卑屈受けが自分の好きなところを10個言わないと攻めにキスしてもらえない話
『自分に自信をつけるには、自分の好きなところを声に出してあげてみるといい』
いつだったか、どこかの局のバラエティ番組で、有名な大学病院の医師がそんなことを言っていた。それを思い出したのは、恋人をベッドに押し倒して、その上から覆い被さり、今まさに口づけようとしていた、そのさなかのことであった。
「……吉崎?」
不安げに呼びかけられる。その今にも嗚咽に変わりそうな声にハッと我に返った。恋人の鴨井が、今にも泣きそうな目をしてこちらを見ている。目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
まっさらなシーツにぱさりと広がった、生まれつきだという薄いブラウンの髪と、やや乱れた制服の胸元も相まって、ひどく扇情的だ。
ごくり。思わず喉を鳴らす俺に、鴨井はますます表情を険しくする。眉は山なりに下がり、それに合わせて眉間にしわも深くなる。学校で百戦錬磨の最強不良だとか一匹狼だとか言われてしまうような、もともときつめの顔立ちが、さらに近寄りがたい印象になった。
まるで「ふざけんなぶっ殺すぞ!」と言わんばかりに睨みつけられているようではあるが、俺は、鴨井が百戦錬磨の最強不良でも一匹狼でもないことを知っている。鴨井はただの、ちょっと目つきが悪いだけのふつうの男子高校生だ。そして、
(あー……また、余計なこと考えてるなぁ、鴨井)
俺はまた、鴨井の性格についても、よく承知している。
俺の恋人は、一言で言えば卑屈だ。
とにかく自分に自信がなくて、いつだってネガティブ。何かあるとすぐに「どうせ俺なんか」って言う。自分がこうだから仕方がないのだ、とでも言う風にすぐに諦めたような顔をする。たとえ、こいつには一切非がなかったとしても、だ。
そのせいで、来月から高校生活ももう三年目に突入しようというのに、未だに不良だのなんだのの誤解は解けないでいる。
とにかく、そういうある意味わかりやすい性格をしている鴨井の考えくらい、俺には簡単に読み取れた。どうせ、今だってきっと
「自分が平凡で、小さくもなければ可愛くもない、でかくてごつい男だから。だからキスをするのがいやになったんだ」
とか、
「やっぱり、俺みたいな不良とか言われてるようなやつとキスしたくないよな。そもそも、恋人なのも嫌だよな」
とか、そんなしょうもないことをぐるぐると考えているに違いない。鴨井の中で、マイナス思考がエスカレートしていくにつれて、人より少し色素が薄めの淡い瞳が、どんどんと濁った色に侵食されていく。
(あーあ、勿体無い)
せっかくきれいな目をしているのに、とため息が出そうだった。けど、そうしたら鴨井が余計に負の感情にとらわれてしまう。ぐっとこらえて喉の奥の方へと押しやるも、鴨井はその俺のどの動きにさえぴくりとまつ毛を揺らした。
こんな風に、俺の一挙手一投足に過敏に反応して不安がったりするさまは、かわいいと思う。いとおしいとも、好きだとも思う。
けど、俺が好きな鴨井のことを、鴨井自身にももっと好きになって欲しい、って。そう考えてしまうのは、俺のエゴなのだろうか。
「あのさ、鴨井」
「……ンだよ」
少し拗ねたような声。がさつな口調は、この至近距離に対する照れ隠し。そんなところを「やっぱりかわいいな」と思う間もなく、ずび、と鼻をすする音が聞こえてきた。にわかに焦燥感に襲われる。
「鴨井」
肩を押さえつけるようにしていた手を動かし、鴨井の頬に添える。不安と恐怖心からか肌はひんやり冷たくなっていた。なめらかな肌をするりと撫ぜる。それに合わせて、鴨井の肩が怯えを表すようにわずかに跳ねた。
俺はそれに構わず、そのまま手を鴨井の顎に添えた。さっき唇で触れようとしていたすこしかさついた鴨井のその唇を、親指の腹でつつつ、となぞる。
「……前、テレビでやってたんだけどさ。なんか、自分の好きなところを言うといいんだって」
無理矢理にでも口に出して言うことで、脳が「そう」思い込んで自信がつき、さらには、次第にその「好きなところ」が、本当にその人の「いいところ」にもなっていくのだと、テレビでは紹介されていた。
詳しい原理とかそのあたりは知らない。よくわからない。けど、たぶんなんらかの科学的根拠があるんだろう。バラエティ番組で言っていたことだから、信憑性があるかと聞かれたらちょっと自信はないけれど。
「それが、なんだってンだよ」
突然変なことを言い出した俺に、鴨井は怪訝な顔になる。それもそうだ。正直俺も「何言ってんだ俺」って思ってる。でも、口が止まらなかった。
「だからさ、鴨井、自分の好きなとこ十個、言ってみなよ。……じゃないよ」
「じゃねーと、なんだよ」
「キスしてやんない」
ん、と唇を突き出してみせれば、鴨井はたちまち絶望的な顔になった。
今まさにキスをしようというムードだったのに、それを寸止めして急に意味のわからないことをベラベラ喋った挙句、おあずけとか。もしされたのが俺だったらブチギレる。そこにどんな理由があろうとも、問答無用で。
けど、実際にそれをされたのは俺じゃない、鴨井だ。そしてここで、鴨井の性格を思い出して欲しい。卑屈、ネガティブ、自己評価が低い。この三拍子である。
そんな鴨井がいくら理不尽なことに対してでもブチギレるなんて――しかも、鴨井にとって最愛の恋人である俺に対してなんて――できるはずもなかった。
代わりに、はじめは鴨井の淡色の瞳のなかでうっすら膜を張るくらいだった涙が、じわじわと量を増やし、ついには目尻からぶわりとあふれてしまった。こぼれ落ちた涙がつうっと白い頬を伝い落ちていく光景を、俺はただ呆然と眺めることしかできない。
「ん、なこと……ッ! 俺が、できるわけねーじゃんか!」
「なんでだよ、ただ自分の好きなとこ言うだけだぞ」
「できねえっつの! だって、自分の好きなとこなんて、あるわけねえだろうがッ!」
……え、ないの? いやいやいや、いくらなんでも、十個は多いにしても一個くらいあるだろ、さすがに。
嘘だろうと疑いたくなる俺をよそに、鴨井はぼろぼろと涙を流したまま叫び続ける。
「それなのに、じゃないとキスしないとか……俺とキスしたくねーんなら、回りくどいこと言ってねぇでそう言えよ! 別れたいんだったら、そう言えよッ!」
「え、いや、ちょ、ま」
別れたいなんて、俺いつ言った? 慌てて訂正を入れようとするも、えぐえぐと子供のように泣きじゃくっている鴨井には、その声は聞こえていないらしい。
(やばい、俺、鴨井のネガティブ具合見誤ってた)
まさか、別れ話と誤解されるとまでは思っていなかった。
「こするなって。目、腫れるぞ」
ひとまず、濡れた目元をこすろうとする鴨井の手を掴む。かたかたと小刻みに震えるその手をぎゅっと握りしめた。血の気を失った鴨井の指を温めるようにして、自分の指を絡ませる。
「鴨井、なあ、鴨井聞いて」
なだめるように囁けば、鴨井は恐る恐る俺を見上げた。しっとりと涙に濡れたまつ毛が、鴨井の白い頬に影を作る。それがまた、ひどくきれいだった。
「なんども言ってるけど、俺は鴨井が好きだよ」
つう、とまた涙の粒が落ちる。それをすくい上げるように鴨井の目尻にキスをした。
「鴨井のその目が好きだよ。ちょっときつめに見えるかもしれないけど、俺は鴨井の目がすごくきれいで優しい色をしてるって知ってるから、好きだよ」
次いで、シーツに散らばった髪を一房つまみあげて、その毛先にキスをする。
「鴨井の髪の色も好きだよ。本当のことなにもしらないくせに、脱色してるだのなんだの言うやつもいるけど、俺はこの色が好きだよ。青空の下で見ると、陽の光でキラキラ光るこの髪が、好きだよ」
次は、無防備にさらされたままの喉仏にキス。
「声も好きだよ。俺のことを呼ぶ鴨井の声が好きだよ。一生懸命俺を好きだって言ってくれるとき、ちょっと声が震えてるのも好きだよ。ちょっと低めの、落ち着いた声が好きだよ」
それから、と言葉を重ねる。
「鴨井のそのちょっとネガティブすぎる性格も好きだよ。俺のことをよく見て、俺の言ってることをよく聞いてくれて、そんで、俺のことを本当に好きでいてくれるからそこまで考えすぎちゃうんだなってわかるから、好きだよ。
鴨井は俺より背が高いこと気にしてるけど、俺は鴨井のその身長も好きだよ。いつもは立ってても座ってても鴨井が俺のこと見下ろしてるのに、こうやって押し倒した時にはちょっと不安そうに見上げてくれるから、好きだよ。立ってる時も、俺がキスしようとしたり頭撫でようとしたら、鴨井がさりげなくしゃがんでくれるのも、結構好きだよ。
それから――」
「ストッ、プ!」
「っ、ぶふッ!」
さらに「好き」を重ねようとしたところで、それは鴨井のてのひらによって遮られた。なんだなんだ、まだ十個どころか五個も言っていないぞ。そう文句をつけようと鴨井を見て、俺はぎょっと目を見開いた。
――真っ赤、だった。
俺の下でただ無防備にベッドに横たわっていた鴨井は、顔を耳まで真っ赤に染めて、涙ぐんだ瞳で俺を睨みつけていた。けれど、いつもの目つきの悪さも何処へやら。今は、赤面のせいで迫力なんてなかった。むしろただかわいいだけだ。いっそ暴力的なまでのかわいさでもって、鴨井は俺を睨みつけている。
「わかったから、もういい。それ以上言うな」
「わかったからって、なにが」
「……お前が言う、俺の、いいところ」
少しはわかった気がする、と、鴨井は弱々しくつぶやいた。
「たぶん、ネガティブっていうか、そういうとこは簡単には変われねぇけど。お前が好きだって言ってくれた分だけ、俺も、ちょっとは自分のこと好きになれた……気が、する」
だから、と続けかけて、鴨井は言いにくそうに言葉を切った。代わりに、無意識なのか乾いた下唇をぺろりと舐める。
その仕草で、俺は鴨井が何を求めているのかすぐにわかった。本人も「簡単には変われない」と言っている通り、まだそれを俺にねだるのは鴨井にはハードルが高すぎるんだろう。
「そんなことを言って、鬱陶しがられたらどうしよう」
「拒絶されたらどうしよう」
きっと、そんなマイナス思考が邪魔をして、素直に口にはできないのだろう。鴨井の葛藤が手に取るようにわかって、さらに愛おしさが増す。思わず笑みをこぼして、俺は再び鴨井の頬に手を添えた。さっきとは打って変わって、朱色を帯びたその頬は熱い。やけるようなその体温が、鴨井の存在を痛いくらいに俺に知らしめてくれる。
「鴨井。俺は鴨井が、鴨井のぜんぶが、すごく好きだよ」
こくり。徐々に俺の影に覆い尽くされている鴨井が、小さく頷いた。それから、そっと瞼が降りて俺が好きな淡い色の瞳が隠される。
(俺がひとつキスをするたびに、鴨井も、自分のことをひとつ好きになれたらいい)
そんなことをひそかに願いながら、ようやく、俺は鴨井にキスをした。