番外. センセイ


 転職する、と先生はいきなり言う。

 相談ではなく決定事項だった。説明もなかった。


 ゴリラが異動になるらしい。
 俺たちの関係がバレてから二年。ゴリラと先生は長くいたほうなんだそうだ。言われてみれば、あの学校にもう知ってる教師はいないかもしれない。
 あのとき俺は別れるつもりだった。でも、止められた。他ならぬ先生に。どういうつもりかイマイチわからないけれども、まだ一緒にいていいらしかった。
 先生は大人だ。俺も成人したが、それよりもずっと大人だ。恋愛にそれほどテンション上げられない的なことは言ってたし、大人はそうなんだろうなと思う。年齢じゃなく性格の違いだって言ってたっけ。ああそう、とすぐ頷くことはできなかった。
 そして大人は小狡く立ち回る必要があるのだと、俺はゴリラに諭された。
 あの後しばらくして俺を飯に連れ出したゴリラは、悪そうな笑みを浮かべて言ったんだ。

『お前とトシの関係はわかったし俺としては問題ない。だが職場ではちょっと厄介なことになってる。そこで依頼だ――トシがお前の日本での保護者って嘘、つき通させてもらう。認めてくれ』

 報酬はトシとの生活だから、悪くねえだろ?とゴリラはしれっと言い切った。こいつ善人百パーセントみたいな顔して案外悪いヤツだと、俺は卒業して初めて知った。
 先生が俺と別れればそんな嘘は吐かなくていいのでは、と言うとゴリラは嫌な顔をした。

『やめてくれよ、トシってばそんな嘘吐くくれえなら辞めるって駄々こねてよ。やっと宥めたとこなんだから。おめーまでややこしいこと言わねえの』

 それでやっと、先生が本当に俺との生活を継続したいと望んでいるらしいと少しだけ思えた。
 先生の口からそう言われても、俺は少しも信じられなかったから。
 先生がゴリラやジミーに俺との関係をぶちまけたことにも驚いたし、俺が出て行こうとしたのにわざわざ引き留めたことにも驚いた。そして考えた。

 積分、て言ってたっけ。

 あのとき俺はぶっちゃけそんなに深く考えて言った訳ではなかった。俺と先生の関係が放物線みたいだと思ったのは本当だ。放物線てのは点の集合体なわけだが、ある一点は『そこから下り坂になる』という決定的な分岐点になる。でもその点は自分が分岐点になったことに気づけるわけもないと思うんだ。数式だからね。そんなことあるはずがない。
 なんでか、俺は自分と先生の関係の熱量を放物線に重ねていた。始まるはずのない曲線だった。あの日何故か先生は俺の呼び出しに応じた。その後もノコノコやってきて、俺のとりとめもない話を聞いて笑ってくれた。初めてセックスした日も、俺はまさか着いてくると思ってなかった。ダメ元で誘ったら着いてきて、信じられないことにコトは済んだ。次も、その次も、あの人は拒まなかった。
 理由が全くわからなかった。その理由がわかるまで、そばにいようと思った。松陽はさすがに反対して、俺を自分と同行させようと説得に掛かった。

『あなたは自分のことですからね。自分で尻拭いもするでしょう。でも、先生はそうはいきません』

 社会的に失墜したら、あの人の人生は台無しになる。俺にその責任は取れるのか。
 では、社会的に失墜する前に離れれば。それか、放物線が下りになったと気づいたときに。

 それは同時にやってきた。
 俺は、かねてから計画していた通りに出て行くことにした。
 なのに。
 いてほしいのだと言う。
 ずっとここにいろ、とあの人自身が言う。
 この言葉を、俺は鵜呑みにしていいのだろうか。
 やっぱり俺は、松陽と日本を出るべきだったのではないか。


 などと思いつつ一緒にいていいと言われれば出ていく決心はヘナヘナと鈍り、俺は今日も惚れた男に飯を食わせる始末。
 ゴリラが異動になったって、もっと言えば先生だってどこかに異動になったって、転職する必要があるのか。教師を辞めるってことだよな。どうしてそんなに簡単に投げ打ってしまえるのか。
 全然わからない。わからないことだらけだ。



「あ? だから教職に執着はねえんだって言わなかったか」

 目つきの悪い先生は咥えタバコで不機嫌に言う。

「聞いてねえ」
「言っただろう。なんでお前は就職しなかったんだって聞いたとき」
「……ああ。でもあれって」
「本心だ。大した理由はねえんだよ」

 不機嫌に眉を寄せたまま、先生はふふ、と柔らかく笑った。器用な人だ。

「近藤さんに誘われたからやってみただけだ。たまたま同じ職場になれて、あの人と仕事ができたのは有意義な時間だった。だが異動でバラけるならそれも終いだ」

 それに、思ってた以上にブラックな職場だったしな、と先生は肩を竦めた。

「テメェがいなかったらとうにぶっ倒れてたよ俺は」

 そう言ってそっぽを向いたその人は、それからその日はほとんど口を利かなかった。世にも珍しいデレだと気づいたのはその人がすっかり寝入った夜中になってからだった。


 そうして先生は週末に必ず家にいるようになり、盆暮正月休みやら有休やらを駆使するようになった。一方の俺はカレンダーなんてない仕事だから、暇なときは平日だって家にいるし依頼があれば曜日関係なく出掛けていく。
 今までになかった、先生だけが家にいる、というシチュエーションが増えた。
 寝ててくれればいいと思った。疲れ切った先生しか見たことがなかった。せっかく定期的に休めるようになったのだから、日がな一日寝て過ごすとか、とにかくゆっくりしてくれればいいと思った。
 なのに俺が帰ってきたら、どういうわけか飯ができていた。

「……え、どゆこと。先生が作ったの?」
「悪かったな! 料理なんかしたことねえんだよ」

 咥え煙草をピコピコ揺らしながら先生は唸った。ああそっか、チャーハンとか簡単そうに見えるもんな。

「見た目はアレだがマヨネーズ掛ければ美味」
「イヤいい。このまんまいただきます」

 やたらマヨを使いたがるのは困ったもんだったが、それからも先生は懲りずにキッチンに立つようになった。
 俺がやるからいいと言っても聞かない。
 その次はルンバなんか買ってきた。コイツを使うからには、とか言って部屋の片付けまで始めた。

 なんだこれは。この変化はなんだ。
 俺はどう振る舞うのが正解なんだ。

 セックスすればいいのか。あれからしていない。なんだか手を出していい人とは思えなくなっていた。たまに先生から誘ってくるのはどういう意図なのか俺には理解できなくて、ただ抱きしめて眠るのが精一杯だ。
 食事作りも、掃除も。俺の存在意義ではなかったのか。あの人はその気になれば自分で出来る、と言いたいのか。
 無理して、俺といるのではないか。
 無理だと気づいたから、一人で生きていく準備をしているのではないか。
 セックスは最後の駄賃みたいなもんで、そりゃ一人になったら絶対にできないコトだから今のうちに、とか。
 それが証拠に先生は、俺の役割に侵食してくる。俺はどうすればいい。俺は自分の立ち位置が把握できなくなって、途方に暮れるのだ。

「お前な、」

 差し向かいで飯を食うとき、無意識に俺は先生の茶碗を見つめていた。お代わりをすぐよそえるように、先生の食の進み具合なんかもぼんやり見ていたんだと思う。
 先生は眉を寄せて不機嫌に言った。

「俺のことはいいから、自分の飯に集中しろ。高校生だってそんな注意されねえぞ」
「え……あ、ごめ」
「そうじゃない。謝れって言ってんじゃねえ」
「……」
「坂田。いや、食ってからにする。とにかく、しっかり食え」

 食い終わるとなあなあに引っ込もうとした俺を殊更に引き留めて、座れ、と自分の席の前を顎で指す。こういうとこ教師だよな。

「何を考えてる」
「え? イヤ特に」
「とりあえず今頭に浮かんだこと言ってみろ」
「えー……寝たい、かな」
「俺とか」
「えっ。じゃなくて、ね、眠りたい、と……」
「もしかして俺は」

 そこで先生は、珍しく下を向いて考え込んだ。
 いつも真っ直ぐ前を向いている人だと思っていた。だから珍しいな、と感じた。でも本当に珍しいのか。俺はこの人のこの顔を、本当に見たことがなかっただろうか。

「俺は……あのとき、無理にお前を引き止めたんじゃないか」

 少し掠れた声で先生はやっと言った。

「そんなことあるはずねえだろ。それは俺のセリフだ」

 思わず口から溢れていた。
 そして思い出した。



 ちょっと寄ってこうぜ、とあの日俺は言った。
 殊更に何気ないふうを強調して、ホテル街へとこの人を誘い込んだ。この人だって知っていたはずだ。その界隈がそういうエリアであることを。それでも、この人は俺に着いてきた。
 珍しく俯いて、切れ長の眼をそっと伏せながら。
 優に十秒は黙っていたと思う。十秒じゃなかったかも。とにかく並ぶラブホの二、三軒は通過した。そして四軒目辺りで、ああ、と言った。いつも俺たちを叱り飛ばしていた張りのある声じゃなく、消え入るような、掠れた囁き声だった。
 きっと後悔しているだろうと思っていた。だから次の誘いは断られるだろうと勝手に絶望していた。それでも誘わないという選択肢はなかった。もう一度会いたかった。詫びろと言うなら、詫びる機会を与えてくれるなら、気の済むまで謝ってせめてこれからも顔を見たいと願うつもりだった。
 でも、二度目があった。三度目も、四度目も。そして、一緒に住むことまで許された。その頃にはもう先生は俯かず、けれども重苦しい顔をするようになっていた。


「先生こそ……そもそも俺、無理に誘ったよな。断れない空気にしちまったし」
「は? なんのことだ」
「そもそもっつったろ。いちばん初めに、俺が、あの、えっと」
「初めて寝た日ってことか」
「……まあ、ソウデス」
「気が進まねえ誘いなら即お断りだ。今も昔も」
「えっ。でも」
「元とはいえ生徒だからな。そこはどうしても迷いがあった。だから即答できなかった」
「……」
「それだけだ。だけっつってもそこはデカかったけどな。生徒と寝てることに罪悪感はあった。けっこう長いこと」
「……」
「流されたと思ってたこともあった。ぶっちゃけテメェのせいにしてた」
「……実際俺の、」
「違う。違ったんだ。ずっとお前のせいにしてた。でも、違う。俺は」

 先生は、突然柔らかく目を細めた。

「お前に補習するのが楽しみだった。妙な質問してきたと思ったら突然飲み込みやがって、頭おかしいんじゃねえかと思った。それでも、嬉しかったんだ」

 その指が、そっと俺に伸びてきて、俺の髪を遠慮がちに掬う。

「お前が理解してくれて、まああんまり嬉しそうな顔はしてなかったが……俺の言葉を理解してくれたのが、本当に嬉しかった。理解してくれたのがお前でよかったと思ったんだ」

 だから、あの日から始まっていた、とこの人は言うのだ。

「お前の言ってた放物線のy軸が<0になったのは、初めて寝た日よりずっと、ずうっと前だった。そんなことに俺は気づかなかった。お前が出ていくって言う、あの日まで」


 しばらく二人とも無言だった。
 俺はこの人の言うことを半分も理解できていなかったと思う。でも、確実なことがひとつあった。
 この人は、正真正銘の一所懸命だということ。
 教室で、なかなか飲み込まない俺に半ギレで説明したときとまったく同じ熱量を持って、命を懸けて話しているということ。あのときと同じだから。
 嘘を俺に語るのに、そんな熱量は必要ない。ということは。

「先生は、俺のこと好きなの」

 それが、正解なのではないだろうか。


 はあ、と盛大なため息が漏れた。

「そこからかよ」

 先生はガックリと項垂れた。

「そうじゃなかったら引き止めたりしねえだろうが」
「いたほうが便利、とかさ。俺がいたからギリギリ健康だったみたいなこと言ってたし」
「……遅ればせながら自炊もできるようにしてるだろ」
「うんホントに遅ればせだよね。マヨは食材じゃないからね。それはいいんだけど、自炊できたら俺は要らないんじゃねえの?」
「家事要員が欲しいんじゃねえってことをだな、ああもう! なんでこんなことまで言わなきゃなんねえんだ」
「で、どうなの。先生は俺のこと好きなの」

 今度はクソデカ舌打ちが聞こえた。
 あくまで言わないつもりらしい。
 でも、わかった。理解した。
 俺はここにいていいのだと。

「それから」

 答えないくせに舌打ちついでに言葉を継ぐ人。

「先生はやめろっつったろうが」
「先生だって坂田って言うじゃん」
「サカタはまだ名前だろう。センセイなんて名前ですらねえ」
「土方って言うと怒られてたからさぁ」
「……呼んだことあるだろうが」

 チッ、と舌打ちをもうひとつ。
 かつて一度だけ呼んでみたことがあった。馴れ馴れしすぎたとたちまち引っ込めた、その呼び方を、覚えていてくれた。
 ああ、俺は本当に、この人の隣にいていいのだと納得する。


「じゃあ俺のことも銀時って呼んでよ――十四郎」



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