翌日大学から帰ってみると、金時の荷物はなくなっていた。
 昨日まであんなに賑やかで、隣の部屋にいつ怒鳴り込まれるかとヒヤヒヤしてたのが嘘みたいに、何の物音もしなかった。夕飯のとき茶碗をテーブルに置く、その小さな音の残響が耳に痛かった。

 テーブルの角は子供がぶつかっても怪我しないように、やわらかい素材で養生してあった。なんか商品名があったけど忘れた。『机の角のヤツ』でウチでは通じてたし、取り付けたときは違和感あったけど今はもう机の一部だ。
 コンセントカバーも。キッチンに入れないようにするゲートも。ベビーカーもベビーベッドも。
 主のいなくなったベビーグッズを見てたら鼻の奥が痛くなってきて、俺は風呂もそこそこに布団に潜り込んだ。もしかしたら明日の朝には元通りになっているんじゃないかと期待しながら。
 でも朝になっても友恵はいなかったし、金時も帰ってこなかった。



 叔母からたまに問い合わせのメールがきた。飯の量とか、飲み物の種類とか。
 最初は迷惑だと思ってたのに、だんだん連絡が間遠くなると身勝手にも『寂しい』と思った。友恵の写メが届いたときは未練がましいから削除したが、時間が経つと保存しなかった自分はバカ以外の何者でもないと確信した。そしてデータの復旧にまる一週間費やして、諦めた。

 友恵がいない、その重さをどうにか誰かと分かち合わないと気が狂いそうだ。高杉かイジってきたがなんて答えていいかわからなくて黙ってたら、何も言われなくなった。不器用ながらも気を遣ったらしい。岡田が焼きそばパン分けてくれた。武市が『高杉さんから』と言ってヤクルトを持ってきた。河上は一曲弾いてくれようとしたから真剣に断わった。来島は近寄ってこなかった。



 金時と話したい。

 あの子のことを話せるのは、金時しかあり得ない。なのに金時は帰ってくるどころか連絡も寄越さない。
 なら、俺が訪ねてけばいいんだ。
 金時の部屋なら知ってる。
 俺は金時の部屋に行ったことがなかった……だって仕事柄、女がいたら気まずいだろ。金時は平気かもしんねえが俺は気まずい。鉢合わせたくねえから俺は金時の部屋には行かなかった。
 でも、住所は知ってる。


 この際女がいてもいい。できればいない方がいいけど会う約束くらいはしたい。女は嫌がるかもしれないけど俺だって金時の女なんか知りたくないからお互い様だ。金時は気にしないだろう。たぶん。
 それよりもしかして、また具合が悪くて寝込んでるのかもしれない。たまには俺が行ったっていいだろう。念のためメールはしとく。


『ごめん。無理』


 素っ気ない返信が来たが、行くっつったら行く。
 住所通りにアパートを訪ねた。ドアにいきなりインターホンがついてる安アパートで、俺だってヒトのこと言えないけどホストなのに俺が想像してたのより質素だった。
 何度かインターホンを鳴らし、返事がないのでノックもしてみた。
 どういうわけか、隣の部屋のドアが開いた。



「金髪の人? 引っ越したよ、こないだ」



 どうして。いつの間に。

 俺はそんなに嫌われてたのか。






 何もかも失くしたあの日から、俺の世界は止まってしまった。
 金時は俺を避けて黙って部屋を引き払い、メールも電話も通じない。もう俺に会うつもりはない。
 ずっと一緒だと思ってた。友恵も、金時も。
 でも二人とも、俺のモノじゃない。友恵に意志の表明ができたとしたら、俺を選ばないかもしれないし、ましてや金時は成人男子だ。これがあいつの意志なんだ。
 わかってるのに、家族を失くしたような気がして仕方がない。

 おかしな話だ。俺はずっと『親じゃない』って否定し続けてきた。いつからこんなに深く思い入れてたんだろう。親代わりになれると思い上がったんだろう。こんなに泣いて藻掻いてやっと、俺は親じゃない、いつまでも一緒にいられないって理解するほどに。
 それでも友恵のことは自分に言い聞かせられる。
 問題は金時だ。
 金時を失うなんて、信じられないんだ。
 金時は少しくらい雑に扱ってもいいと思ってた。頼って甘えても許されると思ってた。ダメならダメと言うだろう、ケンカしたってしばらくは気まずいけどなんやかんやで元通りだと信じて疑わなかった。
 何があっても、元の関係に戻ると思ってたんだ。


 確かによく考えたら、友恵が来てからあいつはトモダチと言うには少し、近くなった。
 元から友達の中でも特に親しかったけど、トモダチと言い表すよりカゾクに近い存在だと俺は思い始めてた。
 遊ぶときの姿じゃなく、仕事帰りの顔とか、出勤前の顔とか、家事してるとことか、家で寛いでる姿とか……そういう金時がすぐ傍にいるのが、もう何年も前からそうだったみたいに俺にとっては当たり前になっていた。俺にとっては。
 友恵は割り切れる。時間は掛かるが俺の感情を整理すればいい。あの子が幸せに暮らしているだろうことを考えれば母親の元に帰るのはいいことなんだと理解できるから。
 金時だって同じことなのに。金時にしてみれば、なにも俺と年がら年中引っ付いてる必要はない。用事が済んだんだからあいつの好きにすればいいんだ。
 そこまで考えて、やっと気づいた。

 友恵には母親が必要だから、あの子は帰っていった。
 金時に、俺は必要なかった。
 俺は可愛らしいベイビーの付属品。


 それが俺は、受け入れられない。
 俺はお前にいて欲しかったのに。


 それは俺の一方的で傲慢な思い込みだったと、いなくなって初めて気づいた。
 トモダチなら他にもいる。育児から解放された今なら飲み会にも行けるしカノジョでも作ればいいのかもしれない。でもそれは金時じゃない。金時じゃないとダメなんだ。




 あっという間に一年近く過ぎた。

 田舎から送られてくる友恵の写真は、赤ん坊のツナギ服姿からスカート姿の、見慣れない女の子に変わっていった。それでもここで泣いたり笑ったりしてたあの表情の面影があって、大きくなったんだな、と微笑ましくもあり懐かしくもある。
 金時との交渉は一切なかった。向こうから連絡がないのは当然だ。だが俺もあいつに連絡できなかった――今更何の用だ、と冷たく切り捨てられるのが恐ろしくて。


 けど金時。
 俺はやっぱり、会いたいよ。


 なんと言われてもいいとは思えない。暖かく迎え入れてほしいに決まってる。
 だがそれが不可能だとしても、俺の何がいけなかったのか、金時に何をしてしまったのか、それだけは知りたかった。そうしないと俺は金時から一歩も先に進めないのだ。

 メアドは変わっていないだろうか。
 ケータイは、変えてしまっただろうか。
 そろそろ勇気を出すべきだ。あの子が成長したように、俺も前に進まなければいけない。



 ――会いたい。電話していいか



 声で拒まれるのが恐ろしくてメールした。宛先不明のリターンも怖くて、それでも送信ボタンを押してからまる一分、送受信ボタンを連打した。


 メールは戻ってこなかった。
 一時間経っても、なにも起こらなかった。


 胃がキリキリ痛んだ。胸に錘が詰まって、目頭がもの凄く熱かった。油断すると喉が引きつる。ケータイの前で、俺は膝に頭を埋めた。
 そうして待ち続けると、二時間くらいして着信音が鳴った。
 金時。きんとき。
 この着信音は、きんとき。


『十四郎……俺も、会いたい』


 金時は、俺より泣いてた。


『でも駄目なんだ……俺は、お前に会えな、』
「どうしてだよ!? 説明くらいしやがれッ、今どこに居ンだよ!?」
『……場所言ったら来るつもりだろ。ダメったらダメなんだよ』
「そんなに!? 俺なんかしたか? つか、気に入らなかったら言えよッ、そんなに嫌いか俺が!」

『嫌いじゃない! 嫌いなんかじゃない、好きなんだ……! だから、もう』


 なんだって。
 嫌われてない。それどころか、


「じゃあ、会え。ふざけんな」
『……頼むよ、お前の、ためなんだ』
「誰がンなことッ、頼んだよ!?」


 俺は、とんでもない好運を掴みかけているのか?


『俺は、お前が好きだ。もうトモダチには戻れねえ』


 ああ、それだ。
 ひとりで考えて考えて、いくら考えてもすっきりしなかった結論。
 それだ。俺が思い至らなかった、その言葉。


「俺もだ。だから、会いたい」






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