19 | ナノ




始業式が終わり、いつもに増して五月蝿い校内。高校生とはいえやはり暑さには勝てないらしく、夏休みに入る前にはたくさんいた長袖のシャツを着る学生は極端に減っていた。偶に日に焼けたくないからと意地を張る女子もいるが、見る限り、今年はそれも少ないらしい。
確かに今年は昨年に比べて暑いから仕方ないかもな。窓の外を眺めようとするも、目が開けられないくらいの眩しさに、まるで太陽が長袖のシャツを着た数少ない生徒の一人である俺のことを、あざ笑っているように思えた。

「…兵助さあ、暑くない?」

ふと心配そうな声音が聞こえ、窓から視線を外して頷けば、勘右衛門はあからさまに顰めっ面になった。

「嘘吐き。暑いの嫌いなくせによく言うよ」

そうため息を吐いてから、何故かハンカチと水を取り出す彼女に頬をかく。
バレてたか。なんて心の中で呟いていると…、ぱしゃり。冷たい何かが頬に触れた。どうやら勘右衛門によって押し付けられたらしいそれを手で持って確認する。それは、可愛らしい柄のハンカチだった。そのハンカチからぽたりと滴る水滴に、ぱちりと瞬く。「三郎とお揃いだから凄く大事に使うんだー!」と笑っていたのは記憶に新しいはず、なのだが。

「はい。やせ我慢だいすきな兵助くんに勘右衛門さまから心優しいプレゼントー。」

驚いているせいか、棒読みで告げられた言葉もうまく頭に入ってこなくて呆けていると、勘右衛門はそんな俺を置いて歩いて行ってしまう。慌てて追いかけて礼を言えば、彼女は横に並んだ俺に視線を寄越すことなく、「…倒れちゃやだからね」と笑った。

「おや、何しているんだ?」

そんな時。いきなりかけられた声に反射的に振り返る。そこには、立花先輩率いる生徒会の面々がいた。…といっても、立花先輩に綾部、平だけだったけども。

「始業式も終わったんでもう帰ろうとしていたところです」

俺が応える前に勘右衛門が先に応えてしまい、同調するよう頷く。先輩方は何をしてるんですか。そう尋ねようとしたのだろう、開いた彼女の口は…いや、彼女は最初からそんな問いをするつもりなどなかったのかも知れないが…兎も角、それとは違う問いをした。立花先輩の後ろで、正反対な表情をしている二人に視線を向けて。

「…ところで、何で綾部が男用の制服着て浮かれてて、何で平は死んじゃいそうなくらい落ち込んでるんですか」

勘右衛門に名指しされたせいか、話を聞いて欲しそうにそわそわと体を動かす綾部と、彼女の言葉など聞こえないというように反応をしない平。いつもと真逆な反応に戸惑う俺を余所目に、立花先輩が乾いた笑いを漏らした。それを了承と受け取ったのか、綾部が嬉々として(相変わらず無表情だけど。)話しだそうとした、のだが。

「…げ。」

それより先に、ここにいる誰のものとも思えない小さな声がして、皆の視線が一方に集まる。意図せず視線を集めてしまった張本人…川西左近は、さすがに驚いたのか若干肩をはねさせたが、直ぐに咳払いをしてから平を睨むように見つめた。対して、平は顔を青くする。それは恐らく、川西の睨みのせいではなく…彼女の後ろから姿を表した、伊賀崎孫兵のせいだろう。

「こんにちは、先輩方。…ご機嫌うるわしゅう、たらい先輩?」

わざわざ平にだけ畏まった挨拶をした上、名前をわざとらしく間違えた伊賀崎は、にこりと、感情が読み止めれないような笑みを作った。彼女が本気で怒っている時とその言動が似ていることに気付き、何をしたんだこいつは、と平を見やれば、彼の顔が青いを通り越して青白くなっていて、呆れる前に心配してしまった。大丈夫なんだろうか、顔。

「では、お先に失礼しますね。」

そんな平のことなど眼中にないというように、一礼して去っていく伊賀崎に、川西が続く。川西はちらりと平を見て足を止めた。

「自業自得です。…でもまあ、ご自分が伊賀崎先輩に何を仰ったのかを思い出して、伊賀崎先輩に謝罪をされれば許して貰えると思いますよ」

では。
そう言ってぺこりと頭を下げた川西は、既に先を行っている伊賀崎を追うようにして去っていった。平は川西の言葉を反芻しているが、何も覚えがないらしく首を傾げていた。この場にいる平以外の全員は、またいらないことを言ったのだろう、と確信に近い予測をするぐらい、簡単なことなのだが本人はそう上手くいかないらしい。誰のものとも言えないため息が聞こえた。



「図書室の本じゃないものを読むんなら、自宅で読んで下さい」

始業式の後だからか、利用者が一人しかいない図書室で黙々と本を読んでいる彼女の後ろに回って注意をすれば、彼女…三郎はバッと勢い良く後ろを振り向いた。しかし僕の顔を認めた途端、はあとため息を吐いてから本を閉じた。

「失礼だなあ、人の顔見てため息なんか吐くの?」

「喧しい。お前がいきなり声をかけるから悪いんだろう。文句を言うなら最初からそうやって前に座れ」

「えー?それだと面白くも何ともないじゃない」

許可も取らずに目の前の席に座った僕から視線を逸らし、窓の外を眺める三郎につられて外を見る。予想通りの姿があることに気付いてしまったせいで、今度は僕がため息を吐く番だった。

「やっぱり。まだ、好きなんじゃない」

ぽつりと呟くように言った言葉は、黙殺された。肯定も否定もせずに黙りこくるなんて、肯定と同じことになるとは考えなかったのか、それとも応えるのが面倒だったのか。それとも…

「馬鹿馬鹿しい。好きな訳ないだろ、私は一度ふられてるんだ。そこまで引きずる女じゃないよ」

漸く口を開いたと思えば、もう応えないだろうと踏んでいた応えを言った三郎は、かたりと椅子を引いた。次いで、立ち上がりながらも先ほどの本をバッグに入れる。何度も何度も読まれたせいか、普通のものより頑丈な作りになってるはずのそれは、ボロボロだった。それでも新しいものを買わないところをみる限り、未練たらたらにしか思えない。その本は、三郎が初めてあいつに貰った本、だから。
僕は周りに人がいないことを確認してから、図書室らしく静かに出て行こうとする三郎の背に声をかけた。その背はもう小さくなっていたから、少し大きめな声で。

「三郎が泳ぐ姿は人魚姫みたいだと思ってたけど、やっぱり違った。だって、人魚姫のお話の最後はバッドエンドだもの。だから、三郎は人魚姫なんかじゃ」

ピシャン
言葉を言い切らないうちにドアを閉められる。通常より大きな音をたてて閉まったドアを眺めていると、中在家長次先輩がそこから入ってきた。

「あ…す、すみません」

「いや…気にするな」

中在家先輩の小さな声が響くほど、人がいない図書室。あの大きな音は幻聴だったのかと思えるほど控えめな音をたててドアが閉まった。

「このところ、鉢屋が図書室に来るのは…少なくなってたから、そっちの方が驚いた」

…つまり、久しぶりに、あの本を読んだって訳か。
三郎が図書室であの本…正式にはあの絵本…を読むのは、家で読みたくないからだそうだ。家で読んでしまうと、いつの間にか家の中がぐちゃぐちゃになるらしい。だから図書室で、静かにしなくちゃいけなくて、尚且つ他人がいる場所で読むらしい。図書室だと理性が保つんだと言っていたが、それが本当かどうか。
ぱらり、と紙を捲る音で我に返り、中在家先輩へ視線を向ければ、先輩は席に座って分厚い本を開いていた。三郎がいなくなったいま、図書室に用がなくなってしまった僕は、「じゃあ、失礼します」と一礼してドアへ向かった。

「…雷蔵、」

だが、中在家先輩に名を呼ばれ、その足はまた止まることになる。応対するために振り返ろうとしたが、その間もなく、背中に声がかかる。

「気をつけろ。近い内に、仕掛けてくるぞ」

その言葉は、静かな図書室が憎らしくなるほど、僕の耳に響いた。



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2012.0919
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