20 | ナノ




ずかずかと、下駄箱に向かって歩く。この暑い中で長袖シャツを着ているせいで汗が滴るのも無視して速度を落とさずに歩いていく。
始業式だったお蔭で、偶に教室に数人残ってはいるものの、大半の生徒は帰っていた。良かった、見られなくて。目をごしごしと擦りながら、足を止めずに進む。大丈夫。学校から家まではそう遠くないし、ずっと目を擦っていれば直ぐ止まる。だから、大丈夫。

「…あれ、三郎?」

どくん。
心臓が大きく跳ね、足が止まる。まさか、知り合いがまだここにいるなんて思ってもみなかった。しかも、こいつが。

「やっぱり三郎、だよな?こんな時間に何してんだ?」

遠慮なしに近付いてくるそいつに、舌打ちしたくなる気持ちを抑えて首を横に振る。いま口を開けば鼻声になってしまうに決まっているからだ。それなのに遠慮なく近付いてくる辺り、こいつは空気が読めなさすぎると思う。…いや、空気が読めなさすぎるのは、いま教室から出てきた奴らの方かも知れない。
喧しくお喋りをしながら近付いてくる奴らに、逃げようと足に力を入れるが、何故か足が動いてくれない。それどころか、力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。思ったよりも近くで驚いたような声が聞こえたが、無視してまた歪み始めた目を擦る。足が動かないならば、せめて涙だけでも隠したかったのだ。だけども涙は止まらない。逆に流れる量が多くなっている気がする。ああ、話し声が近い。視界が、暗い。…暗い?

「ちょっと我慢してろよ」

目の前から聞こえた声に顔を上げようとするも、首に手を回されてそれは叶わなかった。どうしてこんなことになったのか理解ができずにただ呆然としていると、話し声が止んだ。廊下のど真ん中で、ジャージを頭から被せられた女子を抱きしめる男子の姿なんて、おかしな光景を目にすれば当たり前だろう。黙ったまま横を通り過ぎていく気配がした後、少ししてから悲鳴のような叫声が遠くで聞こえた。

「…と、ごめんなー三郎。でもそれ、今日委員会があると思って間違えて持ってきただけだから!使ってないから綺麗だぞ…多分」

パッと視界が幾分か明るくなり、手がはなされたことを悟る。ジャージが滑り落ちないように手で抑えつつ顔を上げれば、明後日の方向へ視線をやりながら、手を差し伸べてくる竹谷が目に入った。私はまた潤んできた視界を擦ってから、その手をとって立ち上がった。そして三郎は、頑なに此方を見ようとしない八左ヱ門に笑いながら、「ありがとう、竹谷」と手を握る力を込めた。



「あ、来た!」

生徒会の集まりが終わり、帰ろうかと下駄箱へ出た途端、手を振られて立ち尽くす。ええと、どういう状況でしょう。もしかして夢なのかと目を擦るも、目の前の彼女が姿を消すことはなく。これといった変化は…彼女が首を傾げたことくらいだった。

「本当は兵助と一緒に待とうと思ってたんだけど、連れて行かれちゃってさー。だから一人で待ってたの」

笑いながら話し掛けてくれる彼女は、やはり夢なのではないかと疑いながら、そうなんだと返す。多少ぎこちなくなってしまったのに気付いたらしい尾浜は、長い髪を揺らして再度首を傾げた。そういえば。その髪を見て、以前からずっと気になっていたことを尋ねることにした。幻ならば答えられないだろう、と片隅で思いながら。

「ねえ、」

「んーなあに?」

「何で尾浜はいつもポニーテールにしてるの?三郎の真似、とか?」

尋ねれば、尾浜は少し考える動作をして…直ぐに答えがでないってことは、やっぱり夢なのかと肩を落とす。しかし尾浜はそんな僕の反応に気付くことなく、いつもつけているシュシュを触りながら照れ臭そうに笑った。

「これ、三郎と初めて会ったときに貰ったの。お前にはポニーテールが似合うって、二つにくくってたのをわざわざ取ってくれたんだー。だからね、髪が長い間はずっとポニーテールにしてるの」

えへへ、と笑う尾浜に、無言で鼻をおさえる。幸い手が赤く染まることはなかったが、顔は間違いなく赤く染まっていることだろう。だって、可愛い。凄く可愛い。意味が分からないほど可愛い。何だか頭がぐるぐるしだし、耐えられなくなって近くにあった電柱をべしりと叩く。じんじんと痛みが手の平に広がり、声にならない悲鳴が口から漏れた。…ん、痛い?

「だ、大丈夫…?」

「あ…、う、うん大丈夫、大丈夫!あ、あはは、蚊がいた気がしてさ、つい」

痛みがもはや熱となってきてしまっている手の平をひらひらと振りながら咄嗟に考えた言い訳を言えば、尾浜はやはり納得がいかなかったらしく、訝しげに眉を顰めた。僕は尾浜に引かれてまた前の関係に戻るのが怖くて、へらへらと笑ってみせた。尾浜はそんな僕に何か言い掛けようとして、「あ」と声をあげた。どうしたのだろうと思いながら、僕の目の前へ移動した尾浜を見つめていると、尾浜は満面の笑みを浮かべて言った。

「前、言い忘れてたんだけど…これから宜しくね、雷蔵」

その笑顔が僕にとって眩しすぎたせいか、先ほどとは違う電柱をまたべしりと叩いてしまった。そして、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返した僕を笑うでもなく、心配げに見てくる尾浜…いや、勘右衛門に幸せだなあと笑みを浮かべたのだった。そう、中在家先輩の忠告をすっかり忘れ、誰かが様子を伺ってくるのさえ気付かずにただ、笑みを浮かべたのである。



「…はあ、」

ごつり。先ほど先輩に連れてこられた生物室の壁に頭を預ける。因みにその先輩はもう生徒会室へ行ってしまった。まったく、言いたいことだけ言っていなくなるなんて、あの人らしい。後になって痛みを訴えてくる頭を無視しながら、先輩の言葉を思い出す。

−意気地なし。…お前たちを責める奴なんていないよ。だからもういいんだぞ、我慢しなくても。意気地なしなんて卒業していいんだ。

そう言って俺の頭を撫で、去っていった先輩が、どこか寂しそうに笑っていたことまで思い出してしまい、はあとため息を吐いてからバッグから携帯を取り出す。件名なしで、本文は『明日、お昼ご飯一緒に食べないか』という、かなり短い文をうつ。あとは送信ボタンを押すだけとなった段階で緊張してきた俺は、携帯を片手に深呼吸をして落ち着こうとした。しかし落ち着くどころが逆に更に緊張してしまい、なるようになれ、と送信ボタンを押した。送信完了の文字が画面にうつるまでの数秒の間が長く感じて、送信中止にしようかと指を伸ばしてしまう。が、その前に送信完了の文字があらわれてしまい、頭をかく。それから携帯をバッグに投げるように入れて、立ち上がる。

「先輩の、お節介」

ぽつりと呟いてから滴る汗を拭って、家に帰るために足を踏み出した。



僕らの青春恋愛事情に戻る。


2012.0919
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