04




 学校敷地内の隅っこに存在する弓道場。そこを、今は張り詰めるような緊張感とかすかなざわめきが支配していた。

 篤志がここに足を踏み入れるのは初めてである。存在自体はもちろん知っていたし、遠目に「あそこが弓道場かぁ」とか「あそこで加賀が弓を引いているのかぁ」と眺めたことも何度もある。だが、足を踏み入れたのは今日が初めてだ。だから、観覧席の一番後ろ、柱の陰からそうっとなかを覗き込んで、篤志はひっそりと感嘆の息をついた。

「うちの弓道場って、こんなに広かったんだな……」

 たかが高校の部活に使うだけではもったいないくらいに、初めて訪れた弓道場は広かった。射場や矢道が広いのはもちろん、篤志が今いる観覧席も結構な席数がある。それもきちんと屋根付きだ。もっとも、そのほとんどはどこか場違いな女子生徒たちで埋まっていたけれど。

 きっと彼女たちの目当ては彼なのだろうなと、篤志はまさに今射場に立っている加賀を見やる。
 白の上着に黒の袴姿の加賀は、弓を手に精神統一している模様だ。もとよりまっすぐな背筋が、より一層ぴしっと伸びている。加賀の薄い唇がふっと短く息を吐き出して、正面の霞的を見据える。切れ長の瞳が鋭く光った。

 加賀が弓を構え始めるのを遠目に眺めながら、加賀からの誘いはいつだって突然だ、と篤志は思う。



 事の発端はその日の昼にさかのぼる。
 屋上の前で扉越しに細やかな雨音を聞きながら、めずらしく二人揃ってパンではなくおにぎりを食べているさなか。またもや加賀が「そういえば」と言い出したのである。

「今井さ、今度部活見においでよ」
「部活?」
「そう。おれの部活」
「……なんで?」

 おれの部活、ということは弓道部のことだろうか。だがしかし、なぜ急にそんなことを言うのだろう。

「なんでって、今井は見たくないわけ。おれの弓道着姿」

 それは見たい。と、篤志は思わず即答しそうになる。

 過去にも加賀の弓道着姿を見たことはあったが、いずれも移動中らしきところを偶然、それも遠くからというシチュエーションだった。だからしっかりはっきりと見たことはないし、弓を構えているところなんてなおさらだ。それを部活見学に誘われ見たくないのかと聞かれたら、そんなもの、見たいに決まっている。
 もっとも、たとえ過去に加賀の試合中の様子などを見たことがあったとしても、篤志は「見たい」と答えていただろう。それくらい、篤志は加賀の弓道着姿が好きだった。

 けれど、それでそう簡単にホイホイと釣られるわけにもいくまい。なんと答えようかと篤志が迷っていると、加賀は少し困ったように頬を掻いて、こう付け足した。

「あと、ちょっと下心をバラすと」
「うん?」
「おれも、少しは今井に格好良いところ見せたいなって、思ったんだケド」

 どうかなと首を傾げて、加賀は照れ臭そうに笑う。
 学校一の色男が何を言っているのやら。元の素材に加えて、その表情と仕草だけでもう十分すぎるほどに格好良いのだけれどと思いながらも、篤志には「気が向いたら」とかいう曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
 ……とはいえ、なんだかんだで結局「加賀の弓道着姿」の誘惑に打ち勝てず、こうしてホイホイと弓道場まできてしまったあたり、ほんとうに篤志は加賀に弱い。

 若干のくやしさと情けなさを打ち払って、再び射場のほうへ意識を集中させる。加賀はちょうど、弓を引分けていくところだった。キリ、と弦が張り詰めていくのに合わせて、観覧席の緊張も高まっていく。
 誰もが息を呑み加賀に注目するなか、ふっと加賀の手から矢が離れる。それは意図して離れたというよりも、自然とそのときが来たと言われたほうがしっくりくるような光景であった。矢は鋭く空気を裂き、矢道に綺麗な軌跡を残して、的の中央に中る。

 はっと射場のほうへ視線を戻すと、構えをといた加賀がちいさく一礼しているところであった。その佇まいは美しいの一言につきる。頭を下げる角度さえ、計算され尽くされたもののように感じるほどだった。

「……すごい」

 まさか、加賀が弓を引いている姿がこれほどまでに衝撃的だとは思わなかった。興奮のあまり、物陰に隠れるのも忘れて加賀の姿に見入ってしまう。いつの間にか呼吸さえ止めてしまっていたらしい。加賀が顔をあげたところで。やっと息ができるようになる。と、

「きゃーーーーっ!」

 突如響き渡った耳をつんざく黄色い声に、びくりと肩が跳ねた。声の発生源なんてわかりきっている。この場に似つかわしくないあの女子の集団だ。篤志の数倍堂々と部活見学をしていた彼女たちの様子に、やっぱりなと思う。同時に、きゃあきゃあと集団で歓声を上げていることに、先ほどまでの興奮から一転、一気に気持ちが冷めていく。

「やばーい、加賀くん超かっこいい!」
「見た? 中ったとき、加賀くんがちょっと笑ったの!」
「見た見た! あれほんっとヤバかった! めっちゃキュンとしちゃったー!」

 男同士で堂々と加賀を見学するのはなんだかおかしな気がして、こそこそと隠れながら見学している篤志とは対照的な彼女たちに、篤志の胸がちりりと焦げ付く。「こっち向いてー!」なんて言って観覧席から身を乗り出す女子生徒に対し、ちいさく微笑み手を振り返してと、わざわざファンサービスをしている加賀を見ていると、薄ら暗い気持ちが膨らむ一方であった。

「……あほくさ」

 加賀の誘いに簡単につられて、わざわざ弓道場までやってきた自分が一気にばからしくなる。
 帰ろう。そそくさと踵を返しかけたとき、不意に加賀が篤志のほうを向いた。目が合う。気のせいだろうかと思うも、そんな篤志の疑念を否定するように加賀はたちまちぱあっと満開の笑顔を咲かせた。先ほどまでファンの女子たちに向けていた微笑とはまるで比べ物にならない。あまりの眩しさに、篤志は思わず目を細める。

 ひらり、と加賀が肩の高さで手を振った。いまい、とその唇がちいさく紡いだような気がする。きてくれたんだと言ったようにも見えた。どちらにしても、この距離からでは実際はどうなのか定かではないが。
 がらりと雰囲気の変わった加賀に、女子たちのざわめきの種類も変わる。

「え? なに?」
「加賀くん、急にどうしたの」
「誰かいたのかな」
「カノジョとか?」

 ざわざわ、ざわり。彼女たちにとっては憶測の域を出ない、事実に微妙にかする言葉たちが次々に出てくる。いくつもの視線が加賀の視線の先を辿り始めたところで、篤志は慌ててひらりと一度だけ手を振り返した。

(このままじゃ視線で針のむしろに、いや、最悪とり囲まれて質問攻めにされる……!)

 今度こそくるりと振り返って、そのまま、あくまで表情だけは「いかにもたまたま通りかかっただけ」なふうを装って、篤志は早足に立ち去った。
 大股歩き、早足、小走り、からの駆け足。だんだんとスピードが速くなって、気がつけば篤志は、小雨の中を濡れるのも気にせず全速力で校内を突っ切り、校門をくぐって、いつもは加賀と二人でゆっくりと辿っている駅までの道を走っていた。

「ダウト! ダウトダウト、ダウト……! ぜったい、ダウトだ……っ!」

 あんな、女子のファン相手にはなんとかちいさく笑ってみせるくらいだったのに、篤志相手にはあんなに笑顔になるだなんて、反則だ。あんな笑顔、いくらなんでも卑怯すぎる。

「はあ……はあ、はあっ……!」

 どきどきとうるさい心臓に耐えきれず、足をもつれさせるようにして立ち止まり、その場にしゃがみこむ。

「――ダウト、だ」

 繰り返す言葉から、無理矢理に自分に言い聞かせている響きが拭えないことにはとっくに気がついていた。それでも、そうでもしなければ平常心を保っていられない。少しでも気を抜いたらあの女子たちに対する優越感に飲み込まれて、自分がものすごく嫌なやつになってしまいそうで、篤志はこわかった。



「今井さ、なんで昨日先に帰っちゃったわけ?」

 一緒に帰る気満々だったのにと、珍しく朝からD組の教室にやってきた加賀は、じっとりとした視線を篤志に投げかける。

「だから、ごめんって……」
「部活終わったら今井がいなかったとき、おれがどれだけショックだったか、わかる?」

 加賀の顔がどこまでも好みな篤志には、拗ねたように唇を尖らせた表情すらいとおしく思えて、直視するのがつらかった。
 だが、

(や、それはダウトだろ)

 さすがにそれくらいで加賀がショックを受けるわけがないことはわかる。なにもそんなわかりやすい嘘をつかなくてもいいのに。思いながらも、自分もこの場をやり過ごすために嘘を重ねる。

「悪かったって。待ってたかったけど、テスト勉強しなくちゃやばくてさ」

 念のため言っておくと、これは後半は本当だ。いつの間にやら期末テストがすぐ目の前まで迫ってきているし、事実として、昨日いつもより早く帰ったぶん持て余した放課後の時間を、篤志は数学の勉強をして過ごしていた。

「今井って、そんな成績悪かったっけ」
「悪くはない……と思うけど、数学だけ超苦手でさ」
「そうなの?」
「毎回赤点ばっかでさ。次こそ赤点回避しないとマジでやばいぞって、まっちゃんにも脅されてるから」

 美化委員会のまっちゃんは、篤志たち二年生を受け持つ数学教師でもある。そのせいで、美化委員でもある篤志は、赤点を弱みとしてついこの間のように雑用を押し付けられているわけなのだ。

「ふーん……?」

 教室のドアにもたれかかったまま、加賀は顎に手を当ててなにやら考え込む。壁に貼られたカレンダーや腕時計、廊下の先と、順に視線を巡らせたのちに、じゃあ、と加賀は言った。

「おれが教えてあげようか、数学」
「えっ、まじで?」

 思わず食いついた篤志に、まじで、と加賀はにんまりと笑う。これはダウトにはしたくない。学年トップの加賀に教えて貰えば、赤点回避確実以外のなにものでもないからだ。もし、これをあとでうそだと言われてしまったら、篤志はかなりのダメージを受けることになるだろう。

「加賀さえいいなら頼みてぇけど……」
「じゃあ決まりね。今日から放課後、おれの家でいい?」

 決定事項かのように、加賀はさらりと大事なことを言ってみせるが。

「けどお前、部活は?」
「あのね、それこそテスト前でしょ」
「あっ」

 そうだった。今日でちょうどテスト開始一週間前である。今日からテストが終わるまでの十日ほどは、すべての部活が停止になるのであった。自分は帰宅部な篤志はすっかり失念していた。忘れてたデショとからかい口調の加賀に、何も言い返すことができない。

「今度は、雑用押し付けられたりしないように気をつけてよ?」
「ゼンショします」
「それじゃ、放課後ね。まあ、その前に昼にも会うけど」

 もはや一緒に昼を食べるのが当然のように、じゃあまた、と加賀はA組の教室に戻っていった。今日も変わらずぴしっとまっすぐな背中があの角の向こうへ消えていく。それを見送りながら、篤志は、どうしようもなく緩みそうになる頬を押さえつけるのに必死だった。
 顔をぎゅっとしかめることでなんとか表情筋をセーブしてから、自分の席に戻る。すると、そこでは我が物顔で篤志の椅子を占領したよーくんが、どこか不機嫌そうな表情を浮かべていた。

「なにしてんの、よーくん」

 そこは自分の席だぞと、篤志はよーくんが座る椅子の足を蹴る。よーくんはそれに耳を塞いで、つーんとそっぽを向いて見せた。

「なに、よーくんなんか怒ってんの?」
「べっつに! 怒ってねぇし」
「じゃあなに」
「なんでもねーっつの」

 食い下がる篤志を突き放して、よーくんは机に顔を伏せてしまう。これではお手上げだ。わざとらしく大きなため息を吐き出すと、篤志は前の女子生徒の席を借りて座った。

「よーくん、もしかして拗ねてんの?」

 今のよーくんは、ワガママを言うちいさな子どものようだ。よく夕方のスーパーや休日のショッピングモールで見かけるような、母親相手に駄々をこねているそれである。
 よーくんは沈黙したままだ。徐々に鬱陶しくなってくるも、根気強く「どーなんですかあ」と篤志は問いかける。うりうりと、よーくんの痛みきった金髪頭をつついてみた。すると、だって、と呻くようなつぶやきが返ってくる。

「だってあっくん、最近アイツとばっかいんじゃん……」
「アイツ?」
「加賀」

 即答された名前に、だよなあ、と篤志は納得してしまった。よーくんに言われなくとも、ここのところ他の友人との関係が疎かになるくらい加賀とばかりいることを自覚している。きっとそれでよーくんは拗ねているのだろうことも、なんとなくわかっていた。
 けれど改めてこうやって口にされると、なんとも言えない気持ちになる。

「あっくん、最近チョー付き合い悪いしさぁ。昼メシだって加賀と食ってるし、放課後だって、加賀が待ってるからーって、いっつもそればっか」
「……悪ぃ」

 別に謝るようなことではない。だが、加賀との関係が後ろめたいがゆえに、篤志はついそう口にしてしまう。

「あっくん、なんで急にアイツと仲良くなったわけ? 別にいままでなんも関係なかったよな?」
「なんていうか……話してみたら案外ノリが合った的な?」

 的な? ってなんだ、的なって。言っておいて、自分で自分に突っ込みたくなる。実際、よーくんは「なんだ、それ」と呆れ顔だ。

「俺だけじゃなくてさ、他の奴らも心配してんだよ。あっくん、俺らのなかじゃちょっと抜けてるっつうか、アレだし。加賀に騙されでもしてんじゃねーの、って」
「騙されるって、べつに、そんなんじゃねーし……てか抜けてるってなんだよ、抜けてるって」

 まさか友人たちにそんな風に思われていたとは。心外だ。心配していてくれたらしいということへの嬉しさよりも、まさかの事実に対するもやもやとした思いの方が上回る。

「とにかく、騙されてるとかそういうんで一緒にいるわけじゃねえから」
「相手はあの加賀だぞ? なんであっくん、自信満々にそんなこと言えるわけ」
「それは、」

 篤志が、加賀の告白をうそだと知った上で受け入れて、一緒にいるから。

「言えねえの? じゃあ、なんで最近あんなに加賀とべったりなわけ」
「それは……」

 篤志が加賀のことを好きで、真意はさておき「おつきあい」しているから。
 どちらの問いにもきちんとした答えはあるが、本当のことを言うわけにはいかない。とっさにうまい言い訳が思いつかず返答に詰まった篤志に、ほれみろと言わんばかりによーくんはまた唇を尖らせた。

「あっくんがいいってんなら、俺が口出すことじゃねーかもだけどさぁ。なんかあったならちょっとくらい話してほしいなって思うわけですよ、ダチとしては」

 がたん。椅子を引いてよーくんは立ち上がる。その途中で大きなてのひらを伸ばしたかと思うと、ぐしゃりと篤志の髪の毛を撫で付けた。

「ま、ほんとになんかあったら、相談くらいはしろよな?」

 ぐしゃぐしゃ、ぐしゃ。篤志の髪を好き勝手に乱してから、よーくんは自分の席へと戻っていく。後手に手を振るなんて動作はさすがに格好つけすぎじゃないだろうか。ちょっとだけおかしくなる。

「ありがと、よーくん」

 ヤンチャ系な友人の、予想外に情に厚い一面を見せられて、篤志は不覚にも、胸の奥の方がじんわりと温かくなっていくのを感じた。



 結局その日もいつも通りに加賀と昼食をとったり、よーくんと今度は一緒に昼を食べようという約束をしたりしているうちに、約束の放課後はあっという間にやってきた。
 ふたりで校門をくぐり、加賀の半歩後ろを篤志が追いかける形で連れてこられた加賀の自宅は、やはり電車には乗らず、それどころか、駅とは学校を中心にして考えるとほぼ正反対にあたる位置にあった。

「はい、ドーゾ。あがってあがって」
「お、お邪魔します」

 びくびくしながらも加賀に促されて玄関へと上がる。綺麗な寒色系の色のタイルが敷かれた三和土には、雨で濡れた薄汚れたローファーがミスマッチすぎて、ほんのすこしだけ肩身が狭くなる。
 せめてもの抵抗とばかりに脱いだローファーを揃えていると、ふわりと嗅ぎ慣れたにおいが漂ってきた。すっきりとした清涼感に、ほのかな甘みが混じったこのにおいは、いつも加賀からしているにおいだ。どうやらこれは、加賀の家のにおいだったらしい。

「おれの部屋二階だから、今井は先に上がってて。おれ、飲み物とってくるから」
「え、あ、ウン。ワカッタ」

 なぜか片言になってしまう篤志に、加賀はふっとちいさく吹き出した。

「今うち、誰もいないから。そんなに緊張しないでいいよ」

 くすくすと笑いを噛み殺している様子の加賀に、かあと顔が熱くなる。

(うぅ、バレた……緊張してたの、バレてた)

 もしも加賀の親と鉢合わせてしまったら、どんな顔をしたらいいのだろう。なんて挨拶したらいいのだろう。そんな風に篤志が不安がっていたことは、一枚上手な加賀にはお見通しだったらしい。

「べっ、つに! キンチョーなんてしてねぇし!」

 強がりで言い返して、篤志はすぐ脇にあった階段をドスドスと上がり始めた。二階に上がってすぐに「SHOICHI」とプレートのかかったドアを見つける。

(加賀の下の名前、翔一っていうんだよな、そういえば……)

 いつも加賀、加賀と苗字で呼んでいるから、なんだか新鮮だ。この家に住んでいるのはみんな加賀さんだろうから、部屋のプレートが下の名前なのは当然といえば当然なのだが。
 いったい誰がチョイスしたものなのか。そのプレートが、かわいらしい押し花があしらわれたものだったことも、篤志に真新しさを感じさせた。
 やや躊躇したのちに、篤志はそのドアを開けて中に入る。想像していたとおりとでも言うべきか、室内はきちんと整理整頓されていた。本棚には教科書や問題集、小難しそうな本がずらりと並び、勉強机の隅にはぶあつい辞典が、シルバーラックには篤志には聞いたこともないアーティストのCDが置かれている。

 ベッドシーツにも皺なんてないし、やさしいブラウンのラグが敷かれた床にはチリ一つ落ちていない。ローテーブルの中央には、ちょこんと多肉植物の鉢が置かれている。どこまでも隙がない、加賀の性格がそのまま具現化されたような部屋だった。
 ただ一つだけ意外だったのは、部屋の隅に今週発売のマンガ雑誌が無造作に放られていたことだろうか。手にとってみれば、中ほどらへんに付箋が貼られているのがわかる。

(なんで加賀、付箋なんか貼ってんだ?)

 首を傾げつつも、篤志は目印のつけられたページを開いてみた。現れたのは見覚えのあるマンガのカラー扉で、篤志は思わずえっと声をあげてしまう。それは篤志が好きで毎週一番楽しみにしているスポーツマンガだった。たしかこの間、ショッピングモールの本屋に加賀と行った際にも、これが一番好きなのだと教えた気がする。

「なんだ、加賀もこのマンガ好きだったのか」

 だったらあの時教えてくれればよかったのにと、釈然としない心持ちになる。ぱたんとマンガ雑誌を閉じて元の場所に戻せば、ちょうど階下から加賀の足音が聞こえてきた。とんとんとん、と階段をのぼる軽い足音が、ちいさな振動とともに伝わってくる。その音がやけに大きく聞こえる気がして、篤志は、本当にこの家には加賀と自分以外誰もいないのだということを実感した。

(……待てよ?)

 誰もいない。ということはつまり、この家に篤志は加賀とふたりきりだということだろうか。つい先ほどまで深く考えていなかったけれど、「ふたりきり」というその意味を、やや遅れて篤志は認識し始める。
 加賀と一緒に勉強をすることになるのだろうこの部屋は、こう言ってはなんだが、決して広くはない。高校生が持てる「自分の部屋」にふさわしい程度の広さしかないのだ。この空間で、ほとんど密室のような状態で加賀とふたりきりだなんて。加賀は誰もいないから緊張しなくていいと言ったけれど、逆にそのほうが緊張してしまうのではないだろうか。
 いまさらのように動揺を覚えている間も、無情にも加賀の足音は近づいてくる。

「勉強、集中できんのかな……」

 せっかく加賀が教えてくれるというのに、何も頭に入らなかったらどうしよう。一気にそんな不安に襲われる篤志をあざ笑うように、コンコン、とノックの音が響いた。



「……それじゃ、今日はここまでにしようか」
「うおーっ、つっかれたー!」

 篤志の不安をよそに、数学の勉強はとてもはかどった。教えてくれる加賀が当の本人以上に真剣で、余計なことを考える暇がなかったのがその理由だと思う。
 もちろん、加賀の教え方がわかりやすかったというのもある。数学が苦手な篤志でもわかりやすいようにと考えられ、とことん噛み砕かれた加賀の説明は、驚くほどすんなりと篤志の頭の中に入っていった。篤志は今までずっとわからなかったことがわかるようになったのが嬉しくて、次々に問題を解いていった。

 結局、加賀が打ち切りにするまで約三時間ほどのあいだぶっ続けで勉強し続けていたのである。ペンを転がし、ぐぐぐっと背伸びをするとさすがに身体中がバキバキと悲鳴をあげた。こんなに長い間机に向かい続けていたのは初めてのことだ、無理もない。

「おれ、なんか飲み物取ってくるね」
「おー悪いな、さんきゅ」

 元は麦茶が入っていた、いまはすっかり空になったグラスを下げて、加賀は部屋を後にした。その背中にひらひらと手を振ったのち、篤志は再びローテーブルの上に視線を落とす。
 はじめは新品同然にまっさらだった問題集は、いまや乱雑な自分の字で埋め尽くされていた。そのところどころに付け足された、加賀の綺麗な字での訂正や解説を見ていると、はじめに邪なことを考えていた自分が恥ずかしくなる。

 男同士で、しかも一応とはいえ、篤志と加賀とは恋人同士。部屋でふたりきりになったりしたら、なにか起こってしまうのではないか、なんて。そんなのは所詮幻想でしかなかったのである。
 篤志が過去の自分を恥じていると、コンコンとまたノックの音がして加賀が戻ってきた。麦茶で満たされたグラスを差し出される。

「はい、お疲れ様。今井」
「さんきゅ、加賀」

 グラスを受け取って、一口。きんと冷えた麦茶が全身に染み渡っていくのを感じた。
 しぶとい梅雨前線の動きを見るに梅雨明けはまだ遠そうだが、じわじわと日々気温は上がりつつある。ここ二、三日のあいだは、じとっとした湿気も相まってなんともいえない蒸し暑さが続いていた。そろそろ、本格的に麦茶が美味しい季節が来るらしい。

 ごくごくと無言で乾いた喉を潤していると、テーブルを隔てた斜向かいに腰を下ろした加賀が、先ほどの篤志と同じように問題集をまじまじと覗き込んだ。

「ていうか今井、言ってたほど数学ひどくないじゃん。ちゃんと集中してやれてたし」
「それはお前の教え方がうまいからだろ」

 もしも篤志ひとりでやっていたとしたらここまで捗らなかっただろうし、そもそも基本中の基本である解法すら頭に入っていなかったことだろう。だからだよと篤志が答えると、加賀はふうんと鼻を鳴らした。

「それって、おれのおかげってこと?」

 ずずい。グラスをテーブルの隅によけ、テーブルに肘をついて加賀が迫ってくる。

「そう、とも、いう……?」

 急に詰められた距離に、篤志は反射的に身を引く。素直にそうだと頷けばいいのに曖昧に言葉をごまかせば、さらにずずいと迫られた。

「じゃあ、さ」

 にんまりと、加賀が笑みを浮かべる。加賀お得意の、あの狐のような笑みだ。

(……あ、いやな予感)

 咄嗟にぐっと身を引くも、とんっとなにかに―加賀のベッドに背中がぶつかってしまった。絶体絶命、危機一髪。そんな言葉が篤志の脳裏をよぎったとき、

「おれい」

 加賀のきれいな唇が、まるで歌うように三つの音を紡ぎ出す。

「お礼、もらってもいいよね?」

 語尾こそ疑問系だったものの、それはほとんど決定事項のような言い方だった。ふっと篤志の頭上に影が差す。加賀が篤志の上に覆いかぶさってきたせいで、照明の光が遮られたからだ。
 どんどんと、加賀の顔が下りて近づいてくる。その様子が、篤志の目にはスローモーションのように映った。

(だめだ……よけないと、だめだ)

 思うのに、篤志はぴくりとも動くことができなかった。睫毛の先から足の爪の先まで、すべてを、加賀の視線に支配されてしまっている。

「今井、目、閉じて」

 囁く声につられて、そうっと瞼を閉ざしてしまった篤志は、もしかしなくともばかなのかもしれない。
 ふふっと、真っ暗闇な視界の中で加賀が笑う気配がした。次の瞬間、ふにっと篤志の頬に柔らかい感触が落ちる。覚えのあるそれに、え、と篤志は目を開く。
 そして、すぐに後悔した。

「ほら、目閉じてって言ったでしょ」

 ピントが合わなくなるくらいの距離で、加賀の切れ長の目がやわらかく細められる。そして今度こそ、篤志の唇に加賀のそれが重なった。

 とっさにぎゅっと目をつぶる。触れている唇の感触や温度、加賀から香るにおいとか、そういったもので脳みそがいっぱいに埋め尽くされて、なにがなんだかわからなくなる。篤志の脳はパンク寸前だった。
 心臓が一回、二回、三回鼓動して、加賀が離れていく。たったそれだけ、ほんのわずかな接触だったというのに、加賀の唇が離れたあとも、篤志の唇にはくすぐったさに似た妙な違和感が付きまとっていた。
 思わず下唇に指先で触れる。落ち着きなさげに指を動かす篤志に、加賀はきょとんと首をかしげた。

「……もしかして、今井、初めてだった?」
「だったら悪りぃかよ」

 完全に図星である。たったいま加賀としたこれが篤志にとっては初めてのキスだった。お礼代わりに一方的にされるだなんてロマンもなにもあったものじゃない。じとり、と上目遣い気味に加賀を睨みつける。もっとも、真っ赤に染まった顔で、それも涙に潤んだ瞳ではほとんど効果はなかっただろうけれど。
 事実として加賀は、ひるむどころかどこか嬉しそうに目元を緩ませてみせる。

「悪くないよ。むしろ、嬉しい」

 その言葉の真意は、篤志にはどうにもわからなかった。ただ、そう簡単に「ダウト」できるような響きのものではなかったことだけは確かだった。



「それじゃ」
「……ん」

 そのあと、麦茶を一気に飲み干した篤志は、玄関前で加賀と別れた。加賀は駅まで送ると言ってきかなかったが、篤志がそれを「自分は女ではないのだから」と一蹴したのである。

 来た時は加賀と辿った、今やすっかり夕闇に包まれてしまった道を、篤志は駅を目指してひとりで辿っていく。唇にはまださっきのキスの感触が残っていて、どうしようもなく篤志の心を揺さぶった。下唇を指先でなぞっては、加賀の唇の温度を生々しく思い出してしまって真っ赤になる、ということを、駅に着くまでの間に篤志はいったい何度繰り返したことだろうか。
 今日が雨で、しかも外が暗くなっていてよかったと、真っ赤な顔を傘で隠しながら、篤志は心の底から感謝したのであった。



 その日の別れ際。加賀が珍しく「また」という言葉を口にしなかったことに、未だキスの動揺から抜け出せずにいた篤志は、気づくことができなかった。


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