03






「どうだ、スッキリしたか?」
「ああ、……すまない」

 小さく謝罪を述べた声は思いのほか掠れていた。それも当然だ、あれだけ吐けば胃酸で喉がやられもするだろう。
 調子を合わせるように喉に手を当ててケホケホと数回咳払いをする。「なあ」と、コック服の男が神妙な顔つきで尋ねてきたのはその時だった。

「お前、冷たくねェか?」
「……なにがだ」
「手とか、腕とか、首とか。なんか全体的に」

 男はコップを握った俺の手に熱でも測るような手つきで触れながら「体温低くねぇ?」と言う。
 言われてみれば、男の手が触れている部分だけが妙に熱く感じるような気がした。さっきからずっと感じている寒気も消えてはくれない。

「この食堂が寒いんじゃないのか」
「いや、たぶんここは適温だと思うぞ。お前の体温が妙に低い……それに」

 すっ、と。男の右手が俺の腕の下をくぐった。かと思えば、その手は何の前触れも無く俺の腹部に触れてくる。

「っ、おい?!」
「まだじっとしてろ、ボケ。誰もテメェなんかを襲ったりしねぇよ」

 突然のことにがたりと席を立ち身を引きかけるも、強い口調でたしなめられ、それもそうかと思いとどまる。
 大人しくされるがままになっていると、男の手は俺の腹部に数回触れた後、徐々に上へと辿って行った。それは決していやらしい動きではなく、むしろどこか優しい、確かめるような手つきだった。

 そして最後に両手でがっちりと俺の腰を掴んだのちに、男はハァと深く溜息を吐く。

「お前、痩せすぎじゃねえ?」
「……そうか? 標準体重じゃないか?」
「こんだけアバラ浮いててんなわけねぇだろ! お前、体重いくつだよ」
「……わからない」
「ハア? なんでだよ」
「なんでも何も……最後に体重を図ったのは4月の健康診断のときだ。そんなの、覚えているわけがないだろう」

 どの生徒もそんなものじゃないのかと言えば、男は更に深く息を吐いた。心底あきれてしょうがない、とでも言いたげな反応である。心外なことこの上なかった。

「っつうか、お前。なんで――」

 更に男が何か言おうとした、瞬間。再び俺の視界が歪んだ。

 突然のことに体が対応できず足元がふらつく。とっさにたたらを踏むと、俺の異変に気付いた男が慌てて手を伸ばし体を支えてくれた。
 男の肩をがっしりと掴むことで、俺はしっかりと両足で地面を踏んだ。

「今度はどうした」
「……ただの立ち眩みだ」
「嘔吐に、寒気に、立ち眩みだ? どこが『ただの』だよ」

 完全に病の兆候じゃねえか、と忌々しげに舌を打つ男。

「他には?」
「は?」
「他にはもう隠してねぇよな?」

 まだなんかあったら、殺すぞ。
 そう言わんばかりの鋭い目線に射ぬかれて、俺は慌てて口を開いた。

「ず、頭痛が……」
「よっし、保健室行くぞ」
「保健室?! どうして、」
「どうして、ってなんだよ。どうして、って。具合が悪けりゃ医者にかかる、常識だろ」

 男は偉そうに上体を反らして言う。が、正直俺はそれどころじゃなかった。

 俺の体調が悪いのも、体調が悪いなら医者にかかるべきなのも事実である。けれど、今学園はなにかと重要な時期だ。
 だというのに、このタイミングで元生徒会長が食堂で吐いた上に保健室送りになった、だなんて。また新たな問題の火種になるに決まっている。

 こうして大勢の生徒の前でみっともない姿を晒している時点で手遅れかもしれないが、「元」とはいえかつてこの学園の頂点であった身として、これ以上学園に迷惑をかけたくはなかった。

――それに、

「ここの掃除は誰がやるんだ」
「ンなもん清掃業者にでもやらせとけよ、誰かもう呼んでんだろ」
「そういうわけにもいかないだろう」
「そこが、そういうワケにいくんだよ、クソガキが」

 至極面倒臭そうな顔でそう言うと、男はぐしゃりと俺の髪をかき混ぜた。少しがさつな手つきの、その撫で方がどうしてかひどく心地良い。

「いいから今は、大人しくオトナの言うこと聞いとけよ」
「……でも、」
「でも、じゃねえよ。この学園に通ってるからには、テメェも良いとこのボンボンなんだろ。ンなことに、なにイチイチグダグダ言ってんだよ」

 それでもやっぱり躊躇う俺を、なんだかよく解らない理論で男は説き伏せた。
 かと思えば、テーブルから備え付けの紙ナプキンを二、三枚まとめて取り上げる。そしてそのまま、グイと俺の口元を拭って――

「保健室、行くぞ」

――有無を言わせぬ口調で、そう言った。

 俺の腕を男が強引に腕を引く。こうなったら仕方あるまいと、コック服姿の男の広い背中を追おうと一歩踏み出した。
 ところで、三度立ち眩みが俺を襲う。

 慌てて足を踏ん張ろうとするも、足裏にはぐにゃりとしたスライムのような感触が伝わるだけで力を込めることはできなかった。
 咄嗟に男のコック服へと手を伸ばす。力の入らない指先は、白く清潔なそれを僅かにひっかくだけとなった。けれど、それで十分だった。

「なんだ、どうし……っ、おい!?」

 振り返った男が目を見開き、驚愕を露わにしたまま俺の体に腕を回す。脇の下を通り背に回った男の手の体温を、やっぱり熱いなあなんて思ったのを最後に、そのまま、俺の意識はブラックアウトした。













 目を開けて一番初めに目に入ったのは、シミ一つない真っ白な天井だった。

「……保健室?」
「病院だよ、バーカ」

 意識を失う直前のことを思ってぼそりと零せば、すぐさま横から否定の声が入った。
 体はだるく、とてもじゃないが動かせそうにない。視線だけを動かしてそちらを見遣れば、あのコック服の男が、どうしてかコック服のままでそこに座っていた。

「……ああ、やっぱり」
「やっぱりってなんだよ、やっぱりって」
「いや、保健室の天井はこんなに広くなかったはずだと思ってな」

 男に返しながら、俺はベッドに横たえられた自分の体を観察する。いつの間に着替えさせられたのか、緑色の入院着から伸びた細い左腕には点滴のチューブが刺さっていた。

「貧血プラス栄養失調」

 現状確認をしていた俺に、男は唐突になにかの呪文でも唱えるかのように言う。

「は?」
「プラス睡眠不足プラス過度のストレス」
「……一体なんの話だ?」
「決まってンだろ。お前が吐いてぶっ倒れた原因だよ」
「ああ……そうか」

 なるほど、とひとり呟く。
 男が今早口に羅列した条件は、ものの見事にどれも俺にあて嵌まった。確かに最近あまり眠れていないし、生徒会の仕事が忙しかったせいでまともな食事もとれていなかった。
 つまりは、全部。

「自己管理不足、か……」
「バッカ、ちげぇだろ」

 ギリリと布団の下で右手を握りしめれば、それを見透かしたように男が言う。あまりにキッパリとした否定の言葉に内心動揺しつつ視線を上げると、こちらを見ていたらしい男の視線と真正面からぶつかった。

「他は無理しすぎたお前のせいだとしてもだな、少なくとも、ストレスはお前のせいじゃねえだろ」

 言いながら、男は手を伸ばしてぐしゃりと俺の髪を撫でつける。ぐしゃぐしゃ、ぐしゃり。食堂でもされたのと同じそれはやはり心地よく、妙な安心感を俺に与えた。

「……そうか?」
「そうなの」
「……そう、か」

 そんなことを言っている間も、男の手は止まらない。最初は大人しく受け入れていたものの、あまりにしつこいために徐々に鬱陶しくなってくる。
 重い右手を持ち上げ振り払えば、男は「仕方ないなあ」とでもいう風に息を吐いて素直に腕を下ろした。
 それから、不意に真剣な表情を浮かべてみせる。

「ところでお前、最後にメシ食ったのいつだよ」
「たしか……」

――あれ?

 回答しようと記憶をさかのぼったところで、俺ははてと首を傾げた。

「……いつだ?」
「おい、」
「いや、待て、……ああそうだ、思い出した。三日前だ、三日前」
「何食ったのか言ってみろ」

 男は、思い出したという俺の言葉を信用していないらしい。鋭さを増した目線と共に問われる。ロクなもん食ってなかったら承知しないぞ、とその視線はありありと俺に訴えかけていた。
 それが解ってしまうからこそ、言葉に詰まる。

「何食ったんだっつってんだよ、オラ」
「――野菜一日、」

 苛立たしげな声に急かされて、ようやく小さく口を開く。これ一本、と続けた声は細く掠れていた。

「――……それは、」

 『それは』? 意味深なところで切られた言葉の続きにハラハラする俺。心臓がうるさい。それを知ってから知らずか、男は焦らすようにすぅっと深く息を吸うと、

「『食った』とは言わねェよ『飲んだ』っつーんだよ、ボケッ!!!!!」
「いって!」

 けたたましい怒声と共に、ゴンッと容赦ないゲンコツを落としてきた。痛ェ。





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