坂田銀時の約束


※死あり。



「かあちゃん。寒くなってきたよ」

 墓の前で銀時は立ち尽くす。
 愛し、愛された母はとうに亡い。





 親との別れは人より早く来るとわかっていた。それは綾乃に引き取られたときから決まっていたことだった。でも銀時は忘れていたのだ。忘れたかったのかもしれない。

 入退院を繰り返していた母は、そのころ入院したっきり戻ってくる様子がなかった。銀時は高校3年になったのをいいことに人より先に剣道部を引退した。選手が一人抜けたくらいで負けるチームなら負ければいいと思っていた。それより、病院で母に付き添いたかった。
 高校生の身で介護では可哀想だと綾乃は初め断固反対したが、弱っていくにつれ、何も言わなくなった。むしろ銀時に任せきりになった。看護師の間でも銀時は評判だった。高校生の男の子が義母の下の世話まで快く引き受けるなんて、綾乃さんは幸せね。

 だから銀時は、まさかそれが母の死を直接早めることになるとは思わなかったのだ。
 その日、HRを終えて病院に向かおうとしたら、ケータイが鳴った。病院からだった。至急ご来院ください。
 必死で走ったけれど、着いたときにはもう綾乃は眠っていた。

 気管支に異物が詰まったのだという。
 患者の状態はさほど悪く無かったので看護師がつきっきりではなかったし、何より綾乃は銀時を最も信頼していた。苦しいと感じただろうが、銀時が来るまではと我慢してしまった結果、窒息状態で発見された。

「また、俺のせいだ」

 皺の深くなった手を握り、自分の額に押し当てた。普段から冷たかった手は、一層冷たくて、取り返しがつかないことを伝えるばかりだった。

 幼い頃、この手の皺を恨んだことがあった。人より年老いた母を恥じたことがあった。今となってはなぜこのひとを恥じたのか、もう思い出せない。銀時にとって綾乃こそが唯一の家族だった。誇らしい母親だった。



――そういえばどうしてあの時に限って、あれを思い出したのだろう。



 確か小学校の入学式だった。忙しいこの人に無理を言って出席してもらったのに、若い母親たちに混じった年老いた母を、みっともないと思ったのだ。
 それからどうしたんだっけ。
 最初はよそよそしく始まった親子関係は、その頃を境に親密になった。父親はいない。でも、もう一人、

「銀時かい」

 綾乃が薄く目を開けた。慌てて銀時はナースコールを押した。

「おー。何やってんだババア」

 努めて普段通りに話しかけたつもりだったが、声は震えていたような気がする。そもそも自分が進んで身の回りの世話をしたがったから、こんな事故が起きたのだと銀時は悔いた。学校に行っている間は見られませんから、よろしく、なんて。

「バカ息子の泣きっ面見に、ね」
「……」

 笑えなかった。握った手に不自然な力が入ってしまった。ババアとはなんだ。昔はそう叱られたのに。もう言い返してはくれなかった。

ーーなんとなく記憶に僅かな亀裂が入ったような、居心地の悪いかんじがしたのだった。

 でもすぐ無理矢理打ち消した。なに考えてんだこんなときにって。

「かあちゃん、俺は」
「私もさね。言うんじゃない」

 楽しかったよ。
 それが最期の言葉になった。
 高校3年にして、坂田銀時は再び親を亡くした。



 葬儀に来たのは専ら銀時の同級生だった。親族はほとんど来ず、来ても遺言書のほうに用があるようで、銀時に一礼するとすすっと奥の部屋に消えた。
 焦燥した銀時を力づけたのは、

「俺にゃァ想像もつかねえから、下手なこた言えねえけどよ」
「うむ。しかし貴様はよく尽くしたのではないか? 母上が満足されたなら、それが何よりだと俺は思うぞ」
「今はゆっくり休め金時、疲れちょろうが。おんしが潰れちゃァ綾乃さんもゆっくり眠れん」

 例の三人だった。腐れ縁は続くもので、とうとう高校まで一緒になってしまった。合格発表の日、綾乃は病室で腹を抱えて笑ったものだった。またあいつらかい、と。
 とはいえ銀時の交友関係も広がっていた。

「旦那、この度は…」

 剣道部の後輩が挨拶に来た。沖田総悟という、とんでもなく強い奴で、こいつがいたからこそ銀時は早目の引退に踏み切れたと言ってもいい。生意気でドSでめんどくさい奴だが、銀時とは気が合った。いつも茶化し合いしかしてこなかったから、この後輩がきっちり挨拶するのを初めて見た。
 それから同級生の志村妙、新八姉弟。神楽、山崎、猿飛、服部……みな綾乃と会ったことがあり、柩を覗いて涙ぐんでくれた。
 お袋さんは幸せだったと思いやすぜ。
 沖田は滅多に見せない真顔で、静かにそう言った。
 アンタはちゃんと護り切ったじゃありませんか、お袋さんを。




 あれから何年も経ち、同級生たちは散り散りになった。沖田のことばの真意も今となってはわからない。
 母の墓参りに行っては考えるのだ。
 俺は、何かを忘れている。
 沖田の家は名家だったらしく、香典の桁が余所と違ったのが印象的だった。間違ってねえ? と葬儀の後思わず確認したほどだ。沖田はニコリともせず、合ってますよ、と言った。おめーだけ香典返しが別物になっちゃうんだけど、なんて冗談混じりに言ったら『じゃあおんなじモンでいいんで、二個ください』と答えた。本当にそれでいいのかと聞いたらそれが何よりだという。おかしな奴だった。
 だがあのときは簡単に済んだその気持ちが、今頃不思議に思えてくる。

 母の最期の日、感じた記憶のひび割れ。

 幼稚園以来の悪友たちに聞いても、心当たりがないという記憶。

 ああ、いくつになってもわからないことだらけだ。
 幼い頃は大人になったら何でもわかって、何でもできると思っていた。カッコイイ大人になる予定だった。でも、現実はどうだ。カッコイイとはどういうことだ。

 今日も銀時は仕事に行く。何の変哲もないサラリーマンだが今どき仕事があるだけありがたい。桂なんか失職してバイトしてるって言ってた。あのかあちゃん(?)を、今度は自分が養うために。
 高杉さえ人の下に付いて働いている。頭下げんのァタダだしよ、と言いながら憮然としていた。
 銀時も例外ではない。俺のせいじゃねえだろ、と怒鳴りつけたい場面でもぐっと堪えることにも慣れた。

 (筋が通ってりゃいいんだ)

 細かいことにはこだわらない。ゆえに『坂田を怒らせたら終わり』と周りからは密かに恐れられているようだった。
 それでも腹が立たない訳ではない。気分が収まらないときは、コンビニの棒アイスを食べる。昔、母と一緒に食べたように思うのだが、生前母に聞いたらそんなことはないと言った。確かに母は冷え性で、夏でもホットコーヒーを飲んでいた。



ーー俺の頭下げて済むなら安いもんだ



 会社に『帰りが遅れる』と電話しようと携帯を探った。だが今日の相手は少し酷かった。いったん落ち付こうと、携帯はやめて煙草を取り出し、火をつけた。
 何気なく道路の向かいを見ると、自分が吐き出した紫煙越しに



 サラサラの、黒髪が、



『絶対探す。これで最後なんて許さねえから』

 どうして忘れていたんだろう。
 いつから忘れてしまったんだろう。あのひとを、探すことを。

 居なくなってから彼のことを調べた。
 小学三年生にできることなんて、ほんの小さなことだったけれど。でも、あのひとが徹底して跡を残さなかったことだけはわかった。あれほど一緒にいたのに、写真の一枚もなかった。忘れ物はもちろんなく、彼が使っていた部屋には塵ひとつ落ちていなかった。
 彼のことを聞けば綾乃は悲しむだろうと銀時は思った。綾乃もまた、彼を気に入っていたようだったし、何より自分が義母よりベビーシッターを気に掛けているのを知られないほうがいいような気がした。だから、いよいよ手掛かりが見つからなくて最後の手段とばかりに綾乃に尋ねたときには、もう遅かったのだ。

「土方の連絡先? ああ……、どうしたっけね」

 義母がそういう類の物を失くさない人だと、その頃すでに銀時は知っていた。二人で懸命にあちこち探し回ったのに、それは遂に見つからなかった。その頃からだ、彼の記憶が急速に薄れてきたのは。
 銀時が中学生になる頃には、もう話題に上らなかった。高杉や桂もすっかり忘れていたようだったし、辰馬はできたての彼女に夢中だった。
 彼らはその後何回か女子とつき合ったり別れたりを繰り返していたが、銀時だけはカノジョと言われる人を作らなかった。モテなかった訳ではない。現に告白は何度もされたが、その度に(この人じゃない)という思いが渦巻いて、踏み切れなかったのだ。

『テメェ、そのうちホモって言われるぞ』

 高杉が呆れて言って寄越したのは、既にそういう噂が出回っていたからかもしれなかった。でも、好きになれないものは仕方ないではないか。

『べっつに。あ、もしかして俺に惚れられたらどうしようとか思ってる?』
『阿呆。惚れたら万斉に始末させらァ』

 高杉は笑った。河上万斉は高杉が小さい頃からの世話役で、そのころには友達付き合いに近い関係になっていた。
 万斉、と高杉が呼ぶたびに銀時はどこか羨ましくてならなかった。何が、まではわからなかったけれど。


 わからなかったのではない。
 忘れてしまったのだ。
 こんなに大事なことを。


 距離を忘れた。信号を無視して道路を横切り、黒髪の持ち主に手を伸ばす。クラクションが鳴り響く。
 あの日流してくれた涙を、あなたは覚えていてくれるだろうか。
 忘れ去っていた日々を許してほしい。

 今度こそ、絶対に離れない。

 振り返った黒髪が、予想とは全く違う顔だったのを見たのが、銀時のこの世で最期の意識だった。




『なあ、おまえひじかたのなまえ、しらねーの』
『ひじかたはひじかただろ』
『ちがうぞ。ばんさいは、かわかみっていうんだ。でもおれはなかよしだから、ばんさいってよべるんだ』
『……ふーん』
『ひじかたにきいてみろよ』
『うん。きいてみる』



「十四郎……ッ!」





 坂田銀時、死亡。享年32。


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