2016/10/20 08:02

第三の性、というものがこの世界には存在している。男女の性別のほかにアルファ、ベータ、オメガと分類されるそれはこの世界の人間なら当たり前の存在だ。美形であったりリーダー性があったりと、三種類の性の中では最も恵まれていると言われるアルファ。男女関係なく子を孕めるため稀少であるとされ、大切に扱われるオメガ、そして特に利点もなく、人類に最も多いとされるベータ。

「・・・・スバル」

剣聖の加護を持つ世界最強、ラインハルト・ヴァン・アストレアはΩであった。しかし三か月に一度来る発情期も、またそうした欲求も、彼にはない。それは強い遺伝子を欲しい、と思わないぐらいに彼が世界で一番強い存在だからかもしれない、それかもしくは、彼自身が世界に願ったのかもしれない。自分を律するために、願ったのかもしれない。なのでどうしたことか、Ω性であるはずのラインハルト・ヴァン・アストレアは一度も、生まれて一度もΩの欲求を体験したことがなかった。

「君はなんだか他の人とは少し違う匂いがするね、スバル」
「え?マジ?自分じゃわからねぇわ。俺臭い?」
「いや、いい匂いだよ」

警邏にでた先でスバルと出会うとは、なんと幸運なことか。恐らく現在ルグニカ王都に滞在しているエミリア達のためだろう。執事服に身を包んで荷物を沢山持っていたスバルを見つけて、ラインハルトは声をかけた。こちらを振り返ってラインハルト!と笑って嬉しそうな顔をした友人からはなんだか今日も素敵な匂いがする。

「その荷物はエミリア様たちの?」
「おう、エミリアたんがアップルパイ食べたことないっていうからさ、俺が作るんだ」
「スバルは料理もできるのかい?」
「出来るぜ、まぁ素人が作ったよりはまし、ぐらいだけど」

彼が腕に抱いた大漁のリンガの匂いではない。もっと蠱惑的な匂いだ。ずっと嗅いでいたいぐらいに素敵な、甘い匂い。それがスバルからはいつも漂っている。周りの誰も気づかないのだろうか、と思うぐらい、それほど彼から発せられる匂いはラインハルトにとって魅力的なものだ。

「へぇ、僕も食べてみたいな」
「どうせ王都にはまだ滞在するんだし、出来たら届けてやろうか」
「・・・・いいのかな?」
「今のところは特に予定もないからなぁ」

フェルトと一緒にでも食ってくれよ、と言われて頷く。本来ならば敵陣営の人間から食物を受け取る、なんて危なっかしいことは出来ないが、スバルがそんなことをするはずもない。もっとも王選に選ばれた巫女も、それを守護する騎士たちもそんな下衆なことをするような人間ではないが。そうでなければ龍と契約し国を背負う巫女には到底選ばれないだろう。

そうしてのんびりとした話をしながら、店を冷やかしていく。時折声をかけられるのを当り障りなく受け流していくと、隣を歩く友人がまじまじと自分の顔を見ていることに気づいてすこしどきりとした。

「・・・・?」

跳ねた心臓にはて、とラインハルトが首をかしげたのにスバルも首をかしげる。もしかして自分の顔に何かついていただろうか、とぺたぺた顔を触ると、スバルがそれを見て面白そうな顔をした。

「ラインハルト何してんの」
「スバルが僕の顔をじっと見つめていたから、もしかして何かついているのかと」
「ああ、いや。なんか有名人って大変だなぁって思ってよ」

プライベートとかないだろ?と知らない言葉で言われて、でもなんとなく意味は分かったので頷きを返す。最もラインハルトにとってはそれが日常の出来事なので、あまり窮屈に思ったことはないが。

「たまには休めよな、お前」
「・・・そうだね、ありがとうスバル」
「いやそんな礼を言われるようなことは言ってねぇよ」

自分が剣聖であると知っても尚、そうした普通の言葉をかけてくれることがうれしいのだ。ラインハルトの生きる世界にはそんな言葉は存在しない。剣聖の加護ばかりか、他の強力な加護をも所有する、そのうえ稀少なオメガだ。発情期が来ないので、これでもまだ緩い方だ。きっとラインハルトが子供を孕めばその子供も類稀な能力を持つ。そう考えられているから、ラインハルトはその何もかもを管理されている。次の兵器を軽々しく産まないように、国家に離反をしないように、丁寧に丁寧に牙を抜かれる。

「んじゃ、またな」
「アップルパイ、楽しみにしているよ」
「おうよ、腹減らして待っておいてくれ。あ、そうだこれ」

ひらりと手を振ったスバルが、別れる前に渡してきたのは一つのリンガだった。買い物に付き合ってくれた礼だといって笑う笑顔が眩しい。その背中が雑踏の中に消えるのを最後まで見送りながら、左手に持ったリンガに顔を近づける。熟れたリンガの香りに混じって、ひと際強く香る、スバルの体臭。ラインハルトにしかわからないあの匂い。

彼はきっと、アルファではないだろう。恐らくなんの変哲もないベータだ。ラインハルトの勘がそういっている。あれは自分のつがいではないと、そう本能に訴えかけられている。それならばこの香りは、跳ねる心臓は、一体何だろう。体にかすかに灯る熱は、一体何を示しているのだろう。

街のなかでただ一人立ち尽くす。左手のリンガに残った香りが、風に吹かれて薄れて消えた。