8 土方、去る


「もう少し、続けておくれでないかい」

 綾乃はこの男の強情さを知っている。だからこそ、こちらも強引に頼み込まなければこの男を動かせないことも知っているつもりだった。
 けれども土方は頑として首を縦に振らなかった。

「長居しすぎました。お暇を頂戴します」

 土方は仏頂面のまま淀みなく言い切った。営業用の笑顔さえ消えていた。




 銀時は三年生になった。
 『土方』と書けるようになったし、背も伸びた。一人で風呂にも入れるし、スプーンの持ち方どころか箸もきちんと持って溢さない。着替えもできるし、引き出しのどこに何が入っているかちゃんと知っている。
 もう、赤ん坊ではないのだ。

 「土方……やめちゃうの?」

 土方が身の回りの物を片付け始めたのを、一番に見つけたのも銀時だった。
 あのカップも、もうテーブルに出てこない。土方は自分で珈琲を注ぐ。新聞はマガジンラックに取りにいき、読み終わったら戻しにいく。何より、一緒に寝てくれなくなった。

「ベビーシッターだからな。テメーはもう赤ん坊じゃねえ」

 よそよそしく土方は言う。改めて銀時に、クローゼットを開けろ、と言いつけた。
 銀時は嫌々開けてやった。
(開けるだけ。手伝ってやんないから)
 だが改めて考えるまでもなく、土方のクローゼットに入っている物が全部、土方の旅行カバンに入るはずがない。別に荷物を作るのだろう。絶対手伝わないからな。

 ところが銀時が扉を開けるやいなや、クローゼットは空になった。銀時はは目と、そして口も全開で土方の手元を見た。ちょうど土方がカバンを閉じるところだった。

「え……、終わり!?」
「そうだ。見りゃわかんだろ」

 見回せば部屋は空だった。
 ほんの一瞬で、土方がここにいたしるしは何一つなくなった。
 本当に、出ていくんだな。
 銀時は土方の手を握り、じっとその顔を見た。これで、最後なんて。

「次に行くウチ、決まってんの」
「まだだ」
「決まるまで……いてくれねえの」
「ここ出ねえと次が決まらねえ」
「じゃあ! ずっといれくれりゃいいじゃん!」
「馬鹿かテメーは」

 土方は鼻で笑った。そして銀時を見下ろし、開いた瞳孔で銀時をその場に縫いつけそうな顔で言った。

「テメーが如何にベビーか、教えてやるっつったろ。テメーはもうそれを思い知ったはずだ」
「……」
「それがわかったら、もう赤ん坊じゃねえ。俺の役目は終わりだ」
「……もう会えないの」
「たぶん、な」

 銀時は土方の手を握り直した。目の奥が熱くて、痛い。喉が苦しい。

「銀時。俺が最後に教えられるとしたら」

 土方の手が銀時の髪を撫でる。ゆっくり、何度も。

「テメーの髪の色、目の色。そいつァとてつもなく綺麗だってことだ。好きだぜ、それ」

 ひくっと銀時の喉が鳴る。もう何も言えなくて、銀時は強く土方の手を引いた。土方に抱きつきたくて。ぎゅうっとしたくて。
 なのに土方は動かないのだ。

「俺はいつでもテメーと対等に立ってただろう? テメーもいつか、誰かを」


 かち、と音がして、銀時は再び目を見張った。
 土方が銜え煙草で、白い煙を吐いていたのだ。
 銀時はなんだか眠くなってきた。土方が行ってしまう。しっかりしないと、土方はいなくなってしまう。なのになんで急に、

「土方、」
「なんだ……おい!?」
「土方が立ってんなら、おれが大きくなればいいんだろ」
「危ねえだろがオイ!?」

 銀時は重い瞼を持ち上げて、ベッドを踏み台に土方の首にかじりついた。
 それから土方の頬に、まだ柔らかい唇をそっと押し当てる。


 土方は動かなかった。


「絶対探す。これで最後なんて許さねえ」

 土方の首にしっかり腕を回し、耳元でやっとのことでそれだけ言うと、銀時の瞼は完全に下りた。
 最後に見たのは土方の、ほころぶような笑顔と、黒い睫毛に溜まる水滴、そして


 ーーありがとう





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