――太古の昔、イザナギとイザナミは神々と大地を生み出した。イザナミは火の神カグツチを産むと我が子の火に焼かれ死んだ。イザナギは黄泉の国に赴き、死せるイザナミを現世に連れ戻そうとするのだ……
母に会いたくなると兄はいつもこの話を聞かせてくれた。イザナミはともに現世に帰ることを承諾しだが、支度を終えるまで覗いてはいけないと条件をつけた。しかしイザナギは、黄泉の国でのイザナミの姿を覗き見てしまう。腐り果て蛆に集られる妻の姿を。
イザナギは逃げ出す。幼い俺は怯えつつもイザナギに憤った。約束を破り、醜く変わった愛する人を置き去りにした神を、卑怯だと言った気がする。俺は約束を破らないし逃げない、きっと母さまを黄泉の国から連れ戻すと幼心に誓った。
それを兄に告げると兄は静かに笑って、それは十四郎がどんなに勇敢でも出来まいよと言った。それは正しかった。兄の目は死に、戻らない。ミツバは旅立ち、もう会うこともない。
だが万事屋――坂田は。
坂田は目の前にいる。連れ戻せるとしても黄泉の国からではない。俺が過ちを認め、坂田がもしそれを受け入れてくれるなら、少しは関係がマシになる。俺の世界に坂田が戻ってくる。
坂田は紅い目を瞠って、疑わしそうに俺を見ている。当然だ。一度は手酷く切って捨てたのだ。その上自分のやらかしたことを理解もせず、無遠慮にも坂田の城に土足で踏み込んだ。忌み嫌われ、疑われて当然だ。
それでもせめて、なかったことにしたくないのだ。嫌われていたい。無関心、無価値でいるのは嫌だ。俺の希望を無理に通すつもりはないが、できることなら疎ましいという感情くらいは持ってほしい。
俺はホワイトボードを再び取る。
『それにお前、声出るぞ』
坂田は眉を顰めて、しゃべって見せようとする。声は出ない。でも俺は知ってる。
『夜中、お前うなされてた』
坂田が目で続きを促す。
『寝言が聞こえた』
それで、と坂田が言いたいのがわかる。
『俺を呼んでた』
坂田は素早く俺からボードを取り上げた。けれど自分は何も書き込まない。俺を見つめるばかりで、何も書き込まない。
いつの間にか、震えが止まっていた。俺はゆっくりと坂田からボードを取る。
『悪いのは俺だ 謝るのも消えるのも』
『たまたま 隣り合わせに なっただけだから心配すんな』
『俺は軽いからすぐ出て行く』
『偶然に頼るのはどうかと思うが』
『そうでもないとお前 俺なんぞ見たくもないだろうから』
『済まなかった 考えなしにお前を拒絶しといて 探るような真似して』
『もうしねえし 近寄らねえけど』
『これだけは 言いたかった』
坂田はボードを見つめ続けた。
最後の言葉を書き終わり、坂田に返す。それを両手で受け取って膝の上に置いて、坂田は最後の言葉をじっと見る。答えはない。
ベッドに戻ろうと立ち上がった。もうふらつきはない。坂田のいない生活には当分慣れないだろう。自分の中がどこか噛み合わないし、違和感に痛みを感じる。だが、これが日常になるまで俺はこの痛みに晒され続ける。それが因果応報だ。
くい、と袖を引かれた。
振り返ると、坂田が俺を射抜くように睨んでいた。それから、突然ボードにペンをぶつける。それまで無音だったのに、ボードが筆圧で軋むほど。
『ねえ意味わかってんの』
『謝るって俺がうなされてたから?』
『うなされておめーのこと呼んでたからかわいそーになって?』
『おめーを見ろってどうやって見りゃいいんだよ』
『おれ お前のことごーかんしたんだぞ』
『それも忘れちゃったの』
『そんなに俺はどうでもいい?』
『お前は 俺を どうしたいの』
『俺はお前を見ていいの そんでお前はどこを見んの もう辛いんだよそんな上手く切り替えらんねーしいつかお前が誰かのモンになっても そんでも俺はお前を見てなきゃいけねーのそんなんひでえよ』
「ひ……か、た」
「おい、声が」
聞こえないから気がつかないのか。自分の声にさえ。
『声出たぞ。聞こえないか』
『そんなんどうだっていいよお前の半端な温情はつれーんだよ 死ぬほど罵倒してくれりゃいいのに訴えてくれたらいいのにとか、勝手なこと考えちまうくらいには参ってんだよ なのに声聞きてえとかあん時の言い訳してえとか そんなん思ってたから罰が当たったんだろ 因果応報ってやつ? もう罰は受けたからこれ以上』
「罰ってのァ罪人が決めるもんじゃない」
届け。届いてくれ。
ボードは使わず、声で伝える。
「俺の罪状はわかった。量刑はお前が決めろ」
その声やその耳が、俺を避けるために閉ざされたと思いたくない。
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