2016/10/22 12:20

「故郷に帰る道を見つけるために、私も協力しよう」
「でも、そんなの迷惑だろ」
「迷惑ではないよ、ここの現状が知れた対価とすれば、安いものだ」

そんなはずがあるか、と思う。人間が一人生きるにしたって相当お金がかかるのだ。地球に帰る、というスバルの目的は今のところ全く突破口が見えないし、何より情報はただではない。時に黄金のような価値を持つことをスバルは知っている。きっと彼もわかっている。しかしそんなことを言えるということは、仕草からも薄々感じていたが目の前の男は余程の上流階級の人間なわけだ。しかも自ら潜入なんてしている。

こりゃかなり上位の奴が出てきたぞ、とスバルは思った。多分腕も相当立つのだろう。地球で例えると・・・・警部とかそういう感じのちょっとカッコイイ役職名がつく立ち位置にいそうだ。

「さぁ……そろそろだ」

男がスバルの腕に触れる。それを合図に嫌々ながらも下着と上着は身にまとった。まぁほぼシースルーなんだけど、着てないよりはマシだろうと二人で判断したのだ。

「合図が、来るはずだ。私は中から撹乱、仲間は外から攻める。君も共に」
「エレノアさんは?」
「彼はもう逃げ出してるよ。元々非戦闘員だからね。外で待機だ」

懐から男が一本の棒を取り出した。何をするのかと思えばそれが彼の掌の中で瞬く間に一本の刃となった。驚きに思わず目を丸くしたスバルに男が笑う。

「さぁ、いこう。ここから出るぞ、スバル」
「・・・・おう!」

ここからはきっと楽しい未来が待っている。もうそろそろ、明日に怯えなくて済む今日がやってくる。そう思うと、何も怖くないような気がした。




「いまから、道を作る。少し待っていてくれ」
「わかった」

こぶしを握ったスバルに頷いて、男がひゅ、と剣を振るう。ちかちかと淡い光が瞬いて県が虹色に光るのをスバルはかすかに見た気がした。見た気がした、というのはこれまた瞬きの間に外へつながる扉が吹っ飛んでいたからだ。

「え、なに」
「スバル、急いで」

スバルが知る限りでは剣であんなことはできない。しかも遠く離れたところから扉をぶっ壊したのだ。なんだこれは、と思いながら腕を引かれて外に出る。爆風に吹き飛ばされたのか、2人の護衛が床で呻いている。破片かなにかがかすったのだろう、片方の腕はぐしゃぐしゃになって、原型をとどめていない。

「ひっ、」

思わず悲鳴が口から洩れそうになる。比較的体が無事な方の護衛を男が手に持った剣でためらいもなく殺したのも怖かった。何故殺したのか、きっと障害にならないようにするためだ。頭では理解出来ていても心がそれを恐怖する。名も知らぬ護衛の、無残にこと切れた表情、血が滴る傷口から見える黄色いものは皮下脂肪だろうか。腕がつぶされたほうはうめき声をあげている。すでに青くはれ上がった皮膚と、関節のあたりから肉を突き破って外にでているのは、きっと、折れた骨だ。

「スバル、スバル」

気づけば廊下に座り込んでいた。肩をがくがくと強めに揺らされて我に返る。スバルがそうしている間に、男の体には傷がいくつか増えていた。恐る恐る周りを見渡すとまた別の護衛らしき人間が何人かこと切れていた。腹の中からこぼれている臓器に、胃がひっくり返るような気持になった。貰ったパンとジュースが全部出そうだ。気合で耐えたが、胃の付近がひどく重い。

「すまない、君が聡いものだから、配慮をしていなかった・・・立てるか?」
「あ、ああ。ごめん、足手まといだよ、俺」
「そんなことは気にしなくていい。気にするな。さぁスバル」

行くぞ、と言われて震える足を叱咤しながら立ちあがる。娼館の中はいつもと一転して悲鳴と怒鳴るような叫び声と、血臭に塗れている。近くの部屋から客とともに出てきた娼婦が廊下の惨状を見て腰を抜かしているのが見えた。

「我らはルグニカ近衛騎士団だっ!命が惜しければ外へ逃げろっ!!」

奥から何人か護衛らしき人影がこちらへ駆け寄ってくるのを認めて、男が彼らに向かって声を張り上げた。ルグニカ近衛騎士団、スバルが初めて聞くその言葉に客が怯えたような目をして男を見た。やましいことがあるのだな、とスバルにでもわかるような視線だった。しかしそれを問い詰めるようなことはせず、男は剣にまた光を纏わせた。今度は虹色ではない、淡い緑の光だ。

「フーラ!」

ひゅ、と男が剣を振る。不可視の斬撃が飛んで剣を持った護衛の肩を弾き飛ばした。剣を握ったままの腕がくるくると回って床の上に落ちて跳ねた。また剣が振られる。また悲鳴が上がる。生臭い血の匂いが濃くなって、なんだかそれに酔ってしまいそうなほどだ。

「まずいな・・・・」
「・・・え?」
「ものが焦げる匂いがする。誰かが火を放ったのだろう。急がなくては」

そう男に言われて、スバルは空気の匂いを嗅いでみた。血臭がすごくてなにもわからない、というか鼻がマヒしている。よく匂いを感じ取れたな、と思いながら、促されてよろめきつつも走りだす。この娼館は、大きい。入るのは簡単だが出るのは一苦労だ。それはおそらく商品を逃がさないためで、きな臭くなりつつあった最近は色々と改築もしていたようだ。迷路のようになっている廊下を、男と二人、走る。前に立ちふさがる敵も、後ろから追いかけてくる敵も、どちらも男が難なく切り捨てるためスバルには傷一つない。

「スバル、護衛の詰め所のような場所がどこだかわかるだろうか」
「・・・・え、と。たぶんあっちだ」

ふわ、と男の懐から何かが飛び出してきて、顔の周りをぐるぐると回っている。それに頷くような仕草をした男が、後ろを走るスバルにそう問いかけてきたのに必死に記憶を探って場所を占めす。幸運なことに一度だけ、スバルはその場所に行ったことがある。男がいう違法な薬を打たれたときのことだ。初体験が薬漬けだったスバルは薬に全然いい思い出がなかった。だから全力で暴れたスバルをよってたかって羽交い絞めにして無理やり注射を打たれたのがその部屋だ。

そんでもって気が付いたら自分の部屋だったし、結果的にこうして娼館から抜け出せそうだし、案外あの薬を打たれたことも悪いことじゃなかったのかもしれない。嫌な思い出なことに違いはないが、済んだことはある程度水に流す。何事もポジティブに、が本来のスバルの持ち味だ。

「・・・・火を放ったのはここの持ち主だそうだ。彼自体は確保済み、こちらの娼館のほうに薬の証拠があるらしい。恐らく何もかも焼いてなくすつもりなのだろう」
「な、なんでわかるんですか?」
「そういう手段を持っているのでね」
「もしかしてさっきからその、ぐるぐるまわってる光?」
「・・・・驚いたな、君はが見えるのか」

常人には見えないような生き物なのだろうか。男が目を見開いてスバルをまじまじと見つめる。それに呼応するように、光がこちらへ寄ってきて、くるくるとスバルの頭の上で踊った。

「ふむ。君には精霊術師の才能があるようだ」
「せいれいじゅつし?」
「こののような生物と友人となり、共に生きる者のことだ。その才能は得ようと思って得られるものではない・・・ここから出た暁には、是非私から君に教授したいものだね」
「あ、やばいやばいそれはフラグ立つって」
「ふらぐ?」
「あ、いやなんでも、・・・先を、急ぎましょう」

この戦争が終わったら許嫁と結婚するんだみたいなことを言い始めた男の話を慌ててさえぎる。命の危険があるときになんかそういうちょっとした未来のことを言うのは良くない。なんかその、本能的に。神様ってやつがいたとして、全然優しくないのをスバルは知っている。そうじゃなかったらこんなところにはいない。

護衛の詰め所はそこの角を曲がってすぐだ。だんだんと焦げ臭いにおいが分かり始めた廊下を抜けて、部屋の前へたどり着く。扉は開いていた。剣を構えながらじりじりと扉へ近寄った男が息を飲んでスバルに向き直る。

「っ、逃げろっ!!」

男の背後で何かが爆発したような音がして、それがスバルの一度目の死だ。




「スバル、・・・?」
「っあ!?」

意識が戻ってくる。何かの破片にこめかみと体を切り裂かれ、間近に迫った死の記憶に思わず体を震わせた。何故ここに男がいるのだろう。先ほど死んだ、はずだ。スバルをかばって。そしてスバルも死んだ。爆発に巻き込まれて。

「え、どうして・・・」
「大丈夫か。すまない、君が聡いものだから、配慮をしていなかった・・・立てるか?」
「あ、ああ、うん。平気だ。ごめん、足手まといで」
「何を言う。さあ行くぞ」

あの爆発は気のせいだったのだろうか。都合のいい夢だったのだろうか。よろめく足をもつれさせながら立ちあがったスバルの目に飛び込んできたのは近くの部屋から出てきた客と娼婦だった。先ほど見た顔に思わず立ちすくむ。何故、ここにまた彼らがいる。

「我らはルグニカ近衛騎士団だっ!命が惜しければ外へ逃げろっ!!」

記憶にあるセリフを男が叫ぶ、客がそれを聞いて怯えたような表情をするのもなにもかもが同じだ。客の手に握られていた緑色の小さな瓶がぽろりと落ちて絨毯の上に転がった。液体が中でゆらりと揺れたそれに、何かの記憶を刺激されて眉を顰める。

「さぁ、急いで」

敵をすべて殺しおえた男がすこし息を荒げながらスバルの腕をとった。頷いて、走り出す。スバルの記憶が間違っていなければ、このあとは詰め所へと向かうはずだ。あれが白昼夢でなければ、の話だが。

「スバル、護衛の詰め所のような場所がどこだかわかるだろうか」
「・・・・・うん、こっちだ」

何もかもが同じだ。男の懐から精霊のが飛び出して彼に何かを伝えるのも、その詰め所を探す理由も。焦げ臭いにおいを感じ取りながらも先導して、詰め所へと足を向ける。スバルの予想が正しければ、ここには罠が仕掛けられている。もしくは敵がいるはずだ。

「まって。お、俺が、俺が先に行く」
「・・・・何故?」
「あんたは、ここの娼館の人間に取っちゃ敵だ。俺は男娼だから一応味方だって思ってくれるはず。もし敵がいたら、なりふり構わず攻撃してくるかも、しれないだろ・・・」
「しかし君が」
「いや、わからない。でもちょっと俺に賭けてみて。頼むよ」

どくどくと鳴る心臓がうるさい。震え声で言った案に男はしぶしぶとうなずいた。彼が廊下の端に身を隠すのをみて、一歩一歩、詰め所へと近づく。あの死の経験を思い出すと足が止まりそうになる。本当に体験しているのだろうかあの痛みは、実はスバルが見ていたのはちょっとした未来でいわゆるシックスセンスとかそういうものが働いた結果ではないのだろうか。そうだとしたら、死ぬのは自分だ。

「・・・でもな」

自分の働きでこの娼館の人間が解放されるのだと思えば、少しは気分もましになった。ぐ、と腹に力を込めて開け放された扉へと歩いていく。爆発は起きなかった。

「・・・・っんだよ男娼か。おい、こっち来とけ」
「・・・・あ、えと」

扉の近くからそう声をかけられて、スバルは思わず体を固まらせた。恐る恐る部屋の中に上半身を入れると扉の前裏側に二人の男が立っていた。スバルは知らない顔だったが相手はこっちを知っているようで、お前か、と声をかけられる。

「なんでここに来た?」
「………助けてもらえるかな、って思った」
「まぁ、別にいいけどよ。お前ここまで歩いてきてくそったれな騎士サマに出会わなかったのか?」
「わからない。もうほとんど誰もいないんだ。俺の客も俺をおいて出て行っちゃったし」
「ふーん、ああ、今日はお貴族様と一日お楽しみだったはずなのにな、災難なことで」

笑いながら言われた言葉に眉をひそめる。しかし相手も気が立っている様子だからと反論はしなかった。いつまでそこに立ってんだよ、と腕を強く掴まれて中に引きずり込まれる。床に投げ捨てられて、思わず睨みつけると足を踏みつけられた。

「っ、」
「お前、ナツキスバルだっけ?ここの2位の」
「………2位、かはしらないけど」おずおずとそう答えると男が舌打ちをした。値踏みされるような視線が体を上から下まで順序良く這っていく。「勿体ねーな、別のところに売りつけられれば金がたんまり手に入るだろうに。悪いな、男娼も娼婦も逃がすなって言われてんだわ」
「な……」
「火いつけても生きてる証拠が残ってると困るんだよ」

腕を掴まれて注射痕を指でなぞられる。ぞわぞわと腕に鳥肌が立った。これだけの、たったこれだけの痕で自分は殺されるのか。胸に湧いた感情が怒りなのか恐れなのかはわからない。例えようのない感情に体を震わせるスバルをみて男がにやりと笑った。

「最後に一発やっとくか?冥土の土産に」
「……そんな土産、いるかよ」
「は?前も思ったけど生意気だよなぁお前。自分の立場わかってんの?」
「おい……」
「いいじゃん、どうせ殺すんだし」

扉の前で廊下の様子をうかがっていたもう片割れが声を上げたのに男が軽い様子でそう返事を返した。次いで懐からとり出されたのは緑色の小さな瓶だ。見覚えのあるそれは、先ほどの客が落としたあの緑色の。

「怖いか?これ、お前死にかけてたもんなぁ」
「それは…」
「ま、これのせいでここも取り壊しってわけだ。精々最後の薬でも楽しんで死ね……はは、俺、一回でいいから殺しながらやってみたかったんだよなぁ。やっと夢が叶うぜ」
「やめ、」

男が瓶を手で弄ると針が飛び出してきた。スバルが制止するまもなく腕の注射痕と同じ場所にそれが突き刺される。腕の中に冷たい液体が入ってきた、と思ったところでかっと脳が熱くなって眼球が上を向いたのがわかって、スバルは




死んだ。何度も死んだ。薬を打たれて死んだ。天井に潰されて死んだ。敵が飛ばしてきた魔術に腕を飛ばされて失血死して死んだ。男が倒れてスバルも腹を刺されて、炎に巻かれて死んだ。部屋から脱出する際、扉の前に立っていた用心棒に後ろから刺されたこともある。なぜ自分が死んだのにまだ生きているのか、どうしてゲームのようにそんなことが起きるのか。それに助けられているのは事実だが、謎は深まるばかりだ。

「これ、これが俺が打たれた薬だ」

心配そうな顔をする男に説明するのもこれが何度目だろうか。内心嫌気が差しながら客が落としていった緑色の瓶を拾い上げる。大体ここから死ぬ可能性が高くなる。死因はだいたいわかっているので対処できるとは思うのだが。

「っ、そうか!ありがたい、これさえあれば何もかもが解決する…」

男がほっとしたような笑みを浮かべる。スバルの手から薬を受け取って、男はそれを懐にしまった。

「ありがとう。スバル。君がいなければこの任務はきっと成功しなかった。国からもあとで謝礼がでるだろうが、まずは私からの感謝を」
「い、いや、俺なんかそんな大したことはしてねぇよ……」

ぶんぶんと手をふったスバルに男が柔らかい笑みを見せた。さぁここから出よう、と言われて走りだす。もう道は全てわかっている。どこに問題があるのか、どう声をかければ男が対処してくれるか、すべてわかっている。前回はあと一歩のところまで行けたのだ。ただその問題は、スバルにある。

「……、」

次は死なずに行けるだろうか。相変わらずばくばくと跳ねる心臓の上を握りしめながら覚悟を決める。もう体の中に冷たい金属が潜り込む感触は何度も体験した。次は、きっと急所を外して受け止められる、はずだ。

「……なぁ、」
「………うん?」
「ここから脱出出来たらさ、あんたの名前、聞いてもいいかな」

二度目に死んだとき、用心棒は彼のことを貴族だと言っていた。スバルの勘は間違っていなかったわけだ。となると名前を教えてくれない可能性もあるし、なによりこんな場所では名前を聞く暇すらない。なのでこれまでの死に戻りの間、スバルは一度も男の名前を呼べていなかった。

そんなスバルのささやかな願いに目を瞬かせた男がふわりと笑う。

「もちろんだ。なんなら今、教えるが」
「いや!いいよ。脱出出来たらのお楽しみってことで、俺のカンフル剤になってくれ」
「かんふる?」
「俺の故郷の言葉で、勇気を奮い起こしてくれるとか、そういう意味」
「私の名前を知ることが?それは光栄だ」

楽しそうに笑う男の横顔を見て覚悟を決める。今回は必ず助ける。助けて、助かる。こんな悪夢のようなループはもうこりごりだった。




スバルが何回か死んだ場所。それはなんの変哲もない曲がり角だ。何故か用心棒も待ち受けていない。火事の煙だけは漂っているが、それだけだ。なのになぜスバルがそこで死んだのか。それは角で待ち受けている一人の幼い娼婦が原因だ。

一度目は震える声で謝っているのを聞いた。二度目は無言だった。三度目は泣きながら笑っていた。四度目も泣いていた。彼女は命令に逆らえなかった。

「……その薬、どんな効果があるのか聞いてもいい?」
「これは中毒性があってね、君のように適正がないものは死んでしまうことが多いがはまればとことんハマる。そしてこの薬のためなら何でもするようになる。たったひとつの小瓶で人間の意識を縛れる、とても恐ろしい薬だ」
「なるほどね」

麻薬か、と納得してスバルは自分に適正がないことを感謝した。もしあったら本当に奴隷のようになっていたことは想像にかたくない。そうしたら今頃自分は一体どうなっていたのだろうか。想像しただけで体のどっかの穴からなにか漏れそうになった。

「角を曲がったあそこが、出口だ」

指をさしたスバルに男が頷いた。煙が館を覆いつつあるため、今は男の精霊の能力で煙を塞いでいる。魔法、万能だ。多分男がいなくてはスバルはこの娼館から抜け出せない。

「何があるかわからない。だから先に、俺が行く。あんたの懐に入ってるその薬が一番大事なんだろ?」
「……スバル」
「でも、なんかあったら助けてくれるって、…約束してくれる?」
「ああ、もちろんだ」

具体的には止血を求めていた。スバルが男にそう言うと、強い決意を込めた表情でうなずかれた。それならまぁ安心だと、角を曲がる。一人の少女が倒れている。年齢は14ほどだろうか。スバルにはわからない、もっと幼いかもしれない。「……なぁ」

本当は生きてるんだろ、そう声をかけるとむくりと起き上がった。目は涙で赤く染まっている。手には大ぶりのナイフ、少女には似合わない獲物だ。むき出しの腕には小さな注射跡がぽつぽつと何個か認められて、それに、彼女はありえなかったスバル自身なのだと思った。

「……なんでわかったの?」
「なんとなく。勘だよ勘。お前、それ使うんだろ。俺だけにしといてくれないかな」
「…?よくわからない。あたしただ、ここに来た人刺せば、また薬がもらえるだけ」

ゆら、と少女が立ち上がった。ナイフを構えている。ここでスバルが捕まえなければ、きっと後ろの男にも被害が及ぶ。スバルの命もこの娼館のいろんなやつらの命も、実質握っているのはなんだかんだで後ろの男なのだ。だから彼が死ぬことだけは、それだけはどうしても避けたかった。

「レバーも心臓も肺もやめてくれよ……!狙うならここだっての!」

腹のど真ん中に向かってきた金属をどうにか体をずらして右の脇腹に誘導する。ここならちょっとどうにかなった記憶がある。確かここだけ、しばらく生き延びた。男が喉を刺されて息絶えたあとにスバルはそこを思いっきりぶっ刺されて、それで煙に巻かれて窒息死したのだ。

「スバルッ!」
「俺は大丈夫……じゃないけど!なぁこの子気絶させてくれ!薬打たれてんだよ!」
「離して!離せっ!」
「っぐ、ぅう……それ、ほんと反則……」

刺さったままのナイフが力いっぱいえぐられる。脳天に突き刺さる痛みに意識が飛びそうだ。しかしどうにか持ちこたえて、腕の中の少女を力いっぱい抱きしめる。男が急いでこちらに駆けてくる音が聞こえる。腕の中からは少女の震えながらも命令を実行しようとする声。それがスバルの頭の中でわんわん反響する。首の後ろを打たれて気絶させられた少女の体が重い。脇腹が焼けるように熱い。ひと呼吸のたびに、まるで心臓がそこにあるような気持ちになる。

「死ぬなっ!あと一時だけだ。持ちこたえてくれ、頼む」

ふわ、と意識がとんで気づけばスバルは男の背中の上にいた。目の前の出口がめらめらと燃えているのが見える。がらがらと何かが崩れる音。何回か前の死に戻りとは立場が逆だなと思って微かに自虐的な笑い声が出た。でもまだ生きている。これで死んだら、ちょっとやる気をなくしてしまうかもしれない。

「は、はは……いき、てる」
「スバル、気づいたか。血は一応止めた。しかし傷ついた内臓は治せていない。辛いと思うが、もう少しの辛抱だ」
「……あの、女の子は?」
「君のとなりにいる。気を失っているだけだ」
「……そう、…あんた、つらいだろ……おれは、降りる…」
「だめだ。君は血を流しすぎた。動けば死んでしまうかもしれない…それは私が許さない」
「……でも、どうやってここから、出るんだ…」

ここが出火元なのか、それともなにか液体をまかれているのか、おそらくどちらもなのだろう。玄関が一番酷かった。スバルもここで何度か死んだ。男の能力があればとも思うが、彼の手は塞がっている。八方塞がりだ、と思った。また繰り返すのだろうか、死から逃れられないあのループを。あの絶望を。

「大丈夫」

体の震えが伝わってしまったのだろうか。男が振り返ってスバルを見た。強い意志を抱いた金色の瞳と目が合う。抱え直されて、脇腹の痛みに思わず息を漏らす。それでも目は逸らさなかった。

「大丈夫だ」

そう繰り返される。空に輝く一等星のような瞳がスバルを見ている。出血のせいかかすみ始めた意識を呪いながら、信じている、とそれだけは男に告げた。