17 | ナノ




キュッ、キュッ
独特の音をたてながら解答用紙に赤いペンが走るのを、頭を下げて聞く。今日で、夏休み五日前。鉢屋がこの日まで勉強を教えてやると指差した日付であった。午後からフリーとはいえ、俺に勉強教え続けてくれているわけだから、五日間ぐらい休みを満喫したいのだろう。何だか今更ながら申し訳なくなって、頭を更に下げた。

「…いつまで頭さげてんだ」

「あいてっ」

ぽかり、と頭を叩かれ、叩かれた場所を手で押さえながら顔をあげる。目にうつった鉢屋は、微笑んで解答用紙を俺に見せた。

「合格。よく頑張ったな」

各100点の三科目分の解答用紙に70点オーバーの点数が書いてあって、俺は余りの嬉しさに「よっしゃあ!」と拳を作ってしまい、近所迷惑だとまた頭をぽかりと叩かれた。

そんなこんなで、夏休み五日前です。



「三郎!会いたかったー」

俺たちの姿を見つけるなり、満面の笑みをたたえて近寄ってくる勘右衛門の頭を優しく撫で回す鉢屋から視線を外し、勘右衛門同様、近寄ってきた兵助に軽く手をふってみせた。
鉢屋は一週間ほど前から生徒会の仕事の手伝いが終わったらしく、今日、兵助と勘右衛門とお昼を食べる約束をしていたそうで。いいなあと漏らした竹谷に、兵助がはっちゃんもも来ないかと誘ってくれたのだ。鉢屋のお蔭で夏休みの宿題も終わっていたし、やることもないからと頷いた俺に、鉢屋が舌打ちをしたのが印象的で今でも覚えている。あからさまに嫌がらなくてもいいじゃないですか。

「ごめんね、三郎。お昼たべるだけしかできなくて…」

「いや、気にしないでいいよ。約束した時には用事が入ってたんだろ?仕方ないことだし…それに、久しぶりに勘右衛門とお昼たべれるだけで嬉しいから」

「ほんと?へへ、私も元から嬉しかったけど、三郎がそう言ってくれたお蔭でもっと嬉しくなっちゃった」

鉢屋と勘右衛門のやり取りを、後ろで兵助と並んで歩きながら羨ましいなとぼんやり眺める。自慢ではないが、鉢屋が優しく俺に接してくれたことなど、一度もないのだ。勘右衛門に留まらず、雷蔵にも兵助にも優しいくせに…なんて、俺は鉢屋と高2で初対面なのに対し、勘右衛門、雷蔵、兵助は高2の時点ですでに知り合いだったようだし、鉢屋の休みを奪って勉強をみてもらったというのに、優しくして欲しいなんて自分勝手すぎるか、とがくりと肩を落とした。

「はっちゃん、どうかした?」

そんな俺を不審に思ったのか、心配そうに伺ってくる兵助に、苦笑して首を振る。

「何でもない。…それよりもさ、あの映画おもしろかったよなー」

「え、あ…そうだな」

これ以上不審に思われないようにと、無理やり話題を変える。いきなりの話題転換についてこれなかったらしい兵助は、だけど直ぐに頷いてくれた。微かに赤くなった顔から察するに、兵助もあの映画が気に入ったのだと思い、またDVDが出たとき一緒に見ようなと約束をした。と、目的のバイキングについたらしく、先に店の前についた二人が俺たちに手を振ってきたので、俺と兵助は慌てて店の方へ駆けた。



「じゃあ八左、また学校でね!三郎は明後日こそ一緒にショッピングに行こうね」

「うん、楽しみにしてる」

「二人とも、また学校でな。」

「おー、またな!」

昼を食べ終え、各自解散となり、家へ帰る二人を見送る。奇跡的に鉢屋と俺は帰り道が同じだったから、途中まで一緒に帰れるかななんて期待しつつ鉢屋を振り返った。しかし、そこに鉢屋はいなかった。
今まで確かにいたはずなのに、と慌てて捜す。鉢屋は美人だから、もしかしたらナンパをされたのかもしれない。…いや、鉢屋がナンパされただけでついて行くとは思えないから、もしかしたら無理やり…

「…っ」

自分の想像にぞっとして、軽く走りだす。まだ遠くにはいってないはずなのに見つからない姿に、本気で焦りを感じてきた。暑さのせいではない汗が顔を伝う。鬱陶しくてぶんぶんと頭を振ってそれらを飛ばしたあと、向かいの噴水広場に視線をやると、どうやらちょうど電話か何かを終えたようで、携帯をバッグに戻している鉢屋の姿を見つけることができた。
良かった、無事だった。ほっと安堵の息を吐く。全く人騒がせな奴だ。後で文句いってやろうと、近くの歩道橋に歩み寄りながら考えていると、鉢屋の前に二人の男が現れたのが視界に入った。
どくり。心臓が跳ねる。先ほどの想像が蘇り、素っ気ない態度をとる鉢屋にしつこく食い下がる男たちがおかしな気を起こさないうちに、と歩道橋を駆け上る。降りた途端、自転車にぶつかりかけて後ろから怒鳴られたが、そんなことは今の俺にはどうでも良かった。その時はただ、鉢屋の安否のことだけしか考えていなかったのだ。息を荒くしながら、漸く辿り着いた広場で未だ鉢屋に絡む男たちを見つけ、無意識に口を開いた。

「三郎!」

その口から飛び出たのが、鉢屋の名前だったことに気付かず、三人に近付く。そして目を見開く鉢屋の前に立って二人の男を睨み付けた。すると男たちは「彼氏連れかよ」だのなんだのとボソボソ呟いた後、逃げるように去っていった。それを見届け、緊張が解けた俺はその場に崩れ落ちた。

「た、竹谷っ…大丈夫か?」

ずっと呆然とした様子だった鉢屋は我に帰ったようで、俺の前にしゃがんで顔をのぞき込んできた。それにさっきとは違う意味で心臓を跳ねさせながらも、「大丈夫」と笑ってみせる。
…実際、大丈夫なんかじゃない。もしあの男たちがヤバい奴らだったらとか、もしあの男たちが凶器をもっていたらなど、そういった恐怖が後になって押し寄せてきているのだ。がくがくと震える体を諫めようとしていると、背中を撫でられる感覚がした。
それが鉢屋のものだと分かり、情けない気持ちでいっぱいになる。最後まで格好付けれない自分が嫌になり、顔をうずめた。鉢屋はその間も、ずっと背中を撫でてくれていた。



「…ごめんな、」

結局、震えが収まるまで背中を撫で続けてくれた鉢屋と一緒に道を歩きながら謝罪をすれば、鉢屋はふるりと首を振った。

「私こそ、いきなりいなくなってごめん。竹谷が捜してくれたお蔭で、助かったよ」

ありがとう、笑顔で礼を言われ、情けないと思っていたこと忘れるほどの衝撃を受け、赤くなった顔を見られないようにと伏せようとして、小刻みに震える手を見つけた。言わずもがな、鉢屋の手である。
鉢屋も、怖かったんだ。今更ながらそんな当たり前のことに気付き、自然と手を伸ばした。そしてそのまま手を重ねれば、鉢屋はその場に足を止めた。

「…あ、ご、ごめんないきなり!鉢屋の手みてたら、握りたくなって…」

パッと鉢屋から手を離し、とっさに考えた言い訳を口にするも、どこからどう聞いても変態の発言にしか聞こえないそれに、しまったと顔を青くする。それから他に何か良い言い訳はないかと思案していると、手に柔らかい感触がした。と思えば、控えめに手を包まれ、驚いて鉢屋を見る。

「私も、…八左ヱ門の手を見てたらつい、握ってしまった」

俺の顔を見ないためにか、顔を逸らしていた鉢屋が、小さな声で言うのを聞いて、俺の顔は言葉通り火がでたのではないかと心配するほどに熱くなった。それに気がいってしまったせいで、鉢屋の耳が霜焼けのように赤くなっていたのを、残念ながら竹谷が気付くことはなかった。



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2012.0901
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