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 朝の定時連絡を入れる。今日は仕事も暇だったので、メールではなく電話をしてみた。

『……珍しくね。電話』

 小さなカラクリの向こうで、最近では聞き慣れた声が驚いている。そうか。メールで済ますことのほうが多かったかもしれない。これからは気をつけよう。

「特に意味はねえんだが……飯は食ったか」

 朝礼が終わった直後。この男にしては早朝なのではないだろうか。
 嫌な予感がした。

『飯? や、まだだけど、うん、適当にすっから』
「どうした」
『うん、いや、特には……今日はどっちで寝んの』
「そっちに帰ろうかと思ってる」

 帰る。
 俺の住まいは屯所ではなくお前の元であるはずなのに、帰るという言葉に未だに違和感がある。

『あー……そうか、何時ごろ?』

 やけに歯切れの悪い応答。嫌な予感しかしない。

「普通に定時で終わるから、遅くても六時までには」
『そっか、そうだよな……あのな、』

 何度か言い澱み、それでも男は直ちに腹を括った。

『俺、出かけてっかもしんねーし遅くなるかもしんねー……あ、でもその、ちゃんと帰るから、ってガキじゃあるめーし心配とか、しねえよな?』

 声が出ない。
 土方? どした? とカラクリの向こうから何度も呼びかけられる。これは、本当にあの空間からの答えなのだろうか。もう取り返しのつかない遠くから偽りの答えを吐いているのではないか。
 わかった、と答えるのがやっとだった。本当は少しもわかっていないのに。わかりたくなんてないというのに。


 酷い顔だ、と近藤さんに見咎められた。

「帰れ。こっちの部屋じゃなくて、自分ちに帰って休めよ」

 自分の家。それはすでに安息の地ではなくなった。
 だが、俺が無責任に始めたことは俺が終わりを見届けなければならないのかもしれない。
 とりあえず今すぐ帰れ、詳細は家に着いたら連絡くれと言われ、半ば強制的に帰らされた。私宅の扉を開けると、すでに無人だった。まだ午前十時。いつもなら充分に眠っている時間なのに。
 誰もいない空間は静か過ぎる。気を取り直して近藤さんのケータイを鳴らすが、こちらも出ない。急ぎの用が入ったのか、誰かが急遽面談に来たのか。副長たる俺が休むわけにはいかないのだろうが、居たって役に立つ自信がない。
 朝の日差しは明るいようでいて、薄く頼りない。あの馬鹿、ちゃんと内見しろって言ったのに。もっと日当たりのいい部屋を見つけてやれば良かった。もっと住み心地の良い場所に住まわせてやれば良かった。
 一人きりの空間は、あまりにも寂し過ぎる。
 あの男はずっと一人で、こんな時間を過ごしていたのか。
 なんということを。俺は、あいつに、なんということを。

 いつかあの男が灯りもつけずにぼんやりと座り込んでいた場所に座ってみる。何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。俺は何一つ聞いてやらなかった。何一つ知ろうとしなかった。俺が知っているのはたったひとつ、俺が想うほどにあの男は俺を想ってはいないということ。だがそれがなんだ。俺の想いは無様なほど重たいのに、同じ気持ちになれなどとどうして言えようか。同じではないことを、なぜこれほど恐れたのか。そのせいで、すべてを失おうとしているのに。

 着信音が鳴る。近藤さんだ。ぼんやりと、習慣に従って指を動かす。

『トシ? ごめんちょっと来客中だった。着いた?』
「……ああ」
『その調子じゃダメそうだな、とりあえず三日で足りるか?』
「……ああ」
『足りなかったらまた連絡ちょうだい。一カ月くれえなら融通すっから任せろ』
「……ああ」
『何があったか知らねえが、上手くいかなかったら話聞くくれえはするぜ』
「……ああ」
『でも今日は悪ィが電話出られねえこと多いかも。快援隊が今朝早くに着いて、一応会っときてえって。さっきの客も副官どので』

 そこから先はよく覚えていない。
 ああ、だからか。
 だからあんなに苦手な早起きをして、珍しく出かけていったのか。
 とうとう出て行くのか。この部屋どころか、この星を。
 遠く、遠く、手も、声も届かない場所へ行ってしまうのか。
 俺には、何もできなかった。
 なにひとつ、できなかった。



 宙に行くことにしたよ、と男は言った。顔は良く見えない。ただ吹っ切れたような笑いを浮かべていることだけはわかった。

 行かないでくれ、と俺は縋る。ここにいてくれ、もう俺の知らないどこかへ行かないでくれ、と。
 男は首を傾げる。

「俺がいなくなると悲しい?」

 急いで頭を縦に振る。一度では足りない気がして、二度三度と振り続ける。
 男が覗き込む気配がする。

「じゃあ、おめーは代わりに俺に何をしてくれるの?」

 ――ああ、何も。
 俺には何もできない。

「土方。ひじかた」

 なんでもしたいのに、何もできない。

「ひじかた。起きて」

 目を開けたらあいつのいない世界かもしれないのに。

「ひじかた。起きねえとキスすんぞ」

 思いがけない近さから声がして、同時に温かい息が顔に掛かって、俺は仕方なく目を開けた。

「あ、起きた」

 銀色の髪が、闇の中でもはっきりと見えた。思わずその銀色に向かって手を伸ばす。柔らかな感触が手のひらを伝って、遅まきながら脳に達する。
 今度こそ目が覚めた。
 夢か。

「どした。布団も敷かねえで」

 辺りはすっかり暗くなっていた。眠っていたのか、気を失っていたのか。自分でもよくわからない。

「遅くなってごめんな」

 男の手がそっと俺の髪を撫でる。それから少し下がって親指が頬を拭う。それで初めて濡れていたことに気づいた。

「そんなに心配すると思わなかった」

 心配、は通り越した。
 どんなふうに話をつけてきたのか。いずれにしろ、ここは出て行くのだろう。行ったきりにしなかったのは、朝に俺と交わした約束のせいだろうか。だとしたら嬉しいが、そんな抵抗はもはやなんの役にも立たない。
 どうせ離れてしまうなら。
 せめてこの身体に、この血と肉に、記憶を刻んではくれないだろうか。
 恐る恐る、男の首に腕を差し伸べてみる。
 驚いたのか、目を見開かれたが拒絶はされなかった。良かった。それどころか柔らかく背中を抱き返してくれた。

「抱いてくれ。俺を」

 泣き潰した喉では届くか怪しかったけれど、耳元で言えばきっと届く。


 男の腕に、力が籠もった。




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