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「な、酒井。前に言ってた映画さ、今度見に行かね?」
「映画? ……ああ、お前がナオミちゃんのこと優先して、前日にキャンセルしてきたやつか?」
「だっからー、それは悪かったってばぁ!」
一カ月ほど前のことを思い出してわざと嫌味を言えば、吉澤はたちまち弱ったように眉を垂らした。こういうところは、ウサギというよりも犬に似ている。
「な、行こうぜ? 酒井」
二人でさ、と付け足して吉澤はこてんと首を傾げた。
吉澤が、今は俺のことを一番に見てくれている。そのことが嬉しくて「しょうがねぇなぁ」なんて言いつつも以前のドタキャンのことを簡単に許してしまうあたり、結局俺は吉澤に甘いのだ。
「よっしゃあ! んじゃ、約束な」
俺の言葉に破顔すると、吉澤は左手の小指を俺に向けてきた。
「……なんだよ、この手」
「指切り」
「は?」
「約束だって言っただろ。だから、指切りすんだよ」
どうやらこれは、今度は約束をキャンセルしたりしないという吉澤なりの誠意らしい。「ホラ」と急かす声に、ガキじゃるまいしと苦笑しそうになる。
指切りしない限りこの話を終わらせるつもりはないらしい吉澤の指に、仕方なしに自分の小指を絡めてやれば、吉澤はたちまちぱあっと目を輝かせた。
「ゆーびきーりげんまん、うーそついたら……」
リズムをつけて手を上下に振りながら、歌まで歌い始める吉澤。
(マジでガキかよ、こいつ)
そんなんだからナオミちゃんにフラれるんだよと心の隅で思う一方で、無邪気な吉澤の笑顔から目が離せない自分がいる。
胸がしめつけられるように痛んだ。心臓を、細いテグス糸でぐるぐる巻きにして、ぎゅっと締めあげられているみたいな感覚。
どくん、どくんと全身に血が巡る音がうるさいくらいに頭の中に響いている。それでも、嘘ついたら針千本、と歌う吉澤の声だけははっきりと聞こえていた。
「ゆーびきった!」
最後まで歌い切ったところで、吉澤は小指の繋がりをあっさりとほどく。俺の小指の先から、自分のものでない体温が離れていく。吉澤の指の感触が徐々に薄れていくことを名残惜しく感じるのと同時に、一際強く胸が痛んだ。
息をするのすら苦しい。何の前触れもなく、水中に落とされたかのようだ。でも決して冷たい、冬の海のような感覚ではない。どちらかというと春のやわらかい日差しのような、一種の心地よさすらあった。
ぽかぽかとあたたかい胸の辺りを無意識にてのひらで押さえたところで、ふと俺は気付いた。
――ああ、そうだった。
好きな人相手にドキドキするのって、こんな感覚だった。
そういえば、俺が吉澤のことを好きになったのっていつだったっけ。
食堂での一件以来どうにも気になって考え続けていたけれど、ふしぎと思いだせない。うんうん唸っているうちに日が暮れてバイトの時間になって、その後はもう忙しさに追われていたらあっという間に一日が終わってしまっていた。
狭いアパートの部屋で、せんべい布団に大の字に寝っころがって天井の木目と睨めっこする。人の顔のように見える模様がいくつあるのか数えながらも、頭のなかは吉澤のことでいっぱいだった。
確か、一年の夏にスポーツの講義でテニス合宿に行ったときには、もう好きだった気がする。二人一部屋の宿で当然のように吉澤と同じ部屋になって、どうやって二泊三日を乗り切ろうか本気で悩んだ覚えがあるから。
そうすると、好きになったのはもっと前になるのか。吉澤と出会ったの自体大学に入ってからだったのに、我ながら随分短い期間で好きになったものだ。
悶々を考えているうちになんとなく寝れなくなってしまって、がばりと布団から体を起こす。
「あっちぃ」
締め切った部屋のなかは蒸し暑かった。伸びきった前髪が鬱陶しくて掻き上げるも、すぐにまた落ちてくる。今度百均でヘアピンでも買おうと心に決めて、俺は窓の傍に寄った。
(……さすがに、まだ扇風機つけんのには早いよな)
その分電気代が高くなるのも怖い。カラリと曇りガラスをスライドさせた、次の瞬間、一面夜の闇に染まった街並みが眼前に広がった。風とともに流れ込んでくる空気はじっとりと重く湿っている。きっと、梅雨が近いからだ。
俺のアパートは街の高台に位置するところに建っているからか、遠くのほうまで続く家並みやビルの数々が見えた。手前のほうはもう寝静まっている家が多いのか暗く、奥のほうの高いビルが連なっているあたりにはまだ煌々と明かりがついていた。
「きれい、だな」
キラキラ輝くビルの明かりがまるで星みたいだ、なんて。
ド田舎にある実家から見える星はこんな風じゃないし、実際の星空のほうがもっときれいだということは知っている。けれどなんとなく、吉澤ならそんな風に言いそうだなと思った。
「……吉澤、」
一緒に居ても居なくても、いつだって俺を悩ませる彼の名前をちいさく呟いた。吉澤のへらりとした笑顔を思い浮かべながら、もう一度夜の街へ視線を投げかける。
やっぱりきれいだなと感嘆の息を漏らしたそのとき、記憶の隅っこのほうから妙な既視感が浮かんできた。
吉澤の笑顔と、見下ろすように眺めた街の景色。その二つが同時に揃ったシチュエーションを、俺は以前に経験した気がする。
(どこで見たんだっけ)
夜空を睨みつけるようにじっと目を凝らす。
(確かあのとき見たのは、夜空じゃなくって……)
――目に痛いほどの、赤。
ハッとした途端、脳裏にぶわりと一面の茜空が広がる。
「……思いだした」
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