てっきりもう関係は終わったと思っていた。
 なのにあの男は、いつもとまるで変わらない様子で、当然みたいな顔をして俺の隣に座った。別人がすり替わったのではあるまいかと、思わず手近にあった手に触れてしまった。だが男は少しは驚いたふうだったものの特に嫌な顔もせず、どうした、と問いかけてきた。
 俺の口から無意識に詫びの言葉が出てきたが、自分でもどれを謝っているのかよくわからない。突然触れたことに対する謝罪なのかもしれないし、前回取り乱したことかもしれないし、そもそも俺が烏滸がましくも関わろうとすることこそ深く詫びなければならないのかもしれなくて、答えに窮して無意味な言葉を虚しく吐き出す。
 呆然としている間に男はすっかり寛いで腰を落ち着けてしまう。そしてあろうことか、『引っ越すわ』と、いとも簡単に宣言するのだ。

 どういうことだ。またどこか遠くへ行こうとしているのか。ああ、だからか。『もうやめよう』と宣言した相手でも、仮にも肌を重ねたのだから、顛末くらいは知らせておこうということか。だからわざわざ隣に座るのか。
 そこまで覚悟して諸事情を聞き出してみれば何のことはない、同居人の娘を気遣って別居しようという、俺にしてみればなんとも下らない理由で腰が抜けそうになった。
 あいつらにはわからないのか。
 そんな下らない理由でこの男を手離せば、二度と戻ってこなくなるかもしれないということが。
 万事屋という呼び名はすでにこの男だけのものではない。それは、あの青年を指し始めている。俺にとっての万事屋は唯一この男だというのに、俺が『万事屋』と口に出すと、『それはどっちの?』と尋ねられる始末だ。どっちとはなんだ。万事屋は万事屋だろうと言い募っても相手は戸惑うばかりで、ますます俺の絶望は深まっていく。
 そんなふうに、ただでさえ危ういというのに、今この男を『万事屋』から放り出したらどうなるか。
 この男は『万事屋』であることをいとも簡単に放棄して、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。
 気づけば声を荒げていた。当人に宥められ、店を連れ出され、いつものように宿へなだれ込むことを言外に匂わされて驚愕した。

 ――わかった。もうやめよう

 この前受けた死刑宣告は?
 俺の勘違いだったのだろうか。
 『今日は』もうやめよう、程度の宣言であって、この関係自体をやめようという意図ではなかったのか。
 それなら、俺はまだ関われるのだろうか。この男をこの街に……いや、言い繕うのはやめよう。俺の目の届くところに縛りつける権利を、まだ俺は持っているのだろうか。まだ、いけるのだろうか。
 この場で唯一の精神安定剤である煙草を取り出し、火をつけて煙を深く吸い込む。少しだけ、思考がクリアになったような気がした。
 だから、提案した。
 この男を俺の手元に囲い込む案を。
 選択権は男に委ねたつもりだが、強引だったことは否めない。半信半疑な顔で、それでも男は頷いた。
 その顔を見ながら、胸の奥が甘く締めつけられた。
 この男を、この存在を、独り占めできるのか。
 ほんの限られた時間ではあっても。


 もう、他に望むものはない。




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