05




(今日、どんな顔して加賀に会ったらいいんだよ……)

 翌朝、篤志は悶々としながら校門をくぐった。
 昨日の今日でそう簡単に心の整理がつくはずがない。せめて間に休日を挟んでくれたならと、昨夜の篤志は散々祝日ではない今日の日付を恨んだ。けれどそうやって悩んでいたって朝は来るもので、非情にも加賀と再び顔を合わせる時間は刻一刻と迫っていた。

 今日は朝から、うるさいくらいに地面を打ちながら激しい雨が降っていた。篤志の心情を反映したかのように空は大荒れだ。篤志自身も、どんよりとした重たいものを背負ったままで下駄箱を開ける。

「今井くん?」

 聞きなれない声で呼び止められたのは、ちょうど上履きに履き替えている最中のことだった。振り返れば、篤志には見慣れない女子生徒がひとり立っている。誰だろうか。上履きのラインの色が篤志と同じだから、恐らく同じ二年生なのだろうが。
 少なくとも篤志は知らない、話したこともない女子生徒だった。けれど、訝しげに眉をしかめた彼女の顔には、ふしぎと見覚えがある。

「D組の今井くん……で、あってる?」
「ああ、うん。今井は俺だけど」
「よかった。反応薄いから間違えたかと思っちゃった」

 ほっとしたように息を吐いて、ようやく彼女は表情を緩めた。

「俺になんか用?」
「うん。ちょっとだけ、いいかな」

 話があるんだけど。そう続けて、女子生徒はちょいちょいと篤志を手招きする。このシチュエーションに篤志は既視感を覚えた。たしかこれは、加賀に告白をされたときと一緒だ。もっともあの時は放課後だったし、加賀の方は、この女子生徒はとは違って始めから篤志のことをきちんと認識しているふうだったけれど。

 だが、女子生徒には、どこか思いつめたような雰囲気があった。この様子では決して告白などではないだろう。しかしそうでなければ一体なんなのだろう。内心首を傾げつつも、いいけどと篤志は頷いた。

「こっちなんだけど」

 短いスカートの裾を翻して、女子生徒が先に歩き始める。上履きの踵を踏んだままであとを追えば、特別棟へと繋がる渡り廊下へと出た。いまだに外は土砂降りのなか、雨除けにトタン屋根の設置された細い通路では、数人の女子の集団が篤志を待ち受けていた。
 その集団のひとりひとりにも、篤志には見覚えがある。

「急に呼び出してごめんね、今井くん」
「や、べつにいいけど……何の用?」

 こんなところに呼び出して、と。自分をぐるりと囲んだ女子生徒の顔をひとつひとつ見据えていく。すると、先ほど「ごめんね」と言ったリーダー格らしき女子生徒が「あのね」と口を開く。

「加賀くんのことなんだけど」
「あっ」

 なるほどと、篤志はおもわず声を上げそうになった。そうだ。下駄箱で声をかけてきた女子生徒もこのリーダー格の女子も、今ここにいる全員、以前弓道場にいた加賀のファンたちである。どおりで見覚えがあるはずだ。

「今井くん、最近加賀くんと仲いいよね?」
「まあ……いいような?」

 果たしてあれは仲がいいと言えるのか。篤志自身よくわからなくて、曖昧な返事になる。だがそのあたりは彼女たちにとって大した問題ではないらしい。さらに話は続く。

「なんか最近、加賀くんが変わった気がして」
「変わった?」
「うん。なんだか急に、ファンの女の子に優しくなったっていうか……」
「え、それって元からじゃねえの?」

 少なくとも、篤志が見に行ったときには相当愛想よくしていたと思ったけれど。口を挟めば、違うの! と女子たちが次々に口を開く。

「前は部活中に歓声あげられても、ほとんど無視かちょっと嫌そうな顔してたくらいなのに、最近はすっごいニコニコしてて、たまに手も振り返してくれたりして」
「そうそう! それに、最近は前ほど嘘もつかなくなったし。ついてもすぐに嘘ってわかるような簡単なやつしかつかなくなったよね」
「あとは、誰かが傷ついたり困ったりするようなのはつかなくなったかな」
「それから、わたしは美化委員の女の子の仕事手伝ってあげたっていうのも聞いた!」
「前までの加賀くんだったら、絶対人の手伝いとかしてなかったよね」

 同意を求める声に、うんうん、と女子たちが一斉に大きく頷く。

「だから、最近噂されてるの。加賀くん、彼女でもできたんじゃないか、って」
「はっ!? 彼女ぉ?」
「うん。それで恋人の影響受けたとでも考えなくちゃ、あの変わりっぷりはないと思ったんだけど……今井くん、なにか聞いてない?」

 どう? と期待のまなざしを向けられる。篤志は「どう?」と聞かれてもと困惑顔だ。

(加賀……そんなに変わったっけ?)

 少なくとも、篤志が「おつきあい」を始めてからはずっと変わっていないと思うのだが。言われてみれば、確かに以前ほど頻繁には購買のおばちゃんに嘘をついていない気もするが、それ以外のところ――教室や部活ではどうなのかまでは、さすがに篤志は関知していない。ううん、と頭を悩ませる。

「加賀に彼女、かぁ……」

 加賀に彼女。文字面を思い浮かべるだけで憂鬱な気持ちになる。彼女はいないけど、彼氏ならいる。

(誰かって? ……俺だよ……)

 それはまぎれもない事実だが、そう言ったところで、どうせ嘘だと思われるのがオチだろう。じゃなければ、加賀くんのマネ? と笑われでもするかもしれない。

(そもそも、俺たちってほんとに付き合ってんのかな……)

 告白をされた。オーケーした。手をつないだし、キスもした。けれどあの最初の日以来、加賀は一言も好きだのなんだのという言葉を口にしない。篤志自身も、「好きだ」と加賀に直接言葉にして伝えたことはなかった。
 昼休みも放課後も、基本的にふたりともあまり話さないし、昨日だって話したのは数式の解き方とか解法のコツとか、そういうことだけだ。そう考えると、加賀とのこの関係がいったいなんなのか、篤志にはよくわからなくなってくる。

 こうして加賀に恋人がいるのか、それが誰なのかと聞かれたところで、篤志は声を大にして「加賀は自分のものだ」と宣言できるわけでもない。たとえ内心では燃えさかる嫉妬心に駆られていたとしても、それをあからさまに表に出すことはできないのだ。
 加賀が多くの女子に慕われているということへの嫉妬心と、未だに信じきれない加賀への猜疑心とで、篤志の頭のなかはいっぱいになる。昨日、キスをしたときのあの胸の高まりさえ薄れてしまいそうだった。
 そうして、迷った末に篤志が出した答えは。

「や……俺はわかんねぇや」

 なんていう、ひどくずるい逃げの選択だった。

「えー、そうなの?」
「俺だって、言うほど加賀と仲いいわけじゃねぇし」

 ダウト。そんなのうそだ。毎日昼休みと放課後を一緒に過ごしている相手と、仲がよくないわけがないだろうに。

「そうなの? すごい仲よさそうに見えたのに……」
「だってあいつ、話してたってどこまで本当のこと言ってんのかわかんねーじゃん」

 これは本当だ。時々、ふつうになんでもないことを話しているときでも、ふっと「もしかして、これもうそなんじゃないだろうか」と思うときがある。
 帰り道に手をつないでいるときも、教室で頬にキスされたときも――昨日、キスをされたときも。いつ冷たく振り払われて「うそだよ」と現実を叩きつけられるのだろうかと、ひどく冷静に考えてしまいそうになる瞬間がなんどもあった。

 だから、自分には加賀の考えはわからない。うわ言のように繰り返せば、あー、と同意のような声がまばらに返ってきた。

「なんか、それはわかるわー」
「だよねぇ。もし加賀くんと付き合えて好きっていわれても、本当なのかな? って思っちゃいそうだし」
「またうそかぁ、ってね」
「そういう意味じゃあ、加賀くんのこと彼女になるのってすごい大変そう」
「だよねぇ」
「ほんと、それ」

 女子たちは、好き勝手にぺらぺらと喋る。ここ一ヶ月ほどですっかり耳に馴染んでしまった、あの低く落ち着いた加賀の声とは違う、きんきんとした甲高い声。
 ぺらぺら、ぺらぺら。加賀にまつわるあることないことをうそぶくそれが、ぐるぐると篤志の頭を掻き乱す。ぐるぐるぐるぐる。なにがなんだかわからなくなる。ボタボタとトタン屋根を打つ雨音までもがやけに大きく鼓膜に響いていた。くらりと眩暈がする。いっそ、吐き気すら催しそうだ。

「――もう、いいか?」
「えっ、あ、うん! 引き止めちゃってごめんね、どうもありがとう!」

 これ以上ここに居たくない。その一心で声を絞り出せば、拍子抜けするほど呆気なく篤志はその場から解放された。これ幸いとばかりに、早足にその場から立ち去る。ざあざあと降り続く雨音に紛れるようにして、篤志は自分の教室を目指した。
 いま、もし加賀と鉢合わせてしまったとして、うまく表情を取り繕える自信はかけらもなかった。




 女子たちと話している間に結構な時間が経っていたらしい。篤志が無事、加賀と遭遇することもなく教室についた途端、見計らったように予鈴が鳴り響いた。
 ざわつく教室内を横切り、がたんとやや雑に椅子を引いて崩れ落ちるように座り込む。ふーっと無意識のうちに詰めていた息を細く吐き出せば、視界の隅によーくんの姿が映った。
 いつも遅刻ギリギリか、十分前後は遅刻してくるよーくんがすでに席についているだなんて珍しい。そう思う篤志と同様に、きっとよーくんも篤志が予鈴ギリギリに駆け込んできたことを不審に思っているのだろう。なにかあったのかと探るようなまなざしを向けてくる。なんでもない、大丈夫だ。そう答えれば済むことだとわかっていても、今の篤志にはその気力もなかった。ただ一度だけ、ひらりと力なく手を振っておく。

 一時間目の授業は数学だった。ちょうど昨日加賀に教わったばかりのところをなぞるような授業は、すんなりと篤志の頭の中に入ってくる。予習復習が大事というのはこういうことかと篤志は身をもって知った。
 まっちゃんの持つ白いチョークが、さらさらと黒板の上に数式を描き出す。いつもなら怪文書にしか見えないその数列から導き出される答えがぱっとすぐにわかることさえ、ひそかに篤志を喜ばせた。

 けれど一方で、それがまた、篤志のなかにある加賀の存在の大きさを思い知らせるようで苦しかった。シャープペンシルを握った自分の右手さえ思い通りに動かせなくなってしまうような、そんな錯覚さえ抱く。

(なんで俺、こんなイライラしてんだよ……)

 篤志は、あまりにも不安定すぎる自分の心を、完全に持て余していた。そもそも、この釈然としない思いが本当に苛立ちなのかすら危うい。プラスチックでできた安っぽいペンを折らんばかりの勢いでぐっと握りしめる。波打つ感情をぶつけるようにしてがりがりとノートの上に黒鉛をこすりつけた。がりがりがり。胸のなかにつかえているものを、ひとつひとつ書き出していった。

『加賀のやつ、あんなにモテやがって。しかも、みんなにいい顔しやがって』
『周りを気にしないで、加賀にキャーキャー言える女子たちがうらやましい』
『俺だって、堂々と加賀が好きだって言いたい』
『加賀と付き合ってるのは自分だって、堂々と言ってやりたい』



『――けど、俺たち、ほんとに付き合ってるって言えるのかな』



 ぱきん。力を入れすぎたのか、軽い音を立てて芯が折れた。

「あ……」

 折れた芯がノートの上を転がって、まっさらな部分を汚していく。ハッと我に返って篤志は自分の殴り書きを見返した。そして、そのあまりの醜さに顔をしかめる。

(……ばっかじゃねえの)

 カチカチと手早く新しい芯を出して、醜い感情を塗りつぶすように、書き出された項目を全て黒で掻き消していく。

 始めから、加賀の告白が嘘だということはわかっていたではないか。わかった上で、嘘でもいいから加賀と恋人同士になってみたいと、そう思ってオーケーしたのではないか。
 それなのに、今の篤志はあの告白が本当だったらいいのにと、そんな期待をしてしまっている。そのうえ、自分たちは本当に付き合っているのだろうかなんて、身の程知らずな不安に苛まれている。なんて滑稽なのだろう。あれだけ幾度も、加賀に対して「ダウト」を繰り返していたくせに。

 なんだかもう、めちゃくちゃだ。なにかと矛盾している篤志自身も、いまだに掴みきれない加賀も、その加賀のことを篤志に聞いてきた女子生徒たちも。なにもかもがめちゃくちゃで、ぐちゃぐちゃだ。だんだん、考えることすら嫌になってくる。

「はーっ……」

 篤志はひとり、教室の片隅で頭を抱えて、深いため息をついた。



 心ここにあらずの状態でも、人は案外なんとかその場をやり過ごすことができるらしい。その時々、目の前に出された数式や古文や英文に向かい続けているうちに、気がつけば午前中の授業が終わっていた。
 こんなに早く時間が経ったのは始めてだと、異様に芯の少なくなったシャープペンシル片手に、篤志は呆然とした。

「……あれ」

 違和感を覚えたのは、昼休み開始のチャイムが鳴ってしばらくしてからのことであった。なんということはない。毎日毎日、忠犬よろしく昼休み直後に篤志をD組の教室まで迎えに来ていた加賀が、いつまでたっても姿を現さないのである。

「あれ、あっくん、昼飯いかねえの?」

 篤志の前の席を勝手に拝借して、よーくんはどっこいせと腰を下ろした。いつもなら加賀に連れられて購買にいるだろう時間に、まだ篤志が教室にいるから妙に思ったのだろう。

「今日加賀は? 休み?」
「さあ、知らね」
「えーっ、なんっだそれ。あっくん、やっぱアイツに騙されてたんじゃねーの?」

 あくまでおふざけのトーンで言って、よーくんはケラケラ笑う。が、今の篤志はそれを冗談として受け止めることができない。ついついしかめつらになってしまった。

「騙された、なぁ。もしかしたら、マジでそうかもな」
「……え、なに? あっくん、アイツとなんかあったの?」

 篤志の様子がおかしいことに気づくと、よーくんは急に声のトーンを下げた。アイツ、という言葉がどこか鋭い。その急変っぷりに慌てたのは篤志だ。

「や、なんでもない! ってかそもそも、いつも別に約束してたわけじゃ、」

 ないし、と負け惜しみのように言ってからふと気づく。

(そういえば、昨日……)

 加賀は「また」と言っていただろうか。記憶を掘り返してみるも心当たりはない。それならば、本当に約束なんてしていないことになる。加賀が迎えに来なくて当然なのだ。

(まあ、別にいいけどさ)

 加賀が来ないなら来ないで、篤志は以前のようにひとりで購買に行って、よーくんあたりと一緒にパンをかじるだけだ。そんな風に強がってはみるものの、やはりどこか落ち着かない。スラックスのポケットに財布が入っていることを確かめると、篤志はスマートフォンだけをひっつかみ立ち上がった。

「ナニ? あっくん、加賀のこと探しにいくワケ?」
「ちっげーよ。購買行ってくるだけだっつの!」

 よーくんに言い逃げして、篤志は教室を飛び出す。ずんずんとA組の教室に向かって廊下を進んでいきながら、篤志は、加賀と一緒に居すぎたせいで加賀のうそつきが伝染(うつ)ったのだろうかと、そんなことを考えていた。



 加賀の姿は、意外にもすぐに見つかった。最初に向かった教室こそいなかったが、次に足を向けた屋上の扉前に、見慣れた濡羽色の黒髪頭があったのである。
 いつもふたりで昼食をとる屋上の扉前には、めずらしく加賀のほかにも人がいた。なにやら話し込んでいる様子だ。篤志はふたりに気づかれないように階段を数段のぼり、踊り場の影に身を潜めた。そうっと数段上の様子を伺えば、ちょうど加賀が壁に背をもたれさせたところだった。

 加賀の立ち位置が変わったことで、その向かいにいる人物の顔が露わになる。どこか思いつめたような面持ちで加賀と対峙していた女子生徒の顔を見て、あっと篤志は目を見開いた。

(あれって、今朝の……)

 加賀とともに屋上前にいたその女子生徒は、今朝がた加賀のことを聞いてきた女子生徒だったのである。あの、下駄箱のところで篤志に声をかけてきた彼女だ。

(なに、話してるんだろ)

 一度気になってしまったら止まらなかった。ダメだとわかっているのに、意識が聴覚へと向かってしまう。篤志は、吐息さえ抑え気味にして、ふたりの会話へと耳をすませた。

「ねぇ、加賀くん、わたしのこと覚えてる? 一年のとき同じクラスだったんだけど……」
「覚えてるよ、阿部さんでしょ」
「そう。じゃあ、一緒に数学係やったことは?」
「覚えてるに決まってるデショ。おれ、そこまでばかじゃないし」
「あはは。そうだよね、ごめんね」

 緊迫した空気とは不釣り合いに、ふたりは当たり障りのない会話を繰り返す。それから二、三言葉を交わしたのち、先にしびれを切らしたのは加賀だった。

「それで、なんの用なの? おれ、そろそろ昼食べに行きたいんだけど」

 空腹のせいか、はたまた別の要因によるものなのか、加賀は苛立たしげに言う。弓道場での愛想の良さが嘘のようだった。早くこの場から立ち去りたいと全身でアピールする加賀に、阿部さんと呼ばれた女子生徒は意を決したように口を開いた。

「あのね、加賀くんって、いま付き合ってるひととかいるの?」

 どきり。篤志の心臓が大きく跳ねる。あんなことを聞いてきた加賀ファンの女子と加賀本人が一緒にいるのだから、そういう話になるのは当然といえば当然だろう。だが篤志は、加賀がそれにどう応えるのかが怖くて仕方なかった。一方的に盗み聞きをしているくせに、耳を塞いでしまいたくなる。どくどくと、鼓動が早くなる。

「……なんだ、そんなこと」

 篤志の不安をよそに、加賀はなんてことないようため息まじりにつぶやいた。ほんとうに取るに足らないような、くだらないことを聞いたと思っているような声だった。

「いるけど」

 これまた、あっさりとした答え。あまりにも簡単に答えが得られたことに、阿部さんの方が困惑しているようだ。

「いるんだ」
「うん、いる」
「……それも、うそ?」

 阿部さんの言葉は、篤志の思いそのものをまるごと代弁したかのようなものだった。真意を探る声に、加賀はふっと笑みをこぼす。

「さあ、どうだろう」

 平坦な声、ほんとうの表情を覆い隠す狐のような笑み。相手を嘲るようにやや傾けられた首と、さらりと流れ落ちたつややかな黒髪と。いつもと変わらぬ見慣れた光景なのに、細められた加賀の瞳に映っているのが自分ではない誰かだという、ただそれだけで、篤志の胸はどうしようもなく痛む。

 あの屋上につながる扉の前の空間は、加賀と自分だけの場所だと思っていた。もちろんそんなわけはないし、何の根拠もないというのに、篤志はそう信じ込んでいたのだ。そんな特別な場所に、自分ではない別の人間と一緒に加賀がいる。ふたりが並んでいるのを見たときからずっと胸の中にあった異物感が唐突にその主張を強めた。ずきん、ずきんと、軋むように心臓が痛む。

「じゃあさ、加賀くん。今日は何月何日?」
「七月一日」

 ダウト。それは明日の日付だ。今日は六月三〇日である。

「やっぱり、うそじゃない」
「うそじゃないよ」
「じゃあ、わたしのこと知ってる?」
「知らない」

 ダウト。たった今同じクラスだったと言っていただろう。加賀の頭は、数分前の会話を簡単に忘れるような脆いつくりはしていないはずだ。

「わたしの名前は?」
「山田花子さん」
「うそ」

 つぶやく彼女の上履きには、さっき加賀が言った通り「阿部」の二文字がかわいらしい字で書かれている。加賀はどこまでも嘘でごまかすつもりらしい。そのことを察したのか、にわかに阿部さんの声に涙の気配が混じる。

「ねえ、お願いだよ加賀くん。わたし、加賀くんのことが好きなの……だから、ほんとうのことを言ってよ」

 じわりと、本格的に彼女の目尻に涙が光り始めた。切に訴えるその声を聞いていたら、いまはただの傍観者であるはずの篤志の方までなんだか泣きたくなってくる。と同時に、やっぱりという思いが篤志の胸をよぎった。

(やっぱり、加賀はうそつきだ)

 それにしても、まさか告白に対しても嘘で返すような真似をするとは思わなかった。日付とか、好きな食べ物とか。そういう他愛のないひとを傷つけない嘘はついても、ひとの真剣な気持ちを嘘で踏みにじるようなことはしないと思っていたのに。

 所詮は篤志も加賀ファンの女子たちと一緒で、加賀に対して勝手に夢を見て、一方的な幻想を抱いていただけなのだろうか。自分でも驚くほどに篤志はショックを受けていた。
 篤志は、物音を立てないようにそっと、しかし足早にその場を立ち去る。もうそれ以上、ふたりの会話を聞いてなんていられなかった。加賀が彼女の告白になんて応えるのかなんて、怖すぎて、聞いていられるはずがなかった。

 そのあと、久しぶりにひとりで購買を訪れると、焼きそばパンはすでに売り切れてしまっていた。いつもより時間が遅かったせいだろう。仕方ない。ごめんねと謝るおばちゃん相手に、篤志は、

「大丈夫だよ」

 と笑顔を浮かべたつもりだったが、もしかしたらうまく笑えていなかったかもしれない。右頬がほんの少しだけ引きつっていたような気がする。
 加賀を避けてじめじめとした人けのない空き教室に入ると、篤志はひとりでパンをかじった。初めて買ったカツサンドはいやにパサついていて、いつも加賀がおいしそうに食べているそれとは別物のように、味気なかった。



 なんとなく、帰る気が起きない。帰り支度はとっくに済んでいるにも関わらず、篤志は誰もいなくなった教室でひとり放心していた。
 そろそろ帰らないと、まっちゃんあたりがやってきてまた雑用を押し付けられるかもしれない。あるいは「テスト前だぞ、早く帰れ」とどやされるかもしれない。そう思うのに、また昇降口前の花壇で加賀が待っているかもしれないと考えるとどうにも体が動かなかった。

 椅子にだらりと全身を預けた状態でぼうっと空を眺めていると、がらりと教室のドアが開いた。噂をすれば影、まっちゃんだろうか。そんなささやかな希望を抱きつつ視線だけをそちらに向ける。

「今井」

 篤志の希望はたやすく撃ち砕かれた。昼間、踊り場から盗み見た時以来の加賀が、あのときと一分の変化もない様子でそこに立っていた。

「……なんの用だよ、加賀」
「今井がいつまで経っても来ないから、迎えに来た」

 雨もひどくなってきたしなんて言いながら、加賀は自分の教室のかのようにごく自然に中に入ってくる。そうして例のように篤志の前の席に横ずわりすると、責めるような視線を篤志に向けてきた。

「今井さ、昼、どこ行ってたの。探したんだけど」
「どこって……べつに、昼飯食いに行ってただけだけど」
「どこで」
「どこだっけ、忘れた。どっかの空き教室」
「誰と?」
「……あのさ、さっきからなんなわけ? しつけぇんだけど」

 はぐらかそうとする篤志を、切れ長の瞳が追い詰める。いっそ怖いくらいに真剣な面持ちに、篤志はおもわず体を引いた。

「べつに、なんでもいいだろ。俺がどこで誰と昼飯食おうと。そもそも、」
「いいわけないでしょ」

 そもそも、いつもきちんと約束しているわけでもないだろう。そう突っぱねようとした篤志に、加賀は食い気味に言った。かと思えば、がたりと席を立って篤志の腕を引いた。

「加賀。ちょっと来て」
「は? 来てって、どこに」
「おれの家」
「お前んち!? なんでだよ!」

 この流れ、こんな状態で家に行くだなんて冗談じゃない。篤志はなんとかして加賀を振りほどこうとするが、弓道をやっているせいだろうか、加賀の手はがっしりと篤志の腕を掴んで離さない。細い腕からは想像もつかない力強さにうろたえてしまう。

「ほら、早く。鞄持って」

 篤志の抵抗など物ともせず、加賀は篤志に鞄を押し付けた。自身もリュックを背負うと、そのまま篤志を引きずるようにして教室を出て行く。土砂降りのなかをぐいぐいと容赦なく引っ張られながら校門をくぐったあたりで、篤志は、加賀から逃げることを諦めた。



 二度目の訪問となる加賀家は、昨日同様静まり返っていた。今日も加賀の家族は誰もいないらしい。けれど、加賀とふたりきりということに対して昨日のような興奮は微塵もなく、それどころか篤志の気持ちは冷めていく一方だった。加賀の両親は共働きなんだろうか、とか。そんなどうでもいいことを考えていないとやっていられないくらいに。

 律儀にも飲み物を用意してくれた加賀と、麦茶のグラスがふたつ乗ったテーブル越しに対峙する。昼間話さなかっただけなのにものすごく久しぶりな気がするのは、ここのところ日に二度は必ず会っていたからだろうか。
 気まずい沈黙を破って、先に口を開いたのは加賀だった。

「あのさぁ、今日の昼、おれ結構今井のこと探したんだケド」

 ダウト。加賀は今日の昼、女子生徒に告白されていただろう。

「ひとりで昼ご飯食べるの、すごい寂しかったんだケド」

 それも、ダウト。加賀がそんなことを気にするはずがない。どうせそんなもの、口から出まかせなんだろう。
 あの女子生徒とのあんな場面を見てしまったあとでは、篤志には、加賀の言うことがすべて嘘にしか聞こえなかった。あれもこれもそれも全部嘘なんだろうと、ヒステリックに叫び出したくなる。期待するだけ無駄で、加賀の言葉を間に受けたって自分が傷つくだけだということは痛いくらいにわかっていた。

――なのに、

「……あのさ、加賀」
「うん。なに、今井」
「お前、俺のこと、好き?」

 それなのに、どうして篤志はこんなことを聞いているのだろう。聞くだけ無駄だ。こんなことを聞いたってなんにもならない。思いながらも、どうしても加賀の答えが気になってしまう。その一挙手一投足に注目してしまう。
 じっ、と全神経を集中させて、篤志は目の前の加賀を見つめる。加賀は驚いたようにわずかに眉を動かした後、ふにゃりとだらしないくらいに顔を緩めてみせた。

「……すきだよ」

 加賀は、テーブルに手をついて身を乗り出す。ぐっと、端整な顔立ちが近づいてくる。
 昨日と同じ部屋、同じ位置で、同じシチュエーション。なにをされるかなんてわかりきっていた。なのに、避けない。篤志は加賀の唇を避けることができなかった。おとなしく、されるがままにキスを受け止めてしまう。

 ぬるりと、篤志の唇に加賀の舌先が触れた。あつい。薄く口を開けて舐め返せば、びくりと加賀の体が震えた。いつもは加賀に翻弄されている自分が加賀を翻弄している。そんなわずかな優越感に浸って、篤志はさらに口づけを深めた。

 ぴちゃり、ぴちゃ、ぴちゃ。ふたりのあいだで濡れた音が立つ。部屋が静かなぶん、その音はいやに大きくいやらしく響いた。舌先をこすり合わせて水音が立つたびに、背徳感にも似たぞわりとした快感が篤志の背を這い上がった。
 混ざった唾液がつうっと顎を伝うころ、間のテーブルがもどかしくなったのか、熱っぽい目をした加賀が篤志に問うた。

「そっち、行っていい」

 もはや疑問系じゃない問いに果たして意味はあるのだろうか。一瞬そんな思いが脳裏をよぎったが、もはや考えることさえ面倒くさい。篤志が頭を縦に振ると、加賀がローテーブルを乗り越えてきた。

 三度目のキスの始まりは、もはやキスというよりも、噛み付くようなかたちだった。勢いに押されるまま、篤志は背後にあったベッドの上に倒れこむ。ぎしりとスプリングが派手に軋んだ。ふたりの行為を咎めるような音に、どちらともなく口づけを中断する。
 篤志は加賀と視線を合わせた。いつでも冷静沈着で、どんなときでも緊張や動揺なんて言葉を知らぬかのように涼しい顔をしていたあの男はどこへやら。加賀は、完全に興奮しきった顔をしていた。

 だが、そんな加賀とは対照的に、篤志の心の中は冷めきったままである。ちゅっちゅと顎へ、首筋へと加賀がいくつものキスを降らせてくるのを、どこか俯瞰するように受け止めるだけであった。

 そのうち、加賀の手が篤志の襟元に伸びてくる。白い指先がワイシャツのボタンを上から順に外していった。加賀はシャツの裾から手を侵入させると、篤志の薄っぺらな腹を撫でる。そのてのひらは、初めて加賀から頬にキスをされたあの日の夕方のように、熱かった。

「すきだよ」

 うわ言のように加賀が囁く。

「今井……今井、すきだよ、いまい」

 名前を呼ばれるたび、好きだと繰り返されるたびに、篤志の胸はきゅっと締め付けられた。真冬の海に投げ込まれたかのように全身が冷え、息が詰まる。こころに巻き付いた鎖をきつく締め上げられているような錯覚さえ覚えた。

(……もう、むりだ。こんなの、くるしいだけだ)

 篤志はもう限界だった。素知らぬ顔で加賀からの愛撫を受け続けているのも、どこまでがほんとうでどこからがうそなのかなんていう疑心暗鬼を抱え続けることも。
 腹の底からせりあがりそうになる何かを堪えるようにして、篤志は両手で顔を覆った。

「……どうせ、それもうそなんだろ」

 ぽろり。篤志の口からこぼれた言葉に、ピタリと加賀が手を止める。かと思えば、ぐいと表情を隠す手をどかされた。

「なにそれ、どういう意味」

 絶対零度の声。いつもは涼しげな切れ長の瞳も、きれいな形の眉も、今ばかりは怒りにつり上がっていた。いまだかつてないほどに低く地を這うような加賀の声に、かすかな恐怖心が篤志の背筋を走る。とっさに視線を正面から逃した。だがそれでも、一度動き始めた口は止まらなかった。

「だから、俺のことが好きだっていうの。それも、どうせうそなんだろ」

 だってお前、うそつきだし。
 身も蓋もない篤志の言葉に、加賀がわずかに肩を震わせ身を引いた。図星かと、篤志はそれさえ嘘の証拠だと受け取ってしまいそうになる。

「もういいじゃん。男の俺と付き合ってたってつまんないだろ。もう面白くもねえうそなんてつかなくていいからさ、別れようぜ、加賀」

 ああ、それとも、そもそも付き合ってすらいないのだろうか。篤志は自嘲気味に付け足した。そうであったなら、ほんとうに滑稽だ。言わずもがな、ひとりであれこれと思い悩んでいた篤志が、である。
 さて、加賀は一体どんな顔をしているだろうか。

「なんだ、やっと気付いたの?」

 そんなことを言って、哀れな篤志のことを笑うだろうか。それとも、せっかくの嘘がもう終わりになってしまったことを嘆きでもするだろうか。

(それとも……)

 あらゆる可能性を思い浮かべながら、加賀の顔を改めて正面から捉え直して、――篤志はぎょっとした。加賀が、世界の終わりを目の当たりにしたかのような、ひどくショックを受けた顔をしていたからである。
 これまで篤志に見せていた感情の読めない狐のようなあの笑顔とは裏腹に、感情むき出しなその表情を目の当たりにして、篤志は息をのんだ。

「なに、それ」

 問いかける声は小刻みに震えていた。

「今井、ずっとうそだって思いながら、そんなこと考えながら、おれと付き合ってたの」
「そう、だよ。ていうか、そうじゃねえのかよ」

 篤志の声までつられて震えてしまう。動揺を隠せない。

(……なあ、加賀。なんでお前、そんな震えて、泣きそうな顔してんの?)

 泣きたいのは、篤志のほうだった。

「なにそれ、なんなの、それ。なんでうそだって思ってるのに、今井はおれと一緒にいたの」
「それ、は……」

 目にはいっぱいに涙をためて、けれどそれをひとつぶも溢れさせないままに加賀は問うてくる。心の一番脆いところをえぐっていくようなそれに、篤志はぐっと下唇を噛んだ。

「それはっ……俺は、うそでもいいって、そう思って、」
「うそでもいいって、どうしてそんなこと思ったわけ」

 だからだとごまかそうとした篤志を、加賀は鋭い視線でさらに追い詰める。ごまかされてくれる心つもりはこれっぽっちもないらしい。篤志は覚悟を決めた。

「そんなの、お前が――加賀のことが、好きだからに決まってるだろ……!」

 すきだ、すきだと、ずっと想ってきた。加賀に告白されるよりも前から。あの告白を受けて、こんなこじれた関係になってからもずっと。加賀と一緒に過ごす日々のなかで、すこしでも気を緩めれば溢れでてしまいそうになる言葉を、篤志は何度も何度も理性で押しとどめてきた。
 そんな、いままでずっと押し殺されてきた言葉が、ようやく声を伴った。理想の告白からは程遠い、ひどくか細く情けない声だった。

「お前のことが好きだから、うそでもいいって、一瞬でも夢を見れたらって」

 そう思って、と続けようとした篤志を、だんっと強くテーブルを叩くことで加賀が遮る。

「今井、それ本気で言ってるの。本当に、俺と過ごした時間がうそでもいいなんて、思ってるわけ」

 振動でか、グラスのなかで溶け残っていた氷がからりと音を立てた。加賀はなにを言っているのだろうか。まるでこれでは、篤志が言ったことがすべてはなから間違っていたかのように聞こえる。

(ほんとうにうそでもいいのか、だって?)

 そんなの、いいわけがない。うそでもいいだなんて、うそだ。そんなの真っ赤なうそだ。本当は、あの告白がほんとうならいいのにと、篤志はずっと思っていた。

 けれどそんな風に甘い期待をしていたら、いつかうそだという真実を突きつけられたときに、自分がひどく傷つくことになるのは目に見えている。うそでもいいだなんていううそをついて自分を騙し続けることで、篤志は自分を守りたかったのだ。
 うそとほんとうが脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。篤志自身、自分で自分の考えがわからなくなった。

「ちが、ちがう、俺は、おれは……」

――俺は、……なんだ?

 結局なにひとつまともに返せないままに、篤志は口を閉ざす。ぼろり。涙が目尻から溢れて、篤志の頬に熱い軌跡を残しながら顎へと落ちていく。混乱のあまりどうしたらいいわからなくなって、篤志はただ、奥歯を噛み締めながらひぐひぐと嗚咽を堪えた。

 泣き出してしまった篤志を前に、加賀ははーっと大きく息を吐く。乱雑な手つきで前髪を掻き上げた。加賀のきれいな黒髪が見るも無残に乱れていく。自分よりも先に篤志が泣いてしまったことで、加賀の涙はすっかり乾いていた。

「もう、いいよ。いいから、今井、今日は帰って」

 悪いけど、今日は送れそうにもない。律儀にもそんなことを言って、加賀は場違いなくらいに優しい手つきで篤志の涙を拭った。
 それからどうやって自宅に帰り着いたのか、篤志はあまりよく覚えていない。ただ、最後に触れた加賀の指先がひどく冷え切ってひんやりとしていたことだけが、強く篤志の脳裏に刻まれていた。

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