エピローグ01
講堂のほうから、仰げば尊しの歌声が聞こえてくる。
こんな金持ち校でも、卒業式では普通に仰げば尊しなんて歌うのか。
そう思うとすこしおかしかった。
理一もこれを歌っているのだろうことを考えるとなおさらだ。
くつくつと人知れず肩を震わせながら、俺はプリントの山を抱えなおして国語科準備室への道を辿っていく。
卒業パーティーの日から一週間。
明日の卒業式に向けて最後のリハーサル真っ最中の学園内は、どことなくしんと静まり返っていた。
みんな、三年生が明日を最後に学園から去ってしまうことから感傷的になっているのだろうか。
そんな仮説を立てながら、俺はすっかり見慣れた国語科準備室のドアを開けた。
「失礼しまーす。二木せんせー、プリント持ってきましたよっと」
何気なく室内に視線を向けたところで、思わず足を止める。
いつも通り汚い部屋を想像していた俺はぎょっとした。
「部屋がきれい、だ……?」
いつもは「汚部屋」の一言につきる室内が、モデルルームかなにかのようにすっきりと片付いていたのである。
俺が最後にこの部屋の片付けを命じられたのは、それこそクリスマスよりも前だ。
なのにこれはどういうことだろう。
混乱したまま立ち尽くしていると、部屋の奥からどことなくドヤ顔気味の二木せんせーが出てきた。
「どうだ? 俺だって、やろうと思えばできんだぞ?」
「先生、これ自分で片付けたの?」
「なんだ、その言い方は」
「いや、だって……」
前まではあんなにダメダメだったのに、急にどうしたというのだろう。
そんな俺の困惑が伝わったのか、二木せんせーは苦笑いをこぼす。
「ちったあ自分でキッチリしようと思ったんだよ。これからもお前に片付け頼むわけにはいかねえからな」
「え、なんで?」
「なんでってお前、柏木と付き合い始めたんだろ?」
「はっ!? せんせー、なんでそんなこと知ってんの?!」
「逆になんで知られてねぇと思ってんだよ」
学園中が知っていることだろうがと、二木せんせーはさらりととんでもないことを言う。
嘘だろうと疑ってしまいたくなるが、よくよく考えてもみろ。
全校生徒参加のパーティーで、衆人環視のなか、駆け落ちかなにかのようにあんな風に手を繋いで会場を抜け出したのだ。
一発で「なにか」ある、あるいはあったとバレるに決まっている。
そりゃ、そうだ。二木せんせーだって知っているはずだ。
自分の考えの足りなさに溜息をつく。
と、いつの間にやら途切れていた仰げば尊しに変わって、蛍の光が聞こえ始めてきた。
ほんとうに、どこまでもスタンダードな卒業ソングばかりで逆に動揺する。
(いつもなら、置き場所探すのにも大変なのになぁ)
きれいに整理整頓されたデスクの上に、集めてきた課題プリントの山をどさりと置く。
これまで一度たりとも気にしたことのない、プリントの山のほんの少しの乱れがいやに気になってしまった。
数枚ずつ束で取ってはトントンと揃えてまた積みなおす作業をしていると、ぼそり、と二木せんせーが語り始めた。
「本当は、お前が卒業してたら言おうと思ってたんだがな……うかうかしてたら、先越されちまったな」
なにを、という言葉が意図的に抜かれた言葉に、プリントを束ねていた手を止める。
顔を上げれば、めずらしくすっきりとセットのされた赤茶色の前髪の向こうから、ややくたびれたような笑顔が俺に向けられた。
「いい年して、教え子相手にって言われるかもしれねえけどさ。これでも、結構真剣に好きだったんだぞ、お前のことを」
知ってたか? と二木せんせーはなんてことないように聞いてくる。
そういえばいつも室内に立ち込めていたタバコの匂いがしないなと気づいたのは、そのときになってからだった。
「知ら、なかった……」
「だろうな。じゃなきゃ、こんな無防備にプリントなんか持ってこねえだろうし……。ああ、いや、お前みたいな鈍感バカなら、知っててもフツーに持ってくるかもしんねえけど」
さすがにそこまでばかじゃないと言い返す余裕なんてなかった。数回口を開閉させたのちに、ようやく「いつから?」とだけ返す。
「いつから、なあ。いつからだろうなぁ。決定的だったのは、阿良々木との事件のときだったかな。久しぶりに登校してきたお前のやつれた姿見て、守りたいって、無意識に思っちまった」
本格的に好きだと思ったのはそれからだと言いつつも、二木せんせーは「まあ、今更おせぇけど」なんて自嘲する。
何も言うことができなくて、オロオロし続ける俺に、二木せんせーは「いい、いい」とひらひらと手を振ってみせた。
「いい、何も言うな。別にお前に答えなんざ求めてねぇよ」
「二木せんせー……」
「これからはまた、ただの教師と生徒に戻らなきゃなんねーんだ。だからなにも言わなくていい。―柏木と一緒に、なにがなんでも絶対に幸せになってくれさえすりゃあ、それでいい」
どこまでも俺を包み込むような言葉に、ぐっといろいろな言葉を飲み込んで、俯く。
二木せんせーは徐に手を伸ばすと、ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でてくれた。
きっと、せんせーに頭を撫でてもらうのはこれが最後なのだろう。
そう思うと少しさみしい気もしたけれど、かといって、そう言ってくれるせんせーの言葉を無下にする気もさらさらない。
「なりますっ。俺、絶対になりますから」
理一と一緒に、絶対に幸せになる。そんな強い決意を込めて、俺は深く頷き返した。
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翌日、卒業式のその日は、見事なまでの晴天に恵まれた。
夏の空や海のくっきりとした青とは違う、薄水色の淡い空にはどこか暖かな春の気配が混じっている。
桜のつぼみはまだ膨らんでいる途中だけれど、かおり高い梅の花が少し前から満開となっていた。
天候どころか、花までも理一たちの新たな門出を祝っているような、絶好の卒業式日和である。
講堂から漏れる大きな拍手の音を、俺は、講堂から校門へと向かう道の途中で聞いていた。
前にも言ったように、卒業式には俺たち在校生は参加できない。
参加できるのはこのあいだの卒業パーティーと、式を終え講堂から直接学園を出て行く卒業生たちの見送りだけだ。
学年、クラス別に二列に別れて花道を作り、講堂から卒業生たちが出てくるのを今か今かと待ちわびていると、ふと、隣の忍がつぶやいた。
「めーちゃん、寂しくないのか?」
「は? どうした、急に」
「ほら、会長卒業しちゃうわけじゃん? 寂しくないのか? せっかく付き合い始めたばっかなのに」
さらりと忍は言うが、俺はなんてことないように問われたことの内容にぎょっとする。
「……まじで、学園中に知られてんだな、理一とのこと」
「いまさらそこ?」
「いやだって」
忍にはきちんと直接話そうと思っていたのに、忙しくて話しそびれているうちに別のところから伝わってしまうだなんて。
なんだか釈然としないものがある。
「で、どうなの? 正直なところ」
「どうって言われてもなぁ」
理一は外部の大学に進学するし、四月からは実家の仕事も少しずつ手伝い始めると言っていた。
進学先が実家から遠いからと今日からは一人暮らしも始めるらしい。
これだけ要因が重なれば、理一が忙しくなることは目に見えている。
なかなか会えなくなってしまことは確かだろう。
それはもちろん寂しい。寂しいけど、それだってたった一年だ。
これから先、理一と歩んでいくだろう長い年月のことを思えば、きっとほんの短い時間にすぎない。
(つっても、俺が留年してなきゃ一緒に卒業できたんだろうけどなぁ)
とはいえ、そもそも留年しなければ理一と出会うこともできなかったのだから、ありえなかった「もしも」のことを考えるのはとっくの昔にやめにした。
そんなようなことをやんわりと伝えれば、忍は「そっか」とだ肩をすくめてみせる。
「……あのさ、めーちゃん」
「ん?」
「俺も……俺も、ずっとめーちゃんの友達だからな。俺は俺で、友達として、ずっとめーちゃんの傍にいるから」
決めたんだ、ときっぱりと言う忍はどこかすっきりとした笑顔を浮かべている。
「だってさ、『とくべつ』の形はひとつだけじゃないだろ?」
「忍……」
忍は吹っ切れた様子だったが、俺はうまく言葉を返すことができなかった。
ええと、その、と見つかるはずもない言葉を、空中からずっと探し続けていると、ぱっと忍が俺の背後に視線を向けて「あ!」と声をあげた。
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