ヘルプミー・ベイビー


 あれからベイビーのヤツの寝つきが悪くなった。


 寝かしつけてから、やれやれとレポートに取り掛かると俺が目を離したのを(寝てるのに)見てたかのように泣き出す。すぐそばに居んだろ。ただ後ろ向いただけだろ。頼む、このレポート締め切り明日なんだ。一時間でいい、寝てくれ。

 でもちびにそんな願いは通じない。いや、願えば願うほど『構え』とばかりに泣く。
 最初は腹でも減ってるのかと思ってミルク飲ませたりしてみたが、あんまり飲まない。つうか、俺的には夜中にこんなん飲ませていいのかって心配になるけど、ネットで調べたら少しはいいらしい。むしろ、今までが大人しくて手が掛からなかったみたいだ。

 この月齢(ゲツレイって言葉も初めて知った)の赤ん坊には珍しくないことで、もっと大変な思いをしてる母ちゃんもいるようだから我慢しようと思っていた。
 でも、そろそろ困る。

「頼むよ、今日は寝てくれよ」
「ぎゃー、あうあう」
「元はと言えばおめーのせいでコレ書いてんだぞ……」
「うぎゃー」

 勉強を疎かにしたつもりはないのだが、試験で不可食らっちまったので追加レポートを提出する羽目に陥ったのだ。
 こんなちびに愚痴ってもしょうがないのはわかってるんだが、つい愚痴りたくもなる。

(しょうがねえ、抱っこしたまま書くか)

 膝に乗せて縦抱っこ(画期的な名前だ。なら横抱きは『お姫様抱っこ』とかいうサムい呼び方をしなくていいんだ)しながら、レポートに集中……


「出来るかっつーの!」

 ベイビーは膝の上で気持ち良さそうにうつらうつらしている。
 もうちょっとつき合って、しっかり寝かせてからレポートやろう。
 背中を叩いてあやしながら軽く揺すってやると、首がかっくり落ちた。
 かわいい。

 ベビーベッドにそっと移す。

(寝てるよな? 起きねえよな)

 祈るように見守りながら後ろ向きにすさって勉強机まで辿り着き、大丈夫と確信してから椅子を引くと。

「ほぎゃアァァァ!」

 振り出しに戻るのだった。



 元カノが来た辺りからだ、夜泣きするようになったのは。
 でも、ちょうどそういう時期だったのだから、アイツのせいではないのかもしれない。
 とはいえ吐き捨てて言った言葉や、あからさまな態度は思い出しても腹立たしい。この子のことは、最初から最後まで眼中になかった。ただ自分の居場所を主張して、こんなちびなのに邪魔者扱いした。それが、悲しかった。
 自分がそう思うから、この子もそうではないかと勘ぐってしまうのは行き過ぎかもしれない。
 だからこそ、夜泣きには泣かされるしイライラするけど、どうしてもベイビー優先になってしまう。

 レポートは、出来なかった。どうしても寝ないから、もしかして布団が冷たいのかもしれない、抱っこのまま布団に入れたらそのまま寝るかもしれない、とか思って初めてベビーベッドじゃなくて俺のベッドに入れてやったんだが、俺のほうが寝落ちしちまったから。



「うーん。食欲は変わらないし、昼間はご機嫌なんだけどな」

 金時も首を傾げた。

「具合悪いのかな……病院連れてってみるよ」
「頼む」

 この時点でも遅過ぎるくらい、俺は何にもわかっちゃいなかった。
 金時が病院から帰ってきて『何でもなかったよ』と笑顔で報告しても俺はイラっとしただけだった。その上最悪の言葉を投げつけたのに、そのことに気づきもしなかった。

「何ともないって。じゃあなんで泣くんだよ」
「お年頃なんだって。乗り切るしかねーよ」
「でも! 今まで何ともなかっただろ」
「だからお年頃なんだって。今までは今まで。ここ来てもう一か月弱だろ? 成長してんだよ」
「けど、寝てくんねーと困る!」
「……わかった、もう少し昼間遊ばせてみるよ」

 じゃ、仕事行くね。
 珍しく金時は、ベイビーに構わずに出て行った。


「お前、今日は寝ろよ」
「だあ」
「絶対だぞ!」
「あぷ」
「ダメだこりゃ……」

 なんで寝なくなっちまったんだ。女と言い争いしたのがそんなに衝撃だったんだろうか。あいつめ、掻き回すだけ掻き回してトンズラしやがって。
 あの女はベイビーのことを言いふらしたらしく、大学に行くと女どもが遠巻きに俺を見てヒソヒソ囁き合うようになった。しかも、あいつの前につき合ってた女から電話まであった。

『ちょっと! 私の子じゃないから! 何してくれてんの!?』
「誰もんなこと言ってねえ」
『はぁ? 私が土方くんに子ども押しつけてるってメチャメチャ噂になってんだけど!!』
「……マジでか」

 噂ってのは尾ひれがつくからな……なんて感慨に耽ってる場合ではない。俺は男だから少しくらい妙な噂は消えるまで放っとけばいいけど、女が子ども作ったなんて噂流されたらヤバイ。
 つかヤってねえじゃん、俺。お前と。ああでも、そんなこと他人にわかるわけねえか。どうすんだ。掲示板に「土方が預かってるのは姪っ子であって、実子ではありません」って貼るか。全学部に。

「どうしよう」
『こっちがどうしようだよ! とにかくあのコ黙らせて!』

 物凄い勢いで電話切られた。

「なあ、どうしよう」
「あー?」
「やっぱ俺にゃ無理なんかな」
「だう」
「お袋に電話すっか……」

 寝てないから頭が回らない。とにかく飯を食わして、あの口うるさいお袋に電話してみた。

『引き取れ? 無理。今日は少なくとも無理』
「てんめェェェ! 人に面倒事押しつけといて、どこほっつき歩いてやがんだ!」
『おばちゃん探してんのよ! 今家にいないから!』

 はっ、と息を飲んだ隙にお袋はガンガン捲し立て始めた。

『ほんとに行方不明だから、相手の男とかばあちゃんちとか、あっちこっち巡ってんの! あんた小さい頃からおばちゃん苦手だったじゃない、そんなあんたがおばちゃん探しなんか出来ないでしょ! でも赤ん坊連れてあっちこっち行けないからあんたは子守、私は捜索って分けてあげたの! 黙って面倒見てなさい、男でしょ』

(いや、そんなとこで男とか持ち出されても……)

『それにあの子、婚姻届も出してないのよ、だからその赤ん坊の出生届も出てないかもしれないでしょ! だったら早く母親探し出してその子の届出してやんないと! 可哀想でしょ!』

(可哀想とかそういう問題ィィィ!?)

『とにかくあんたは子守してなさい。あと、単位とか大丈夫なんでしょうね!? 奨学金切られたら学費出せないから、辞めてもらうしかないからね!』
「寝られねえんだよ! 夜中にぎゃあぎゃあ泣いて!」
『あんたがピリピリしてるからじゃないの? 伝わるわよ、そういうの。寝てほしいって思えば思うほど寝ないからね、赤ん坊なんて』

 また一方的にしゃべりまくって、お袋は突然電話を切った。

「こえーなぁ、女ってのは……」
「うー、」
「風呂入るか。あったまって寝ようぜ」
「うぅー……ぐず、」
「悪い悪い。怖かったか?」
「えーー、ぐずっ……ぎゃあーー!」

 泣いちまった。大声ダメだったっけ。でもこれで風呂入れたら近所迷惑だ。
 仕方ない。散歩に連れ出すか。

 急いで支度して抱っこして、隣近所の目を気にしながら公園までダッシュした。
 ベイビーはビックリしたのか、うんともスンとも言わない。大丈夫か。乱暴すぎたか。

「おい、」
「……」
「大丈夫か」
「……」
「おい!?」
「ンギャァァァ!!」

 死んでない。よかった。マジビビった。優しく扱わねえといけなかったのに。

「ご……ごめんな、」
「ぎゃあァァァ!!」
「どっか、痛いか……って喋れねえよな、」

 生きた心地がしなかった。どっか折れちまったのか? 首なんか傷めてたらどうしよう。
 狼狽えた俺にさらに追い打ちが掛かる。オマワリの職質だ。

「キミ、何してんの」
「あァ!?」
「身分証明書見せなさい!」
「出せるわきゃねえだろ、尻ポケットに財布入ってっから自分で出せやボケ!」
「その子は? どこから連れてきた!?」
「俺の姪っ子だ!」
「うぎゃぁぁぁ!!」
「そうは見えないけど!? ずいぶん泣いてるね!」
「泣いてっからあやしに出てきたんだろが! 泣かすんじゃねえ」

 取られたら、どうしよう。
 コイツを取り上げられたら、どうしたらいいんだ。俺の姪だと証明できる物はない。それどころか俺の母親との関係さえ証明出来ない。取り戻せない。
 たぶん、凄い形相をしてただろう。
 オマワリは身体検査をしたが、その間も俺はベイビーを離さなかった。離せなかった。ここで離したら終わりだと思った。

 学生証の番号だのお袋の連絡先だの、さんざん聞かれてその場は解放された。俺は逃げるように部屋に戻った……今度は揺すらないように気をつけながら。

「やっぱ、風呂入ろう」
「ひぐ、うえっ」
「尻も冷たいよな……ダメダメだな、俺」

 情けなくも目の前が滲んでよく見えない。それでもベイビーを手離せなくて、風呂場まで抱いていって、

(なにやってんだ俺、風呂洗えねえじゃねえか)

 手が震える。どんだけビビってんだ俺。
 パーカーのポケットで、ケータイが震えた。なんだ。誰だこんな時間に。もしかしてみつかったのか、おばちゃんが。

「もしもしッ、」
『あ、とうしろー? 俺おれ』


 金時だった。


 救われた、と思った。


「んだ、酔っ払い。こっちゃ今てんてこ舞いだ、明日にしろ」
『んあー、酔っ払ってるけど。酒入ってるけど正気よ』
「明日にしてくれ!」
『その明日なんだけどさぁ』

 なんだよ酔っ払いめ。だいたい仕事中じゃないのか。俺から連絡は取れなくても、お前は好き勝手に電話してくんのか。俺がやっと寝たかもしれないとは思わないのか。


『ごめん、行けないわ』


 衝撃的だった。
 金時が、来ない?


「はっ……?」
『熱出ちゃって。風邪みたい。ベイビーちゃんに移すとヤバイから、ごめん』
「……」
『とーしろー?』


 声が出ない。
 やっと気づいた。いや、この前も気づいたつもりだった。


「……何度だ」
『んー? まあまあ。一日で治すから。ごめん』
「何度出たんだって聞いてんだよ!」


 俺は阿呆だった。

 俺が夜泣きに悩まされたのはせいぜいここ一週間、それだけでこんなにへこたれてんのに。

 金時は、いつ寝てた?

 夜は仕事して、酒抜くために家に戻って、一睡もしないで俺んち来て、飯作って。笑いながらベイビー抱っこして、俺を送り出してくれた。
 昼寝させないでくれなんて、俺はなにを言った?
 外で遊ばせて、買い物して、飯食わせてミルク飲ませて、

 金時は、寝てない。

「明日だけじゃなくていい……」
『十四郎?』
「ゆっくり、休んでくれ」
『え? どーしたの』
「……悪かっ、」


 最後まできちんと聞こえただろうか。
 そのまま、ケータイの電源を落とした。

「なんだかな。世界におめーと俺だけになったみてえだな」
「うぇっ、えええ……」
「ごめんな……」

 頼りねえ保護者で。
 もしかしたら保護者ですらない。ただの、同居人。

 乳臭い体を抱きしめて、俺はひとしきり泣いた。それ以外思いつかなかった。


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