02
突如、元とはいえど生徒会長が俺のような一般生徒の前に跪いたことに対してどよめきが広がる。
柏木様をひざまずかせているあいつは誰なんだという困惑の声も聞こえてきた。
けれど、そのほとんどが理一の親衛隊以外の生徒のものだということはなんとなくわかっていた。
このあいだ「機械音痴な理一かわいい!」と一緒に盛り上がった親衛隊の子たちは、少し離れたところから、どこか生暖かい眼差しで俺たちを見守ってくれている。
「ハル、手を」
すっと、理一の手が差し出される。
しばらく振りに見る理一の右手中指の先には、ちいさなペンだこが出来ていた。
この手でどれだけペンを握って、どれだけの問題を解いてきたのだろう。
理一の努力を思うと、それだけで胸が熱くなった。
俺がいつまでも手を出さないことにじれったくなったのか、そこで理一がやや視線を持ち上げる。
あのあまいヘーゼル色の瞳がまっすぐに俺を見つめた。
すがりつくような眼差しに、堪えきれなくなって、躊躇しつつも差し出された手に自分のそれをそっと重ねた――次の瞬間。ニヤリ、と理一が唇を歪めた。
「えっ」
動揺の声を上げるのもつかの間、ぐいと腕を引かれたかと思うと、止める間もなく理一は駆け出した。
当然、俺もそれに引きずられる形となる。
きゃあきゃあという歓声やらヤジやらを背に、俺たちはしっかりと手を繋いだまま、入ってきたばかりのドアをくぐってパーティー会場を飛び出した。
「ちょっ、どこ行くんだよ、理一っ!」
「お前と二人きりで、落ち着いて話せるところだ!」
ちょっと走っただけでもう息が切れている俺とは対照的に、理一は涼しい顔で俺をリードし続ける。
さすがは会長様、などと思う間もなく理一が足を止めた。
辿り着いたのは、ホテルの裏にある遊歩道だった。
石畳の小道の両脇に、なにかの木がアーチでも作るようなかたちで植えられた、独特の雰囲気がある空間である。
点々と配置されたフットライトだけが薄ぼんやりと足元を照らしている。
あたりの静けさや夜の闇の濃さが嘘のように煌々と輝くホテルの部屋の明かりだけが、互いの顔を見る唯一の頼りであった。
ふと見上げれば、まんまるい月がホテルの真上にぽっかりと浮かんでいる。
はあっと息を吐き出せばたちまち真っ白に染まった。
もうすぐ春とはいえ、まだまだ厳しい寒さが続いている。
中にセーターも着ていない状態のスーツだけではかなり肌寒かった。
ぶるりと身を震わせていると、不意にふわりと肩に何かがかけられる。
はっとして振り返れば、理一が自分が着ていたコートを脱ぎ、俺の肩にかけてくれていた。
予想外の行動に驚きつつも小さく礼を言えば、いや、と歯切れの悪い返事。
「上着を取る時間くらいやればよかったな」
「ほんとだよ。自分はコート着たままだったからって」
「悪い、つい」
「つい?」
「……我慢ができなくて」
ぼそりと答えると、理一は決まりが悪そうに視線を逸らした。
我慢ができなくて?
それは、早く俺に会いたかったとか、早く二人きりになりたかったとか、そういう意味だと捉えても良いのだろうか。
自惚れてしまいたくなる。
「……そういえば、理一。合格おめでとう」
「おう」
「もしかして、ちょっとお疲れぎみか?」
「ああ。すっげー疲れた」
「ははは、そんな顔してる」
「……だから、ちょっと『充電』させてくれ」
言うなり、理一は自分がかけたコートごと俺の体を抱き締める。
ぐりぐりと肩口に額を押し付けられると、毛先がチクチクと皮膚に刺さってくすぐったかった。
思わず身をよじれば、動くなとばかりにさらに強い力でぎゅっと抱き締められる。
二、三週間といったところだろうか。
たったそれだけのあいだ会っていなかっただけだというのに、ものすごく久しぶりのような気がしてしまうのは、それだけ俺が理一に会いたいと思っていたからだろうか。
「なんか、ふしぎだな」
「うん?」
「もうずっと、長いことハルに会ってなかったような気がする」
なんと、理一も似たようなことを考えていたらしい。似た者同士かよ、とぶはりと笑ってしまう。
「なんだよ、なにも笑わなくてもいいだろ」
理一は俺の肩口から顔をあげると、むっとしたように唇を尖らせた。
完全に拗ねた子どもだ。
「いや、違くてさ」
「何が違うんだよ」
「お前のことばかにしたわけじゃなくて、俺も同じこと考えてたからさ。なんだかおかしくて」
素直に言えば、そうだったのか、と理一は眦を緩めた。
くるくると変わる理一の表情を見ていると、なにがなくとも嬉しい気持ちになってくる。
「そういえば、チョコ、ありがとうな」
「ん」
「うまかった」
「そりゃ、どこぞの有名ショコラティエ作だからな。大事な受験前に、下手な手作り食わせてお前の体調崩させるわけにもいかないし」
「はは、そうだな……でも、贅沢を言うなら、来年はお前の手作りが食べたいぞ、俺は」
「へっ?」
それって、いったいどういう意味だ?
意味ありげな言葉にどきりとする。
微笑む理一の、やや潤んだ瞳がやさしく細められた。
その目の奥を覗き込んで真意を図ろうとするも、すぐにふいと視線は逃げていく。
ちえっと、今度は俺が唇を尖らせる番だった。
「そんなこと言われたら、俺、期待しちゃうんですケド」
「いいぞ、期待しろよ」
挑発するような口調で理一は言う。
だが、はあっと白い吐息を吐き出して大きく深呼吸し、改めて俺に向き合ったその顔は真剣そのものだった。
いまだかつて見たことがない表情を浮かべた理一は、いっそ怖いくらいにきれいな顔をしている。
美形の真顔って怖いんだななんて、この場に似つかわしくないことを考える俺の意識を、理一は「ハル」と名前をひとつ呼ぶだけで丸ごと奪っていった。
ヘーゼル色の瞳の中に、俺の全てが囚われる。
「好きだ、ハル」
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