13


 もうこれでいい、と思った。
 充分にこの身体に刻まれた。いっときでも愛された証を。

『ちゃんと好きだから。安心して、イけ』

 これ以上の幸せが、あるとは思えなかった。
 次は男を満足させてやらねばと、怠い体を叱咤して身を起こせば、男は笑って俺を引き寄せた。

「今日はおしまい。疲れただろ」
「……嫌だ」

 約束に従って、俺は抗議の声を上げる。嫌だ。だって明日には、お前は居なくなってしまう。
 覚悟していてもその現実は堪えた。声が震えたのに目敏く気づいた男は、優しげな声で俺を呼ぶのだ。

 とうしろう、と。

 それで、失態を犯したことを悟った。
 ついに明るみに出てしまったのだ。密かに、本当にごく密やかに、男の名前を呼んでいたことを。
 万事屋と呼べなくなって、俺はあの男になんと呼びかければいいのかわからなくなってしまった。他の……万事屋の二代目とチャイナ、大家一家が特別なのは理解できるが、他の奴らでさえ大抵『銀時』と呼ぶ。桂や高杉も『銀時』と呼んだ。もっとも高杉のは憎々しげで今にも噛みつきそうな『銀時』だったけれど。
 誰も、あの男が『万事屋』ではなくなったことに気づかないようだった。気づいても気にも留めていないらしかった。俺だけが違和感に怯えた。こんな扱いをしては、今にあの男はこの街を見捨てて出て行ってしまうのではないかと、なぜ誰もその危険性に気づかないのかと、そればかり恐れていた。
 それに、呼び名がないのは寂しかった。
 だからこっそり練習した。ぎんとき、といつか自然に呼べるように。
 俺にとって下の名前を呼ぶことは、別の意味しかなかった。相思相愛と呼ばれる夢のような関係になった暁には、晴れて親しげに下の名前で互いを呼ぶ。現実にはあり得ない妄想が邪魔をして、恥ずかしすぎてろくに発音することもできない。いつしか心の中で、ぎんとき、と呼びかけるだけで満足してしまうようになった。
 思いがけず生身の『銀時』と肌を合わせることになったとき、当然俺の口が普段の訓練通りその名を紡ごうとするのを、俺は必死で食い止めた。
 どういうつもりであの男が俺のカラダに興味を示したとしても、名前を呼ばれるような『つもり』ではあり得ない。
 だから歯を食いしばった。だだ漏れそうになったときは、男を遠ざけた。そのせいで不興を買うのは心切られる思いだったが、気味悪がられるよりましだった。重い、と遠ざけられるより百倍ましだった。
 だが、ついにバレたのだろう。
 だからこれ以上の関係はもう、やめようということだろう。
 最後の最後に、締まらないことだ。
 だが、この身体の記憶は決して忘れない。

「わかった。終いにしよう」
「あれ? 案外聞き分け良く……まあいいや。こっちおいで」
「……?」
「今日は一緒に寝よ。明日、ゆっくり話す」

 言うそばから男は俺を抱き寄せて、みるみる腕の中に閉じ込めてしまう。俺の頭を大切そうに抱きかかえ、ゆっくりと髪を撫でるのだ。

「あした……?」
「そ、明日。だから今日はおしまい。おやすみ」

 背中を優しくあやす単調なリズムに、張り詰めていた神経がつい緩んでしまい、だめだ目を覚まさなければ、と自分を叱咤したのが最後の記憶だった。



 次に意識を取り戻したときはもう、日が高く昇っていた。
 血の気が引きかけて、部屋にもう一人の気配がすることに気づく。味噌汁の匂いがする。魚の焼ける匂いも。
 腹の虫が音を立てた。

「とうしろ、起きてる?」

 よく知った声が浮き浮きと呼びかけてくる。夢ではないだろうか。

「十四郎。まだ寝てっかな……」

 掛け布団を捲られ、慌てて目を閉じようとしたところをしっかり見られてしまい、笑われる。

「目ェ覚めたなら、飯にすっぞ。あとで一緒に買い物行こうぜ。冷蔵庫ん中、もうマヨネーズしか入ってねえよ」

 一緒に、買い物?
 なんのために?

 どっか辛いか、と本気で心配し始めたので、急いで起き上がる。昨日無理をされなかったせいか、体が痛むことはない。
 起きた俺を見て、男は嬉しそうに笑った。そしてごく自然に唇を寄せる。思わず目を閉じてそれを受けながら、これはどういうことだろうと自問自答するが当然答えなど出ない。
 食卓へ連れ出され、未だ嘗て見たこともないほど美味そうな白飯に味噌汁、焼き鮭が目に入っても、夢か現か迷う始末。終いに男が笑い出し、とにかく飯は食え、と叱られた。



「昨日のことだけど」

 食後の茶もちゃんと出てきた。ただし飲む隙もなく、後ろから全身を抱き取られてしまった。顔が見えない。

「俺言ってねえな、考えてみたら。昨日出かけてたのは」
「知ってる。快援隊が来てんだろ」
「……だよな。あいつ真選組に顔出したよな」
「……」
「あれ、でももう出たよ? それは知らねえの?」

 くるりと体を返されて、突然銀の髪と紅の瞳が目の前に現れる。なんだか胸が詰まって声にならなくて、首を縦に振って答える。

「出航した。昨日のうちに」
「……」
「一緒に行くつもりだった」
「……」
「でもやめた。俺、ずっとここにいる」
「……」

 にわかには信じられない。
 なによりもその言葉を望んでいた。
 本当に、お前の口からその言葉が聞けるとは思いもしなかった。
 嘘ではないのか。一時の気休めでは。
 
「お前のおかげだ」

 男は俺の目の下を撫で、目ン玉溢れそうだな、と苦笑した。

「お前の、声を聞いちまったから」
「……こえ?」
「電話してきただろ。いつもメールなのに」

 昨日の朝、俺が何の気なしに掛けた電話か。あれが、分かれ目だったのか。

「まあ他にもいろいろあったんだけど。お前の声には、どうしても嘘がつけなかった」
「……なんで、」

 言い繕って黙って消えてしまえば俺にはどうしようもなかったのに。
 男は少し考えて、じっと俺を見つめ、やがてゆるりと頭を引き寄せて肩に顔を埋めさせた。

「嘘ついて黙って消えたら、おめーの中で俺は、酷い奴ってことになっちまうから、かな」
「……?」
「おめーに嫌われんのは、どんなに俺がヤサぐれてても、堪えるんだよ」
「……それ、は」
「だから昨日言ったろ。これはちゃんと言ったぞ」

 温かい手がそっと肩を包み込む。頭も、背中も、すべてが包まれる。

「好きなんだ。色恋みてえな甘ったるいカンジじゃねえかもしんねえけど、おめーに嫌われたらハラわたねじ切られそうに痛えの。どこに居たって、それこそ宇宙の果てに居て俺を嫌ってるおめーに会うことはなくても……痛くて堪んねえんだよ」

 背中に回った手に、力が篭る。

「おめーに好かれてねえかも、なんてビビって日和って言い損ねてた」
「……」
「そのせいで、おめーが辛え思いしてたって、昨日やっとわかった」
「……」
「これからはここにいる。この街に。ここには万事屋があるし、」


 よろずや。おれの、ほしかったもの。
 ああ、帰ってきたのか。今度こそ。


「お前がいるから。十四郎」


 身体を起こそうとすると、慌てたように俺の腕を支えてくれた。その手を取る。温かくて、大きな手だ。
 この手は、かぶき町で、よろずのことを引き受けてくれる手だ。

「万事屋」

 ああ、お前にはそれがいちばん似合う。
 何でも引き受け、何でも懐に入れる万事屋、坂田銀時。
 帰ってきたんだな。俺たちの街に。
 俺の居るところに。


 万事屋の腕の中に自分から身を沈めると、万事屋はちゃんと受け止めてくれた。




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