‖ あらすじ
 人気絵師・稲荷ナリへ憧れる気持ちが強すぎるあまり、嫉妬心から稲荷とコンビを組んでいるボカロP・とりっPのCDを叩き割ってしまったアンドー。
その現場を友人であり、普段から仲良くしているMIX師の大老に目撃されていて……?
年下無愛想MIX師(フリーター)×年上平凡ボカロP(社会人)


‖ 本文サンプル


 神、という言葉がある。

 とはいえ、キリスト教でいうイエス・キリストとか神道でいう天照大神とか、そういう宗教的な意味合いでの言葉じゃない。

 どちらかというと「ネ申」とあらわされるようなそれは、いわゆるネットスラングの一種である。インターネット掲示板だとか動画サイトだとかで、普通の人間にはできないような技を持った圧倒的な存在を示していう言葉だ。

 用いられる場所によっては皮肉のようなニュアンスも含んだり、「神」という言葉に似つかわしくない軽さを伴ったりと様々だが、とにかく、基本的にはその対象を賞賛し敬っていうものである。

 その人は、まさしく神だった。僕にとっては女神のようだった。太陽だった。あこがれの存在だった。

 きっとこれは僕に限った話じゃない。僕以外のやつら―僕と同じように、インターネット上の動画投稿サイトにボーケロイドを使った自作曲を投稿しているやつらからしたら、あの人はひとしく神と呼べる存在だった。

 あのひとに絵を描いてもらって、動画をつくってもらって、自分の曲をニカニカ動画に投稿する。なんだったら、自主制作CDのジャケットを担当してもらって、イベントで売り子をしてもらって、一緒に頒布する。それが僕たち底辺ボケロPのなによりのあこがれであったのだ。

 だけど、

『とりっP@toritori-P:春っぽい曲です。よろしくです』
『稲荷ナリ@fushimi-inari:とりっPさんのしんきょくのイラストかきました。ゆるふわせつなかわいい春のうたです』
『稲荷ナリ@fushimi-inari:こんかいどうがもがんばったのでよろしくです!』

『稲荷ナリ@fushimi-inari:とりっPさんといっしょなう〜』
『とりっP@toritori-P:稲荷さんなう!』

 実際にそれが許されるのはほんとうに一握りの、あふれんばかりの才能とまばゆいばかりの輝きと、熱狂的なファンを何百人も何千人も、へたしたら何万人も持っているような、それこそ「神」と呼ぶのにふさわしい人だけで。僕にはそんなこと、夢を見るだけでもおこがましいのだ。

 所詮、あこがれはあこがれ。神に一般人が近づけるはずがないし、太陽にだって触れることはできないのだ。少しでも近づこうものなら、眩しくて目が焼かれてしまうだろうし、へたをしたらイカロスのように翼を溶かされてしまうかもしれない。

 ……もっとも、僕にはもともと、自由に空を飛ぶ翼すらないわけだけれど。

 だから、これは罰なのだ。



「まさか、あの稲荷さんが男だなんて……!」

 はあ、と思わず溜息が口からこぼれ落ちた。いかにも憂鬱ですと言わんばかりのそれに、自分のなかで、ただでさえ落ち込んでいた気持ちがさらに下向きになる。

 今日は、年に数度のボーケロイド界のお祭り行事ことボーケロイドマスター、通称ボマスの日だった。

 ボーケロイドとは、実際に収録された人間の声を元に、専用エディタを用いて歌声を合成する歌唱合成ソフト、およびそれを使用して製作された楽曲、またはその歌声に基づいた仮想のキャラクターのことである。
 ……以上、ニカニカ大百科より引用。

 そんなボーケロイドのオリジナル楽曲のCDや、キャラクターのイラスト集、キャラクターを用いた同人マンガやなんかが集まる祭典。それがボーケロイドマスターなのである。

 ちょっと前まで続いていた雨模様が嘘のように、今日は見事なまでの晴天に恵まれていた。春らしく暖かな気候もあいまって、今日はいつもとくらべて一般参加者も多いように見える。池袋サンシャイン内のホールは熱気に満ちていた。

 そのおかげか、超超底辺ながらもボケロPをやっている僕のサークルにもちらほらながら人が来てくれた。新譜を手に取ってくれたり、いつも応援していますと声をかけてもらったりもした。

 もしかしたら、いままでで一番CDを手に取ってもらえたかもしれない。今日のイベント合わせで作った新しいアルバムに関しては、ピーク終わりかけのぎりぎりのところでなんとか完売もしたし。

 となると、心ウキウキワクワクしてきそうなものだけれど、あいにくと、外の雲一つない快晴とは裏腹に、僕の心のなかには暗雲が立ち込めていた。

 はあともう一つ溜息をこぼして、ちらりと会場の一角に視線を向ける。その先にあるのは、もう「ものすごい」としか表現のしようがないくらいのひとだかりだった。二列に整列し、会場の端から端まで行って、更にちょっと折り返して会場外の通路にまで伸びているそれは、たったひとつのサークルにできているものである。

 会場内の一番外周、いわゆる「壁」に配置されたそのサークルの名前は「鳥五目いなり寿司」。今現在、ボケロ業界で断然トップの人気を誇るボケロP・とりっPと、同じくボケロ界一の人気絵師・稲荷ナリの合同サークルであった。

 ボケロ界隈で「とりっP」といってピンとこないやつがいたら、そいつはきっともぐりだろう。それくらいとりっPの名前は有名だった。なんせとりっPは、三年ちょっとの活動の中で、すでに楽曲をいくつも抱えている人気ボケロPである。

 初めてボマスに参加したときには、初の同人アルバムがイベント開始一時間もしないうちに完売していた上、ボケロPデビューから半年もせず商業のコンピレーションアルバムに参加していたといえば、そのすごさが少しは伝わるだろうか。

 いまやとりっPは、アニメの主題歌の作詞作曲も担当している。ボケロ界のみならず、十〜二十代の若い女性を中心に、アニメソング系アーティストとして幅広い人気を集めていると言っても過言ではないだろう。

 ここまで聞くと、とりっPがもう完全に雲の上の存在のように思えてくるけれど、ところがどっこい、実はそうでもない。本人の超人っぷりとは裏腹に、とりっP本人は結構人懐こいところがあって、知名度に関わらずいろんなボケロP、絵師と仲が良い。

 とりっP自身がまだ大学生で若いのもあって、年上のボケロPに対する謙虚な姿勢とか、ちょっとコミュ障気味なところとか、好きなアニメに対して興奮しているときには「ただの一人のオタク」になるところとか。そういうところが親しみやすさを与えて、とりっPは、ひとりのアーティストとしてもボケロP仲間としても結構な人気者だった。

 一方、稲荷ナリさんといえば、水彩の優しい色合いと物語性溢れる雰囲気が特徴的な絵を描くひとである。と同時に、いままでずっと年齢不詳・正体不明できていた、ある意味ボケロ界一の謎人物でもあった。どうやらついこのあいだまで遠方に住んでいたらしく、いままで一度もイベントに参加したことがなければ、生放送などにも参加せず、どこにも顔出しをしていなかったのだ。

 おまけに、イラストや動画の依頼を受けるのはとりっPだけときたら、一体どんな人なのだと想像や期待、妄想が高まらないわけがない。

 今回、イベントに初参加・初顔出しをするということで、とりっPと稲荷さんが同時にツイッターで告知をしたときには随分話題になっていたっけ。あまりにもみんなが騒ぎすぎて、ツイッターのトレンドにも「とりっP」「稲荷さん」の二つのワードがのぼったほどだった。

 そんな風に、話題のふたりが合同スペースでサークル参加、しかもお互いにコラボした新作を頒布するとくれば、人が殺到するのは当然のことだろう。話題が話題を、人が人を呼び、「鳥五目いなり寿司」は、一般参加者が一番多いピークをすぎた現在でも、一向に人が途絶える気配がない。

 お昼を回ったころからパッタリ人足が途絶えた僕のサークルとは大違いだと、思わず肩を落とす。

 けれど、僕の憂鬱の理由はそれだけじゃない。

 確かに大手サークルの人気っぷりを目の当たりにして心がポキっといってしまっているところもある。それも大きな理由の一つではあるけれど、今朝がた与えられたもうひとつの衝撃にくらべたら、そんなのはかわいいものだった。

「まさか、あの稲荷さんが男だなんて……!」

 そう。そういうわけで、そのことこそが、僕の憂鬱の最大の原因だった。

 端的に言うと、僕は稲荷ナリさんのファンだ。大ファンだ。いつかは稲荷さんに動画を作って欲しいなあとか、CDのジャケットを担当して欲しいなあとかいう妄想をしょっちゅうするくらいには、ファンだ。

 今日だって、生の稲荷さんに会えるのをすごくすごく楽しみにしていたのだ。それこそ、どんなひとかなあ。絵のイメージからすると、髪型はふわふわとしたロングヘアーかなぁ。服装は素朴な森ガールスタイルかなぁ。お花のモチーフのヘアピンとか、レースのアクセサリーとか似合いそうだよなぁ。声の高さはどれくらいだろう。眉の形は、笑った顔は―と、あれこれ想像を膨らませていたくらいには。

 それが、今朝。自分のスペースの準備を終えて、とりっPにお世話になっているからというのと稲荷さんってどんな人なんだろうという野次馬精神とを半々くらいに持って「鳥五目いなり寿司」のスペースを訪れてみたら、だ。

 そこには、お馴染みのちょっとぽわっとした感じのフツメン男子・とりっPと一緒に、雑誌やテレビ以外じゃなかなかお目にかかれないレベルのイケメンが待ち構えていたのだ。

 サークル参加証を首から下げたそのひとは、ゆるいパーマのかかった茶色の髪に、ややつり上がった、それでもくっきりとした二重の目をしていた。すらりとした長身に、シャープな印象とは裏腹に比較的がっしりとした体格。いくらなんでも設定盛りすぎだろ! という、一目見て住む世界が違うことがわかるような、わかりやすすぎるほどにわかりやすい「リア充」の男だった。

 そのイケメンに、イケメン耐性なんてほぼゼロの僕が

「なんだこいつ、スゲーイケメンだな!?」
「え? なんでこんなオタクオブオタクの集会場みたいなとこにイケメンが来てんだ?」
「てか、誰だろ? 誰かボケロPかな? それとも、とりっPのリア友とか? 売り子かな?」
「とりっP、こんなイケメンとどんな関係なわけ……こわ……」

 と、大混乱したのは言うまでもない。

 ひとまず当初の目的を果たそうととりっPに「やあ」だか「おはよう」だか、そんな感じの挨拶をしたのち。どうしたものかと隣のイケメンに視線を向けるも、えっと、とすぐさま言葉に詰まってしまった。

(本当に、こういうところが僕ってスーパーウルトラコミュ障だよなぁ)

 そんな風に、僕が唐突に盛大な自己嫌悪に陥りかけたとき、不意にそのイケメンがにこっと微笑んだ。そうして、イケメンは僕にこう告げる。

「初めまして、稲荷ナリです」

 続けてさっと名刺まで差し出された。稲荷ナリ、と書かれたそれには、ツイッターのアカウントとマイリストのURL、それからメールアドレスが記載されていた。

 稲荷ナリ。名刺の左上にやや大きめに印刷されたその文字を数度視線でなぞってから、僕は

「ええええええーーーーーーっ!?」

 と、広いホール中に響き渡るほどの大声をあげた。

――そう。

 僕があれこれ想像していた「稲荷ナリ」の予想図はどれも性別:女であることが大前提だったのである。性別:男でのイメージなんて欠片もなかったのだ。

 その上、こんなモデルか俳優かと見紛うようなイケメンがあの「稲荷ナリ」さんだなんて、予想外どころの騒ぎじゃなかった。

 それから、動揺から抜け出せないままになんとか稲荷さんに挨拶して、自分のスペースに戻って、混乱したままにボマスが開会して……。

 そして、今に至るというわけだった。



「うわ、あそこまだあんな並んでんぞ」
「ひえーっ。俺たち、朝イチで買いに行って良かったな」
「ま、あのとりっPと稲荷さんが合同っつったら混むにきまってるよな」
「だな」
「あの二人が別々で参加してても、それはそれで違和感マックスだしなあ」
「それな」

 僕のスペースの前を通り過ぎていった一般参加者の、そんなやりとりが耳に入ってくる。赤の他人の会話を盗み聞きしながら、僕はそれに内心で激しく同意していた。ほんとそれな! という感じである。

 やっぱり、とりっPといえば稲荷さん、稲荷さんといえばとりっPなのだ。きっと、僕といまの二人組だけの考えじゃない。これは今のボケロ界全体で共通の認識だろう。

 いいなあ、と思わず羨みの声が漏れてしまいそうになる。

 正直言って、僕には羨ましかった。あの稲荷さんとセットで捉えられているとりっPが。実際にいつもコンビで動画を作っていて、今回も、とりっPのCDのジャケットを稲荷さんが、稲荷さんの初画集についてくるおまけのイメージソングCDをとりっPが担当していたりと、名実ともに稲荷さんのパートナーでいられるとりっPが。

 パートナー。相棒。一心同体。言い表し方はいろいろあっても、とりっPと稲荷さんが「お似合い」だというのには変わりない。

 稲荷さんの名前の隣に、とりっPの名前ではなく僕の名前が並ぶことはないのだ。改めて思い知らされ現実を目の当たりにしたら、どうしようもなく胸のあたりが重たくなった。熱い鉄のかたまりを喉の奥に押し込まれたような気分だ。

 いいなあ、の言葉の代わりに、はあ、とやり過ごすように溜息をつく。

「アンドーさん、さっきから溜息つきすぎっすよ。辛気くさい」

 ぼそり、と隣からたしなめるような声が飛んできた。そこまで言われるほど僕は溜息をついていただろうか。無自覚の行動を指摘され、内心どきりとする。

「辛気くさいって、身も蓋もないなあ」

 そんなに冷たい言い方をしなくても。ややふてくされた気持ちになりながら、僕は隣を振り返る。イベント運営会社から与えられた会議デスク半分ぶんの僕のスペース内で、その男はパイプ椅子に気だるげに腰掛けていた。

 細身のスキニーパンツに包まれた長い足を大胆に組んで、片手には最新機種のiPhoneを持っている。ややうつむき気味の横顔は、視界を覆うほどに長い前髪にほとんど覆い隠されていた。染色と脱色を繰り返したせいなのか、白金の毛先はパサパサに痛んでいる。

 金髪からちらとのぞき見える耳の先は、狼か何かのように鋭く尖っていた。薄い耳たぶには、こちらを威嚇するようにじゃらりとピアスがついている。こちら側、右の耳には三つ、反対の左の耳には二つと、計五つのピアスがあることを僕は知っていた。

 そんな、どこか野生生物のような雰囲気をまとった彼は、ひとこと文句を言ったきり僕にはちらりとも視線を向けない。無骨な指先でスイスイと液晶画面をなぞっては、時々トトンッ、となにかをタップしていた。

「大老、冷たくない? 僕、一応きみより年上なんだけど」
「今更でしょ、そんなん」

 僕の言葉をなんてことないふうにさらりと受け流すと、ようやくなにかの連絡が終わったのか、大老はiPhoneをスキニーパンツのポケットにぐいと押し込んだ。代わりにデスク上にあったペットボトルを手に取ると、くるりとキャップを回して口をつける。

 ごつごつとした喉仏がごくり、と上下する光景に僕は目を奪われてしまう。ボルヴィックのミネラルウォーターを持っていてここまで絵になるのも、大老以外になかなかいないだろう。

(あー、でも、あの稲荷さんなら似合うかもしれない)

 どちらにしても、イケメンにしか許されない飲み物なのだろう。ボルヴィック。大老もまた、なんでこんなところにいるのかわからない程度にはイケメンだった。とはいえ、稲荷さんには負けるけれども。

 ちなみに、大老というのは僕の隣にいるこいつの名前だ。もちろん本名じゃない。ボケロ界だけで使う仮の名前、ハンドルネームである。

 ついでに言うなら、大老が呼んだ僕の「アンドー」というのも本名じゃなかった。本名を知ったボケロP仲間にはしょっちゅう

「本名じゃないのかよ!」

 と突っ込まれるけれど、違う。ボケロPとして初めて動画をアップするとき、たまたまテレビに安藤さんという女優が出ていたから、そこからとったのだ。もうちょっとまともな名前にすればよかったと、今ではちょっと後悔している。

 大老はいつも、僕の曲のミックスやマスタリングを担当してくれている。ミックスやマスタリング、と聞くと頭にクエスチョンマークを浮かべる人も多いだろうけれど、おおざっぱにいうと、音量のバランスや音圧のレベルを調整して、曲の聴こえかたを自然にする作業といったところだろうか。毎回大老にやってもらっているせいで、僕もいまいちよくわかっていないところがあるけれど。

 大老は音楽系の専門学校出身だそうで、こういうのが得意らしい。僕が最初にアップロードした曲のミックス・マスタリングのあまりのひどさに、見るに見かねた大老が声をかけてきてくれて以来、僕はずっと大老に頼りきりになっている。

 とすると、とりっPの相棒が稲荷さんなら、僕の相棒は大老ということになるのかもしれない。改めて考えてみると、周囲からセット扱いされることもよくあるし。いつも僕の意図を汲んでうまいこと曲を仕上げてくれる大老は、僕にとってとても頼れる相棒……なの、だが。

 その大老が、今だけはひどく冷めた視線を僕に向けていた。

「アンタ、なにそんな落ち込んでんすか? とりっPんとこが、自分とこと比べもんにならないくらい売れてるから?」
「や、うん、まあ」
「でも、別にアンタだって大手ってわけじゃないすけど中堅どころじゃないっすか。あの稲荷さんだって、アンタの曲聴いたことあるっつってたんでしょ? 今朝」
「けどそれ、とりっPがCD持ってたからだって」
「ハア? ……もしかして、そんなとこにまでジェラシー感じてんすか?」

 とりっPと稲荷さんが仲良いから? と、大老は図星をついてくる。返す言葉もなくてぐっと下唇を噛んでいると、大老の視線が呆れたと言わんばかりの気配を帯びた。

「だって、仕方ないだろ」

 どこか責めるようでもある視線に耐えきれなくなって、僕は言い訳まがいの言葉を口にする。

 とりっPと僕は、ボケロP同士、実は元からツイッター上で付き合いがあったのだ。さっきも言った通りとりっPの顔が広いのもあるし、それに加えて僕ととりっPの曲の雰囲気が似ているというのも理由の一つだった。

 二人とも、全体的にちょっとセンチメンタリズムな曲が多いのである。もちろん、とりっPが生ギターを用いたロック調の曲なら、僕のはエレクトロニカ中心、といった風にジャンルの違いはあるが。

 まあ、だからこそ、お互いにイベントに参加するようになってからはアフターを一緒にしたり、都内在住組のメンバーで飲みに行ったりもした。

 そんなわけで、今日も開会前に挨拶に行った、わけだけれど。



「初めまして、稲荷ナリです」
「ええええええーーーーーーっ!?」

 実は、このやりとりにはまだ続きがある。盛大な「ええーっ」のあとに、僕はほとんど息も絶え絶えになりながら、必死に稲荷さんに自己紹介をしたのだ。

「あっあの、はっ、初めまして! 僕、ボケロPのアンドーって言います」

 情けないやらみっともないやら、思い返すだけでも憤死ものな僕の挨拶に、イケメンもとい稲荷さんは突如あっという顔をすると「もしかして」と口を開いた。

「あの、数字で『1・2』って書いてアンドーって読むアンドーさんですか」
「えっ、あ、はい。そうです……けど、」

 そう。実は僕の名前は「1・2」と書いてアンドーと読む。正確にはアン・ドゥだ。大学でフランス文学を専攻していた名残である。

(けど、なんで)

 なんで稲荷さんが、僕の名前を知っているのだろう。しかも表記のしかたまで。思わずきょとんと首を傾げれば、そんな疑問が伝わったのだろうか。稲荷さんはニコニコ笑顔のまま言った。

「実は俺、アンドーさんの曲聴いたことあるんです。それで、いいなあって思ったので、覚えてました」

 予想外すぎるその発言に、僕は思わず二度目の「ええーっ!」を出すところだった。今度は「あのゆるふわひらがな森ガールツイートでおなじみな稲荷さんが男だなんて!」という一度目の驚きとは違う。稲荷さん、なんで僕なんかの曲を聴いたことあるの? という、純粋な思いからのものだった。

「えっ、ぼ、僕の曲をですか」
「はい。とりくんの部屋に、アンドーさんのCDがあったので。それで」

 ぱちくり。稲荷さんの言ったことがすぐにはうまく飲み込めなくて、僕は目を瞬かせた。そりゃ、とりっPは僕のCDを持っているだろう。だって、初めて会ったときにCDを交換して以来、僕たちはお互い新譜を出すたびに交換しているのだから。

 けれど、稲荷さんがそれをきっかけに僕のことを知ったというのは、つまり。

(とりっPと稲荷さんって、お互いの部屋行き来するほどの仲なのか……)

 確かにとりっPと稲荷さんは、二人だけで飲みに行ったり遊びに行ったりしている風なツイートをしていた。稲荷さんが上京してからのここ二ヶ月ほどのあいだに、何度も。へたをしたら、週に一度くらいのペースで会っているんじゃないかと思ったこともあった。

 けど、まさか、お互いの部屋にまで入ったことがあるとは。

 とりくん、といういかにも親しげな呼び方もあいまって、胸の内に暗雲が立ち込める。切り立った崖の上から思い切り突き落とされたような気分だった。

 あこがれの稲荷さんが僕なんかの曲を聴いてくれていた、いいなあと言ってくれた。と、一瞬舞い上がってしまったぶん、余計にその落差は激しい。こういったらおかしいけれど、僕は裏切られたような気分にすらなってしまったのだ。

 その瞬間のことを思い返すと、またどうしようもなく気分が落ち込んでくる。はあ、と何度目かの溜息をつけば、こだまするように、はあ、と隣からも溜息が聞こえてきた。

 反射的にそちらへ顔を向ける。鬱陶しそうな目をした大老が、だめだこりゃ、と肩をすくめていた。



   (中略)



「コーセイさんが、やったんでしょ?」

 ふうっ、と悪魔の囁きのように、サクラの声が耳に吹き込まれる。それがスイッチだった。

「だ、だって、仕方ないだろ!? 嫉妬しちゃうんだよ! あの人たちの、あの仲の良さを見てると! なんで僕じゃダメなんだって思って、我慢できなくなるんだよ!」

 我ながらなんて自分勝手なんだろうと思う。どうしようもない。本当に、救いようがない。仄暗くてどす黒い嫉妬心が、僕のなかで徐々に自己嫌悪と情けなさとに変わっていく。

「こんなの間違ってるって、わかってる。わかってるんだよ、僕だって……でも、」

 でも、ダメなんだ。稲荷さんに焦がれてしまう気持ちが強すぎて、これ以上、自分じゃ制御することさえできないんだ。

 じわりじわりと奥の方から涙が滲んできて、鏡に映ったサクラの顔をぼやけさせていく。しまいには鼻水まで垂れてきた。ずずっと鼻をすすれば、はあ、と背後から深い溜息が聞こえてくる。

「ほんと、アンタってどうしようもないやつ」
「うるさい……そんなこと、自分でもわかって、」

 わかっている、と。やけくそのような言葉を最後まで言うことは叶わなかった。僕の言葉を遮るようにして、突如目の前まで回り込んできたサクラの唇が、僕のそれを塞いだのである。

 んぐ、ととっさに出た悲鳴をも飲み込むようにして、サクラは僕に口付けていた。

 なんでとか、どうしてとか。そんなことを思う間もなく、ぐっと顎をつかんだ指先に力を込められて、無理矢理に口を開かされる。わずかにできた隙間から、ぬるり、とサクラの舌が入り込んでくるのがわかった。

(サクラのした、あつい)

 自分以外の人の舌の熱って、こんなにも熱いのか。生まれて初めてのディープキスに、場違いにも感心してしまう。

 サクラからのキスは地味に長かった。口と口をくっつけ続けているうちに、キス初心者で呼吸の仕方もわからない僕は段々と息が持たなくなってくる。息苦しい。

(あ、やば。もうだめかも……)

 軽い酸欠状態にくらくらとしてきたとき、ようやく僕はキスから解放された。ぶはりと思い切り息を吐き出して、ぜえはあと肩で大きく息をする。

「おまっ……よくも、僕のファーストキスを!」
「え、コーセイさんいまのファーストキスだったの?」

 きょとん、とサクラが目をしばたかせる。年相応というか、すこし幼く見えるその仕草に、僕は墓穴を掘ったことに気付いた。

「うっ、うるさい! 童貞なめんなよ!」
「なめてないですよ、別に」

 むしろ、と続けて、サクラはれろりと唾液に濡れた上唇を舐め上げた。

「俺がハジメテなんて、ラッキーだなって感じです」

 ハジメテ? ラッキー?
 どういう意味だと見返すものの、サクラはそれに答えるつもりはないらしい。

「サクラ、お前、なにがしたいわけ」

 最初はてっきり、僕のことを脅して、金でもせびりとろうとしているのかと思った。だからこそ、こんな風に写真なんて出してきたのかと思っていた。けれど、だとしたらいまのキスはなんなんだろう。首の筋がぎしりときしむのを感じながら、数センチ上のサクラを見上げた。

 無造作に真ん中で分けられた前髪のあいだから、欲情に濡れたサクラの瞳が、僕を静かに見つめ返してくる。

「なにって、アンタと同じですよ」
「へ……?」

 僕と、同じ?

 同じって、いったいなにが同じだというのか。サクラは僕と違ってまだ若いし、イケメンだし、音楽に対する技術もある。今日のアフターでだって、今度サクラにミックスやマスタリングをお願いしたいって言ってるやつが何人もいた。実際に、サクラはいろんな有名Pたちのミックス、マスタリングをやってきている。いままで、かろうじて一度だけ同人のコンピアルバムに誘われたことのある僕とは違う。

 成人男性の平均身長ど真ん中な僕と違って背も高いし、東京生まれ東京育ちのくせにもさい僕と違ってオシャレだし。それから、それから……。

 とにかく、とてもじゃないけど、サクラは僕なんかと同じだなんて言えない存在だ。なのに、サクラはなんでそんなことを言うのだろう。

 黙って次の言葉を待っていると、ふっと、サクラは突如目元を和らげた。こんな場面には似つかわしくない、ひどくやわらかな笑みを浮かべて、うっとりするような口調で言う。

「俺はただ、アンタのいちばんになりたいだけです」



   (以下略)





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