‖ あらすじ
 「今夜19時に予約できますか?」
 携帯に入っていたそんな留守番電話を聞いた蓮見は、ついうっかり親切心を出して折り返し電話をしてしまう。
「間違ってるんです。この番号、居酒屋とかじゃなくて」
 それをきっかけに電話の相手『ヤエガシさん』と頻繁に電話のやりとりをするようになるが、ある日大学の飲み会で訪れた店に居合わせた酔っ払いの男の話の話が耳に入ってきて……?


‖ 本文サンプル
(略)


「あ」

 パスケースを叩きつけて改札機をすり抜けた途端、プルルルル、と発車のベルが鳴り響く。慌てて階段を駆け下りるも、ホームを降り立ったときにはもう、ドアが閉まったあとだった。

「はぁ……マジか」

 がさり。紙袋を一旦足元に置いてから電光掲示板へ視線を向ける。次の電車は五分後らしい。だが、それは快速電車。俺の最寄駅は、残念ながら快速が止まるような大きな駅じゃない。各駅停車しか止まらない、降りる人も少ないさびれた駅だ。

(まあ、そのぶん家賃は安いから、たいして不便はしてないけど)

 そのあとにくる各停は、急行のさらに五分ほどあとらしい。つまり十分弱はここで足止めである。

(今のうちにメールでも返しとくか)

 家についたらそのまま忘れて寝てしまいそうだ。紙袋を持ち上げて、ホームの隅に設置されたベンチへと腰を下ろす。リュックを膝に置きがさがさと底のほうを漁れば、指先にひんやりとした固い感触が当たった。そのままガッとつかんで腕を引き抜く。
 姿を表したのは、今時珍しい二つ折りタイプの携帯電話だった。いわゆるガラケーというやつだ。しかも、随分昔の型だから妙に分厚くてごつい。実は、高校時代から使っているものだったりする。だから仕方ないのだ。
 ぱかりと開くと、買った時からそのままの待ち受け画面に表示された「新着メール十九件」の文字が目に飛び込んでくる。十九件かあ、と我ながら放置しすぎたことにちょっと引いた。その直後、俺はすぐに「ん?」と首をかしげることとなった。

「留守電とか、めずらしいな」

 待ち受け画面には、新着メールの文字に並んで「留守録一件」の文字も浮かんでいたのである。
 俺に電話をしてくるやつなんて滅多にいない。なぜなら、メールにすらなかなか返事をしないような俺に電話をかけたって、タイミングよく出たりするわけがないと、大体の知り合いは知っているからである。

 そうじゃない場合で言えば、大学からの連絡とか実家からとかだろうか。そんな風に推測を立てながらカチカチと携帯を操作するも、俺の予想はすぐに外れと知れる。発信元として表示されていたのは「090」から始まる十一桁の見知らぬ番号だった。
 携帯電話の番号である時点で、大学や実家からである可能性は消えた。あとは、なんだろう。誰かが番号を変更したのだろうか。変更の連絡をもらっても、俺がそれを登録し忘れているなんていうことはざらだった。

「ま、聞けば誰かわかるだろ」

 考えるのが面倒になって、俺は再生ボタンを押し込む。携帯を耳に当てれば、すぐに機械的な声が聞こえてきた。

『一般録音、一件。六月二十六日、十二時五分、です』

 ピーッ、という電子音を合図に再生が始まる。ブツ、と繋がった回線の向こうは、やけにざわざわとしていた。コピーがどうのとか、会議がとか、だれそれ部長がどうの、なんていうやり取りが聞こえる。

(どっかの会社かなんかか……?)

 ますますわからなくなってきた発信元に混乱していると、聞き覚えのない、低く落ち着いた男の声が流れ出した。

『もしもし? すみません、今夜なんですけど、十九時に予約できますか?』
「……は?」

 これはリアルタイムの通話ではない。わかっていても、電話の相手に思わずそう返してしまう。

(は? 今夜十九時に予約? 予約って、なんのだ?)

 頭のなかにいくつものクエスチョンマークが浮かんでは、答えを得ることのないまま弾けて消える。疑問は尽きない。だが、手の中の温度のない無機質な機械はそんなことはつゆ知らず、知らない男の声を発し続けた。

『あ、ヤエガシって言います』

 やっぱり、知らない名前だ。だれだ、ヤエガシって。

『連絡先は090の――』

 いや、電話番号なんて入れられても困る。個人情報だし、俺にどうしろっていうんだ。
 ヤエガシなる男の言葉にひとつひとつツッコミを入れていくも、一向に相手が誰なのか、この電話がなんなのかはハッキリしない。そんななか、俺は次の言葉に「あ」と目を見開いた。

『それで、飲みホコースでお願いしたいんですけど』

 飲みホ。つまり、飲み放題。突如現れた聞き覚えのあるワードに反応してしまう。
 いくら携帯電話を携帯せず、メールや電話を放置しまくり、ガラケーで、ラインもツイッターもフェイスブックもやっていなかったとしても、俺だって、これでも一応「イマドキの若者」だ。資金の関係でそう頻繁に参加できるわけではないが、ゼミの仲間たちと飲み会ぐらいする。

 だから、その言葉がさしている意味はすぐにわかった。それからこの電話が一体なんなのかも、ようやくそこで気がついた。
 なるほど。つまり、これは。

「間違い電話か」
『以上、一般録音、一件です』

 ぽつりとつぶやいた声に機械音が重なる。ピーッと再び電子音が鳴って、留守電の再生が終わった。それに合わせて画面が切り替わり、初期設定のままの待ち受けへと戻る。中央にデカデカと表示された時刻を目にして、俺は肩を落とした。

「……どうしろってんだ、これ」

 がっくりと肩を落とし、頭を抱える。現在時刻は十八時過ぎ。間違い電話の主・ヤエガシが指定していた十九時まで、そう時間は残されていなかった。
 相手の声や話し方の雰囲気、背後のざわめきからして、ヤエガシさんは会社員かなにかだろうか。時間的に、予約の電話も昼休みを使ってとかだったのかもしれない。だとしたら、この時間までまだ、返事の折り返し連絡がないことにも気づいていない可能性もある。

 もう一度、電光掲示板を見る。まだ快速電車すら来ていない。俺が乗る予定の各駅停車が来るまでは、じゅうぶんすぎるほど時間が残されていた。

(会社員って、そろそろ終業時間か?)

 このまま、電話の相手を間違えたことに気づかないまま店に行っちゃったらかわいそう、だよな。
 うっかりそんな同情心が顔を覗かせる。どうせまだ時間もあることだしと、俺は、着信履歴に残されていた十一桁の番号にコールした。

(居酒屋の予約に携帯電話って、めずらしいよな。チェーン店じゃなくて個人経営の店とかなのか?)

 プルルルル、という呼び出し音を聞きながら、そういえば、と今更のように思う。二、三回コールしたところで、プツリ、とすぐに電話は繋がった。

『……はい、ヤエガシですが』

 留守番電話に入っていたのと同じ名前を名乗られる。知らない番号を警戒しているのか、少し堅めの声に、どきりと緊張が背筋を走った。

「あ、の。今日の昼ごろ、予約の電話をいただいたものですけど」

 今夜十九時に飲み放題の、と付け足すと「ああ」とようやく電話の理由に思い当たったらしい。「ヤエガシさん」の声から棘が取れる。

『わざわざどうも、すみません。今日、十九時に大丈夫そうですか?』
「いや、それが」

 快速電車が通過いたします。そんなアナウンスがホームに流れる。違うんです。そう続けた声は、ホームに滑り込んできた快速電車が立てる轟音によってかき消された。

『え? すいません、ちょっと聞き取れなかったんですけど』
「だから、その、違うんです」
『違う?』

 ヤエガシさんの声が、たちまち怪訝そうなものになる。

「間違ってるんです、電話番号が。この携帯、居酒屋の予約用電話とかじゃなくて」
『ハァ!? ……まじで?』

 あ、急にフランクな話し方になった。思いつつも、間違い電話についてわかってくれたらしいことにホッとする。

「なので、今夜十九時に予約は……」

 できません、と言いかけた瞬間。それを遮るように「じゃあさ」と切り返された。

『アンタは?』
「……は?」
『アンタは、今夜十九時に予約できる?』

 なに言ってんだ、こいつ。
 咄嗟に口悪くそう返しそうになって、慌ててぐっと言葉を飲み込んだ。しかし、人の混乱をよそに男――ヤエガシさんは続ける。

『店予約できねーんなら、俺、今夜暇になっちゃうんだよね。せっかくの花の金曜なのに。だからさ、アンタ、暇だったら今夜つきあってよ』

 ……いやいやいや。一体全体、なにがどうして、どうなったら「だから」に繋がるんだ。全く意味がわからない。だいたい、間違い電話はそっちのであって、俺にはつきあう理由も必要性も義理もないだろう。頭が痛い。

「いや、無理です。普通に考えて」
『なんで? 今夜デートの予定でもあんのか?』
「デート、は、ないですけど」

 そもそもデートするような相手もいないが、そういう問題じゃない。

「とにかく、無理です。すみません」
『そこをなんとか』
「いやだから、」

 無理だって言ってるだろう。あまりのしつこさに、つい声を荒げそうになる。そこで、タイミングよく列車到着のアナウンスが流れた。

「あー、すいません。電車来ちゃったんで、切ります」

 それじゃあ、そういうことなんで。
 と、我ながらしらじらしいとは思いつつも、勢い良く電源ボタンを押し込んだ。ブチリ、と通話が途切れる。はあ、と思わずこぼれたため息をかき消すように、待ち望んでいた各駅停車がホームに滑り込んでくる。
 結局、ゼミ合宿のメールは返せないまま、俺は携帯を再びリュックの底へ押し込んだ。よいせ、とリュックを背負い、弁当の紙袋を持ち上げる。

(ほんの数分の電話だったってのに、なんか、すごい疲れたな……)

 開いたドアから乗客が降りるのを待って、電車に乗り込む。ちょうど空いていた座席に腰を下ろすと、ずっしりと疲労感がのしかかってきた。

 通路を挟んだ向かいの窓ガラスに、おぼろげに自分の顔が映っている。伸びかけの前髪を雑に斜めに流して、少しきつめの目元を隠した、何の変哲も無い自分の顔だ。特徴らしい特徴といえば、鎖骨に届くほどの長さをした襟足くらいだろうか。
 もともと血色がいいとは言い難い顔には、混乱と動揺と疲労とがないまぜになって浮かんでいた。

(まあ、いいか)

 どうせ、もう二度と関わることもないだろう。そう判断して、電車の心地よい揺れを感じながらそっと瞼を閉じる。
そんな自分の考えが甘かったと知らされることになるのは、それから一週間後のことであった。


(略)


 その日、俺はアパートの一室で、半月ほど先に迫ってきたテストに向けて論述試験の対策をしていた。

 もうすっかり日は沈み、日中に比べるといくらか気温は下がってきている。とはいえ、夕方まで降り続いた雨のせいもあり、室内は蒸し暑かった。貧乏学生にはエアコンなんていう文明の利器は縁遠い。暑さを和らげる術は俺にはなかった。
 じっとりと汗に湿ったシャツが気持ち悪い。襟首のあたりをつかみ、ぱたぱたと仰ぐことで風を送り込んでみるも、気休め程度にしかならなかった。

「あー……クソッ」

 だめだ、暑さで集中力が続かない。舌打ちと共にシャーペンを放り出す。ローテーブルの上に広げていた無駄に分厚い参考文献を閉じて、ごろりと畳の上に倒れこんだ。目を閉じれば、じんじんとした重みがまぶたの裏に広がる。少し目を酷使しすぎたかもしれない。

(目薬、どこやったっけな)

 寝返りを打って、部屋の隅に置いたリュックへと手を伸ばした。肩紐をつかんで引き寄せるその途中、視界の端でなにかがチカチカと光っているのに気づく。規則的に点滅する緑色の光に、あ、と俺はとあることを思い出した。

「そういえば、携帯」

 一昨日あたりに充電器にさしてから、ずっとそのままだったか。

「マジかよ……」

 いくら何でも無頓着すぎる自分に呆れを覚える。さすがに持ち歩くようにはしよう。反省しつつ上体を起こした。
 そのままコンセントのほうへと這っていけば、案の定、充電器に繋がれたままの二つ折り携帯がそこにはあった。
それにしても、このチカチカ光っているのは一体なんだろう。充電ケーブルを外しながらパカリと開くと、待ち受けに大きく「着信」の二文字が踊っていた。その下には、なんだか見覚えのある十一桁の数字が並んでいる。

(まさか……いや、まさかな?)

 なぜ今更電話してくるのか。その理由がわからない。どうしたものかと思っていると、長く続いたコールが一度ふつりと途切れた。見慣れた待ち受け画面が戻ってきたことにほっと肩の力が抜ける。
 諦めたのだろうか。そんなことを思うのも束の間、二度目のコールはすぐにやってきた。

「……ああ、もう!」

 出ればいいんだろ、出れば! もはやほとんどやけくそ気味に、俺は通話ボタンを押した。

「……もしも、」
『あっ、すいませーん! 今夜の十九時はぁ、予約れきますか〜ぁ?』

 もしもし、と言い切らないうちに回線の向こうから飛んできたのは、調子っぱずれなそんな言葉だった。ゲラゲラゲラ、と続いた笑い声に、電話の相手が酔っ払っているらしいことを知る。この間とはずいぶん様子の違うへにゃへにゃとした男の声に、自然と眉間に力が入った。右手首の腕時計に目を落として、ため息をひとつ。

「今、もう二十二時なんですけど」
『あっはっは、そうだったわ〜! 悪い悪い!』

 自分で言っておきながらおかしくなったのか、電話口で男は急に笑い転げ始める。その背後はやっぱり騒がしい。発車ベルやアナウンスの音が聞こえるあたり、駅にでもいるのだろうか。どうやら、今週の花金は暇にならずに済んだらしい。

(つーか、社会人ってこうも毎週末飲むもんなのか?)

 先週は結局どうなったのかも、そもそも社会人なのかも本当のところはわからないけれど。もしそうだとしたら、ちょっとどうなのかと思ってしまう。少なくとも、自分はこんな大人にはなりたくない。

『なぁ〜、いま、なにしてた?』
「レポート、ですけど」

 正確にはレポートではないが、細かいことはどうでもいいだろう。どうせ、向こうには俺が実際に何をしているのかなんてわかりっこないのだから。

『レポート! 懐かしい響きだなぁ。ってことは、お前、学生か』
「はあ、まあ」
『大学か? いま何年?』
「いま三年ですけど」
『じゃあ、まだハタチかそこらかぁ〜』

 わっかいなぁ、としみじみとした口調で男は言う。若いねぇ、とかいいわねぇ、なんていうようなことは、バイト先の喫茶店でも、マスターや常連客をはじめとする目上の人に度々言われることがあった。そのたび俺は、別に若いからどうということもないだろう、いずれは誰しも年をとるのだから。なんて思っていたが、もしかするとこれは、年下の相手に年齢を聞いたときの一種のお約束のようなものなのだろうか。

「……ちなみに、おいくつなんですか」
『俺ぇ? 俺はもーすぐ二十八だな』
「へえ」

 別に、言うほど自分も年を取っているというわけではないじゃないか。やっぱりただのお約束のようなものなんだな、と再確認させられる。

『へぇ、ってなんだよ、へぇって! もうちょっとなんかないわけ?』
「いや、べつに」

 聞いて欲しいのかと思って聞いてはみたが、別に興味が有るわけじゃない。そもそも、顔も名前も知らない、たった一度電話をしただけの、それすらきっかけは間違い電話だったような相手に、この人は何を求めているのだろう。

「ていうか、なんの用なんですか」

 また間違えたのかとも思ったけれど、どうやらそういうわけではなさそうだが。電話回線の向こうへ問いかければ、男は急に「んー……」と言葉を濁した。

『いやぁ、実は今日、会社の飲み会だったんだけどさぁ』
「はあ」

 気の無い返事をしながら、ああ、やっぱり社会人だったんだなと、脳内で彼についての情報を書き換える。

『なんか、大勢で騒いだあと、別れて一人になったら急に寂しくなっちって』
「はあ?」
『そんで、携帯見てたら先週のこと思い出してさー』

 ついかけちゃった、と。語尾にハートマークか音符でもつきそうな声色で男は言った。

「……はあ?」

 なんだ、それは。なんだそのしょうもない理由は。そんな理由で、俺はこの男の電話に付き合わされていたのか? どうしようもない苛立ちが、ふつふつと腹の底から湧き上がってくる。

『でも、お前と話してたらなんか寂しくなくなってきたわ! あんがとな!』
「はあ、そうですか」
 そりゃあよかったですね。俺は全然よくないけど。
『おう。んじゃ、切るな!』
「は、え? ちょっ」
『そんじゃ、またな!』

 ちょっと待て。そう引き止めるよりも早く、男は一方的に言い切ると通話を終えた。ツー、ツー、と冷たい機械音しか返さなくなった携帯電話に、まじか、と信じられない気持ちでいっぱいになる。

「……なんだったんだ、いまの」

 寂しかったからって赤の他人を巻き込むなとか、いくらなんでも一方的すぎやしないか、とか。言いたいことならたくさんある。が、とりあえず。

「またなってなんだよ、またなって……」

 あの男、またかけてくるつもりなんだろうか。そう思うだけで、なんだか胃が痛かった。


(略)


「そういえば、店長さぁ!」

 宴もたけなわとなりはじめたころ、突如店内にそんな声が響き渡った。相当酔っているらしい。音量調節もなにもあったものじゃない大声に、誰もがぎょっとしてそちらを振り返る。見ると、カウンター席にいたあの男が、カウンターから身を乗り出すようにして先ほどとは違う店員を捕まえていた。

(なるほど、あれが尾上の知り合いか)

 俺たちよりもわずかに年上だろうその男は、明らかな酔っ払いを前にしているというのに、嫌な顔一つせずに「はいはい、なんですか」なんて男の話を聞いている。酔っ払いの相手には慣れているのだろうか。
 ちょっとマスターと雰囲気が似ているかもしれない、なんて一方的な感想を抱く。と同時に、酔っ払いの男の声にどこか聞き覚えがあるような気がした。ジョッキを傾けつつ耳をそばだてる。

「こないださぁ、ここ予約しようとして間違い電話したって言ったじゃん?」
「そういえば、そんなこと言ってましたねぇ」
「その電話の子と、俺、最近よく電話でおしゃべりしてるんですけど。こないだ、よーっやく! 名前教えてくれたんすよォ!」
「本当ですか? すごいですねぇ」
「んで、ハスミくんっていうらしいんだけど、」
「……え、ハスミ『くん』?」

 「ちゃん」じゃなくて? という店長のとぼけた返答を聞く間もなく、俺は、聞こえてきた会話の内容にブフッと口に含んでいた酒を噴き出していた。

「なんだ、男の子だったんですか? 電話の相手」
「や、そう、男だよ。男なんだけどさあ。なんか、ちょーかわいいんだよねぇー、これが」

 そう言ったかと思うと、その酔っ払いの男は「へへへ」と甘ったるい笑い声を漏らした。まるでのろけ話でもしているような調子である。
 その一方、俺はというと。

(なんだこれ。なんなんだ、これ?)

 混乱の渦の中で、噴き出した酒を口からダラダラとこぼし続けていた。
 どうしてあの酔っ払いが「ハスミ」なんて名前の電話の相手の話をしているのだろう。まったくもって意味がわからない。理解不能の一言に尽きる。
 わけがわからないままポタポタと顎から酒を滴らせていると「おい」と金沢が俺の肩をつかんだ。

「おい、……おい! 蓮見ってば!」

 大声で名前を呼ばれ、ハッと我に返る。至近距離から俺の顔を覗き込んだ金沢が怪訝な顔をしていた。他のメンバーたちも一様に驚いている。

「蓮見おまえ、どうしたんだよ急に。ほら、これで早く拭けって」

 金沢に続いて正気に戻ったのは尾上だった。近くにあったおしぼりを、俺に向かって投げつけてくる。

「ああ、悪い……」

――じゃ、なくて。

「おま、いま、名前」

 お前ら、いま俺の名前をでかい声で呼んだよな。俺が二人にそう確認するよりも先に、ガタン! と背後から椅子を引く音が聞こえてくる。それが答えだった。

 恐る恐る振り返る。顔面にへばりついたおしぼりの隙間からチラとカウンターの方を見やれば、ばちりと視線が絡み合った。
 ふらふらと危なっかしい様子で立ち上がり、同じようにこちらを見ていた、あの酔っ払いの男と、である。

「げ」

 顔を拭くのもそこそこに俺は立ち上がる。そのまま座敷を飛び出して、乱暴に脱ぎ捨てたスニーカーへと足を突っ込んだ。

「おい、蓮見? どうしたんだよ」
「顔、洗ってくる!」

 だから、そう何度も名前を呼ぶな。苦々しい気持ちになりながらも、とっさにそう返した自分の反射神経を褒めたい。靴のかかとを踏みつぶしたまま、ばたばたと足音を立ててトイレへと走る。どうせ狭い店内だ。逃げ切れるわけがない。わかっていても、今ばかりは逃げ出さずにはいられなかった。

 店の規模の割に、清潔感のある白いトイレは広かった。二つあるうち奥の個室へするりと身を滑り込ませると、そっとドアを閉める。ひんやりとしたドアに背を預けて、無意識のうちに詰めていたらしい息を吐き出した。

「……はぁ」

 ばくばくと心臓がうるさい。「マジかよ」と「嘘だろ」がぐるぐると頭の中で回る。冷静になれと自分に言い聞かせてはみるものの、まともな判断なんてできそうになかった。

(もしかしなくとも、これって「たまたま」すぎることが本当に起きたのか?)

 だとしたら、どんな確率だろう。ここまできたら、いっそ運命とか奇跡とかそういう言葉を信じてみたくなる、なんて。そんなことを考えていると、不意にスキニーパンツのポケットのなかで携帯が震えた。かすかな震動音が、しいんとしたトイレの中に響く。
 そして次の瞬間、コツンという靴音が、すぐ近くから聞こえてきた。

「ここか」

 いやに落ち着いた声が俺の鼓膜を揺らす。続けざまに、ドアの向こうから、ガン! と鈍い衝撃が俺を襲った。

(そうだ俺、ドアの鍵、)

 かけ忘れてたんだっけ。後悔するももう遅い。驚きに目を見開く間も無くよろめき、ドアに押されるような形で前へと倒れ込む。慌てて壁に手をつくことで、俺はトイレの床とこんにちはすることから免れた。

 体勢を整えながら振り返ろうとしたとき、それを拒むようにふわり、と背後から暖かいなにかに包まれた。


(略)


 「指切り」をしてしまったせいなのか、なんなのか。以来、俺は八重樫さんとよく食事に行くようになった。それは俺の夏休みが終わって、大学の秋学期が始まっても変わらない。
 大抵は俺の講義がなくバイトが終わるのも早い金曜日、そうじゃなければ俺がバイトのない平日の十九時に駅前で待ち合わせ。それがすっかり定番となってしまった。八重樫さんが連れて行ってくれる店の料理はどこも美味しいし、八重樫さんとの会話も時間も楽しいから、一緒に食事をすること自体には不満はない。

 ただ、ひとつ。あのときあれほど割り勘だと言っておいたのにも関わらず、毎回おごられてしまっている現状だけが不満だった。
 ある時は、俺がトイレに立った隙に会計を済まされ。ある時は、二人揃ってレジまで行っても俺が財布を出すより早く「一括払いで」とクレジットカードを出され。またある時は、俺が酔いつぶれてへにゃへにゃになっている間に。エトセトラ、エトセトラ。もう、何回八重樫さんにおごられているのかわかったものじゃない。
 そうやって、あの手この手で俺にご飯をおごろうとしてくる八重樫さんは、今日も、大衆居酒屋の席に着くなり

「俺のおごりだからなー。飲め飲め、若者ー!」

 と、すでに一杯ひっかけてきたみたいなテンションで言った。ああ、この人、今日も俺に払わせる気ないな。給料日直後ということもあって、余裕を持って諭吉を数人連れてきたというのに。ドリンクメニュー越しににらみつければ、うん? と首をかしげられる。

「……あの」
「どした? ハスミン」
「ハスミンはやめてください。……じゃなくて、あの。八重樫さん、なんでそんなにおごりたがるんですか?」

 これは、ここのところずっと不思議で仕方なかったことだ。けれど、はっきりと口に出して問うたのはこれが初めてである。
 テーブルを挟んだ向かい側で、八重樫さんはきょとんとした顔になった。隙だらけで無防備な表情は、すこしだけいつもより幼く見える。はっきりとした大きな黒目をじいっと覗き込めば、俺の追及から逃れるように視線がスイと宙へ泳いだ。

「んー……なんで、って言われてもなぁ」

 沈黙。唇を尖らせてみたり、眉間にしわを寄せてみたり、意味もなく両手の人差し指の先をくっつけて、ひとりE.T.をしてみたり。壁に囲まれた簡素な個室の、周囲の席から漏れてくるざわめきのなかで、八重樫さんは散々悩んだ。
 そして、その末に、こんなことを言う。

「蓮見くんがかわいいから、かな?」
「……かわ、いい?」

 かわいい? かわいいってなんだ? かわいいって、もしかしてあれか。一般的には動物とか小さい子供とか女の子とかに対して使うことの多い、あの形容詞か。それを、この、どこからどう見ても「かわいい」とは程遠い身長百八十センチ越えのでかい男に対して言うのか。

(八重樫さん、どっか頭ぶつけたのか?)

 それとも本当に、ここに来る前にどこかで一杯ひっかけてきていて、見た目にはわからなくても結構酔ってたりするのだろうか。八重樫さんが俺のことを「かわいい」と言うのはこれが初めてというわけじゃない。けれど、この場面でまたそれを口にするのはどこか違う気がした。
 真意を図りかねて、つい眉間に力が入る。するとそれをどう受け取ったのか、八重樫さんは先の発言を誤魔化すようにへらりと笑った。そこには、あまり深い意味はないように見える。

(弟みたい、とか、そういう意味なのか?)

 考えても考えても、答えはそう簡単に出そうになかった。


(略)





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