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そういえば、図書館に来るのはこれが初めてかもしれない。
図書館というどこかレトロな響きからは程遠い、IT会社のオフィスのように近代的かつスマートなつくりの書架の間を歩きながら、ふとそう思う。
図書館というと、どうしても薄暗くて湿っぽい陰気なイメージがあるが、ここはびっくりするほど明るかった。
天井付近に大きな窓があって、そこから入る自然光が館内全体を照らしているからだろうか。
書架が低めであたりが見渡しやすかったり、書架と書架の間にゆったりとしたスペースが取られているのも、明るいと感じる要因かもしれない。
うーたんが言っていた自習室は、そんな広い館内の一番奥にあった。
どうやら一つ一つがネットカフェのブースのような小さな個室になっているらしい。
司書さんに学生証とともに申請して鍵を借り、学園生なら誰でも自由に活用できるシステムになっているのだとか。
全部で十個あるブースのうち八号室が理一の指定席だということは、カウンターで暇そうにしていた司書さんが教えてくれた。
もしかしたら、俺みたいに図書館へ理一を訪ねてくるやつは結構いるのかもしれない。
柏木くんなら八号室ですよと言ったその口調はひどく慣れているように聞こえた。
「六、七……と、ここか」
八と書かれたプレートをようやく見つけて足を止める。
木製のドアの前に立って深呼吸をひとつ。こんこん、と控えめにノックをする。
はい、と一拍置いて返ってきた静かな声に、たちまち心臓が騒がしくなった。
「……俺、重陽だけど」
入ってもいいかと続けるよりも先に、ガチャリ! と勢いよく目の前のドアが開いた。
向こう側に開いたドアのその向こうには、信じられないものを見たかのように大きく目を見開いた理一の姿がある。
目の下にはすっかりおなじみとなりつつある色濃いクマがあった。
心なしか、冬休みに会ったときよりも頬が痩せこけている気もする。
「び、っくりした。おま、急に開けんなよ!」
「悪い……じゃ、ない! ハル、お前、いいから早く入れ!」
ぐいと乱暴に腕を引かれて中へと入る。
想像していたよりもずっと広い室内には、大きなテーブルとイス、それから、問題集や辞書がぎっしり詰まった小さなラックだけがあった。
テーブルの上には、都内の某有名私立難関大学の過去問題集が広げられている。
「ハル、お前なんで……」
「急にごめん。理一が入試前で忙しいのはわかってるんだけど、どうしても会いたくて」
ちょっとでいいから、理一の時間を俺にくれないか、と。
そう尋ねてから、これじゃあまるで大晦日の逆バージョンだと気づく。
「別にそれくらい構わないが、どうしたんだ? 急に改まって」
不審がる理一にちゃんと説明しようと思うのに、緊張のあまり唇がうまく動かなかった。
震える指先をかろうじて動かして、チョコの入った紙袋を「ん」と突き出す。
理一はふしぎそうに首をかしげたままそれを受け取り、何気なく中を覗き込んで、はっとしたように息を詰めた。
「ハル、これって!」
これって、その、あの。と、理一の声は徐々に尻すぼみになっていく。
自分が思っているもので間違いないのか、そういうことでいいのかと確認したいのに、期待して裏切られるのが怖いから口にできない。
そんなためらいと恐怖心が見え隠れしているようだった。
理一のその心情はよくわかる、つもりだ。
少なくとも俺は、大晦日に除夜の鐘で遮られた理一のあの言葉の続きに対して、ずっとそういう複雑な想いを抱き続けている。
だから、ここではっきりさせなければ。
その一心で、凍りついたように冷えた指先をぐっと握りしめる。
「……大事な試験前に、動揺させるようなことして悪い。今すぐ返事なんてしなくていい。けど、俺、理一にちゃんと俺の気持ちを知っててほしいんだ」
すうと息を吸って、その息に声を乗せて、吐く。
ただそれだけの、いつも無意識にしている行為なのに、いまの俺は声を震えさせないようにすることだけに必死になっていた。
ばくばくとうるさい心臓の音に脳内を支配される。
対峙した理一の瞳がひどくきらきら輝いてみえて眩しかった。
あの花の季節にさんざん嗅いで来たあのあまいにおいさえもが、ふたたび周囲に漂い始める。
理一のせいでもうすっかり嗅ぎ慣れてしまった花のにおいは、まるで鎮静剤のように俺の緊張をしずめてくれた。
ああ、もう大丈夫だ。
錯覚の中のにおいに安心感を覚えて、俺は唇を動かす。
「――すきだよ」
必死の思いで、俺はそうとだけ紡ぎだした。
結局、カードに書いたのと同じことしか言えないなんて、チョコに添えたあのカードに意味はあったのだろうか。
そんな現実逃避もそこそこに、なんだかもういたたまれなくなってきて、とっさに理一に背を向けた。
逃げるようにしてドアノブにすがりつく。
力任せにドアを引きあけ、外に出ようとする、が。
「ハルっ!」
バン! と、背後から伸びてきた理一のてのひらが、俺の行く手を遮るように開きかけたドアを押し戻した。
俺の肩越しに伸ばされたその腕はわずかに震えている。
耳元に理一の呼気を感じて恐る恐る振り返れば、すぐそこにきれいなヘーゼル色の理一の瞳があった。
ハル、ともう一度繰り返されるのとほぼ同時に、ふわりと柔らかな暖かさに包まれる。
抱き締められたのだと気づいたのは、理一の着ていたブレザーの深緑色が視界いっぱいに広がったからだった。
充電だなんだと言って、いままで何度も理一に抱き締められて、俺はその背を抱き締め返してきた。
けれど、いま理一からされているこの抱擁は、いままでのものとは明らかに性質が異なっている。
理一の背に腕を回す勇気もなくて行き場を失ってしまった俺の腕は、完全に宙ぶらりん状態だった。
やわらかな薄茶色の髪が俺の頬をくすぐる。
どくん、どくんと一定のリズムを刻む俺の鼓動に、不規則に乱れた理一の鼓動が重なった。
理一が身動ぎをするたびに、かすかな呼吸をするたびに、俺の脈拍はどうしようもないくらいに乱される。
もう、まともな思考回路すら保つことができない。
いっそこのままおかしくなってしまいたい。
そんなことさえ考えはじめた俺に、理一はそっと答えた。
「ありがとう、ハル。チョコ、大事に食うから」
「……おう」
「それから、返事は、入試が終わったら絶対にするから」
だから待っていてくれと苦しそうに紡ぎだされた声に、俺はただ、理一のあまい体温を感じながら、小さく頷き返した。
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