それを今から説明するのよ。少し待つかしら」

ふう、と息をついてベアトリスがスバルから手を離した。今はベッドに寝かせられているスバルはぼんやりと宙を見つめている。その焦点はどこにもあっておらず、ただ時折手足がぴくりと動く。事情を知らない人が今のスバルを見れば、人形、というよりは廃人に近い有様だと思うだろう。

「恐らくスバルの自意識を眠らせて、催眠状態にされているかしら。卵の殻の中で何日スバルが過ごしたのかは分からないのよ。ただ、そこで眠る日数分、とても強固な呪いとなるかしら。それから・・・マナの流れに爆弾のような呪いが仕掛けられているのよ。そこの男の言葉の通り、洗脳を解くことでスバルは死ぬかしら」
「・・・・そんな」
「悲観に暮れてる場合じゃないかしら。まずはその魔物を倒す、もしくはとらえること。それだけがスバルを助ける道なのよ」

信じられない、とばかりに声を漏らしたエミリアに対してベアトリスが少しばかり辛辣な言葉を吐いた。彼女も苛立っているのだろう。自発的に動くことをしないスバルを見る瞳の中には怒りと心配が混ざって見える。

「まずは捕らえるべきだろうねーぇ。魔物を殺してスバルくんがもとに戻りませんでした、では困る」
「そうすると良いかしら。しばらくこの領では卵を食べることを禁止したほうがいいのよ」
「わかったよーぉ。今から村へ伝令を出そう、卵を産む家畜を殺し、卵は割ること。ただし、ヒビがあちこちに入った卵だけは、ロズワール邸に持ってくるようにとねーぇ」

スバルくんはどうも厄介ごとをもってくる、といいながらロズワールが部屋から出ていった。次いでラムが頭を下げて、退出する。ぱたん、としまった扉の音に反応してか、スバルがわずかに顔を動かしてそちらを見た。

「スバル・・・・」

エミリアが腕に触れても、スバルは反応しない。ただぼんやりとした瞳でどこかを見つめている。その光景をみたベアトリスがふんと鼻を鳴らして、ユリウスにむかってぴっと指をさした。

「お前が今のスバルの「親」かしら。スバルに気を付けるのよ。これはベティからの忠告かしら」
「承知しております大精霊様。彼の生活に不自由のないよう、手助けは怠らず」
「意味が違うのよ。スバルはお前のことを「親」とみているかしら。命を賭けて守り、愛するものとして、今のスバルはお前のことを見る。些細な感情をも汲もうとする。それが卵の魔物がかけた、意地の悪い呪いなのよ」
「それは・・・・」
「そう、スバルはお前の奴隷なのよ。本当に性根の腐った魔物かしら」

絶句したユリウスに向かって、ベアトリスはそう吐き捨てた。部屋に吹き荒れる濃いマナは目の前の大精霊の怒りの感情が理由だろう。引きつりそうになる表情をどうにか引き締めて、忠告の礼をと頭を下げる。ユリウスが顔を上げたときにはマナの残滓を残してベアトリスは部屋から消えていた。ふぅ、と息をついて、スバルの腕に触れたままのエミリアの様子をうかがう。先ほどから動かない少女の、その沈黙もまた恐ろしい。

「・・・・エミリア様」
「うん・・・・ユリウス、スバルを見つけてくれて本当にありがとう」
「いえ、しかし、何も解決には至らずに」
「いいの。スバルが魔物に操られていなくて、ユリウスが見つけてくれて、本当によかった・・・」

ぽろ、とエミリアの目元から一筋の涙が流れる。それが床に落ちる前に、凍り付いてひとかけらの氷となった。先ほどはベアトリスのマナに隠れて分からなかったが、部屋に微かに漂う冷気に、この少女も怒っているのだと、それも激怒しているのだとわかる。

「スバルをこんなにしちゃったこと、絶対に、絶対に許さないんだから」

果たして卵の魔物がロズワール邸に送られてきたとして。ユリウスは思った。彼の魔物ははたして無事でいられるのだろうか。






「おい、ユリウス。おい」
「・・・・ん、スバル・・・?」
「そうだよ。なんでお前こんなところで寝てるんだ?」
「っ、スバル!?」
「お、おう。俺ですけど」

ゆさゆさと肩を揺さぶられて、ユリウスは覚醒した。スバルが寝せられている部屋に、何かがあってはいけないとソファを運び込んでもらったのは昨日の夜のことだ。眠りにつく前は確かに人形のようにベッドの中でひっそり横たわっていたはずだったのに、現在ユリウスの前に立っているのは紛うことなく、自分の意思で動いているナツキスバルだった。

「・・・君は、・・・・・治った、のか?」
「何が?」
「覚えていない?」
「お前が何言ってるのか全然分からないけど、俺は健康体だぞ。風邪をひいた記憶もねぇし」

不思議そうにユリウスの問に答えて、スバルがぱっとユリウスの肩から手を離した。不躾ながらもそのからだを観察させてもらう。見た限りでは、何もかわらないいつものスバルだ。

「その、すまないが手を貸してもらえないか」
「いいけど、何、体固まって立ちあがれないとか?そんなところで寝てっからだぞお前」

すこしの皮肉とともに差し出された手にそっと水魔法を流す。マナの流れが修復されていないかというわずかな期待は、以前としてスバルの頭部に残っている呪いを認めて打ち砕かれた。ならば何故彼は自ら行動しているのだろうか。昨日のような状態が、「魔物の人形」と呼ばれる所以ではないのだろうか。

「スバル」
「あん?」
「私がもし、君にとある命令をしたとしよう。そうしたら君は……どうする?」
「俺に命令したいことでもあんの?……いいぜ。ユリウスの命令なら何でも聞くよ」

顔色一つ変えずに即答された、その言葉に思わず口角が引きつる。マナの流れからもわかってはいたが、やはり正気ではないのだ。

「まさか」

目の前のスバルはあまりにも彼らしかった。唯一おかしな点と言えば先ほどの受け答えのみ。しかしそれはマナの流れを見るか、「親」となっているらしいユリウスが質問しなければわからなかった。つまりスバルがもし、あのまま孵化をして魔物の姿を見、その状態で発見されていたら、……自分たちは何も疑わずに魔物の手先を腹の中に入れたということになる。それはあまりにもぞっとするような想像だった。「魔物の人形」とはもしや、そちらを指していたのか。

「……なぁ、おい、ユリウス」
「な、」
「なんでさっきから黙ってるんだ?何かしてほしいことがあるんだろ?いいぜ、命令して、俺に何でも言ってみて。なんだって叶えてやるよ。お前が望むことならなんでもしたい…」

焦らさないで、と懇願のような表情でスバルが言った。赤い舌が誘うように唇を舐める。友人の唐突の変貌に思わず息を飲む。しかしその目を覗き込んで、そこにあるのが怯えであることに気づく。やはりユリウスは「親」なのだ。今のスバルの唯一なのだ。

友人の形をした、意識を歪まされた人形が、ユリウスに向かって捨てないでと媚びを売る。なんでもするから、捨てないで。見放されたらどうしていいかわからない。あまりにも本人と懸け離れているその感情に眩暈がする。怒りでゲートが焼き切れそうだ。

「あ、怒ってる・・・なんで?俺何かした?・・・ごめん、ごめんなユリウス。ごめんなさい。俺が何かしたんだよな。俺がバカだから。悪かった。謝る。だからどうかお願いだから俺を」
「スバル、」
「俺をす、捨てないで。嫌いにならないで。ユリウスに嫌われたらどうしていいかわからない。なんでもします、視界に入れるのがいやだったら絶対にそばに近寄らない。死ねと言われたら喜んで死ぬ。それでユリウスが喜ぶならおれなんでもしたい・・・させて・・・させてください。おねがいします。おねがいします」
「っスバル、違う。私は君を捨てたりはしない。だから落ち着いてくれないか」
「それがユリウスの願いなら」

先ほどの狂乱から一転して、「落ち着いてくれ」そう言っただけで平静を取り戻す。歪だった。ただひたすらに歪だった。今のスバルなら、確かにユリウスが死ねと言っただけで死ぬのだろう。誰かを殺せと言えば殺しただろう。どんな命令をしても、きっとそれを受け入れる。

「気をつけろ、か」

大精霊様の助言通りだ、と痛み始めた頭を押さえながらため息をつく。この後また一波乱起きるのが目に見えてわかることが、それを助長している気がした。





「すべての村人のマナを探ったかしら。幸いなことに村には被害はなかったのよ」
「ご協力感謝いたします。私だけでは到底追いつかず」
「感謝はいらない。この領地が荒らされるのはベティにとっても面倒なことかしら」