これの続き
指先が頬に触れる。つっと顎を撫でて、首筋をなぞる。
「おい」
ぎゅっと眉を寄せて短く制しても返事はない。
手が一度離れたかと思えば、今度は唇に触れてきた。爪の先で擦るように軽く、次は指の腹をするりと滑らせる。
ぞわぞわと何かが背中を這い上がる感覚が走った。流石にこれは、やばい。
「…っ、お、おいっ」
「ん、なんすか?」
セトはやけに爽やかな笑顔で首を傾げる。分かっているくせに。今更無邪気なふりをしたって騙されないからな。
顎を掴んでいた手をぺちぺちと叩く。それでも離そうとしないから、更に手に力を込めて無理矢理叩き落とした。
花屋での一件から数日が経過した。
今日もふらっとアジトにやって来ると、またしてもいたのはセトだけ。
こんなことは滅多に無いはずなのに、どうしてオレはこうも運が悪いのだろうか。
苦い顔を隠すつもりもなくぼそぼそと挨拶をしてソファに腰掛ければ、セトはわざわざオレの隣に座ってきた。向かいに座ればいいものを。暑苦しい。
それから携帯の画面を見つめていると、ほどなくしてセトが手を伸ばしてきて、何やらべたべたとオレの顔を触りだしたというわけだ。
ここ最近で身に染みてよく分かった、こいつは全くもって意味が分からない奴だ。
「さっきから何やってんだ。いい加減にやめろ」
「え、こういうのって恋人っぽいかなって」
恋人っぽいから何だ、練習とでも言うつもりか。
花屋でちらっと見かけたセトのストーカーらしき女の子は、あれから全く姿を見せなくなったと言う。
それならもうストーカーの問題は解決で、オレたちの偽恋人関係も解消でいいんじゃないかと思うんだが。
セトは彼女がまだ諦めていないと言い張っている。そしてこいつに弱味を握られている以上オレに逆らうことは出来ない。
だがセトは問題を解決する気が本当にあるのか、花屋での一件から全く行動を起こそうとしない。
このままオレはずるずると付き合わされるんだろうか。ああ、最悪だ。
エネが留守にしている画面に目を落とす。再び手が伸びてきて、慌てて顔を動かしてかわす。
「だから…っ、やめろ!」
「そんな過剰に反応しなくても」
セトがくすりと笑った。大人の男みたいな色っぽい笑い方だ。年下のくせに、とひがんでしまう自分は逆に子供すぎて情けない。
「お前、妙に手慣れてるから気持ちわりいんだよ…」
上手く言えないが、セトの手が触れる度にどこかがぞくっとする。
それは今まで味わったこともない感覚で、気持ちが悪いとしか言いようが無い。
「別に手慣れてはないっすよ?俺、今まで誰かと付き合ったこと無いし」
「嘘つけ。お前のそのハイスペックで恋愛経験ゼロとか無いわ。絶対無い」
「恋愛経験がゼロなわけじゃないっすけど。付き合ったことないのはほんとっす。さっきのはやってみたいと思ったことをやっただけっすよ」
「いや、だからそれをオレにやってどうするんだよ」
頬とか顎とか色々撫で回すのがやってみたかったことか。
お年頃だからそういうことに興味を持つのも仕方ないが、その対象をオレにするのはどうか止めてもらえないだろうか。
片思いをしている誰かがいるならさっさと告白してくれ。セトなら絶対上手くいくだろうから。
仏頂面で会話を切るように手元に目線を落とすと、少しの間を置いて、セトが口を開いた。
「手首。あれから切ってないんすか?」
「は?」
顔を上げると、セトがソファの上に投げ出したオレの左手首を見つめていた。赤ジャージの袖の下には未だに包帯が巻かれている。
数日前に切った傷はもうほとんど治ってはいるが、長い間に繰り返し付けた傷は、手首に染み付いてなかなか消えないでいる。
それを隠すために、いつしかずっと包帯を巻いておくしかなくなってしまった。
「そんな毎日のようには切ってねえよ。何だ、もっとやれとでも言いたいのか?握ってる弱味が無くなっちゃ困るもんな」
「…そんなことは」
「心配すんな。多分、そう簡単に直る癖じゃねえから」
そのあたりはオレにだって分からないけれど。多分オレの中でアヤノへの罪悪感が完全に消えるまでは無理だ。そしてそんな日は絶対に来ないだろう。
横目でちらりと見ると、セトは眉間に皺を寄せて沈黙していた。そう、それでいい。
嫌いな人間が腕を切ろうと何しようとどうだっていいだろう。興味を持たずに放っておいてくれるのが一番だ。
ついでに、面倒な偽恋人関係、それから意味不明なゲームなんかも全部取り止めて欲しいものだ。
■□■
次の日。
昨日はアジトに行ったし、今日は引きこもってもいいだろうなどと思いながらパソコンの画面を見つめていれば、セトからメールが入った。
件のストーカー女子にバイトの後に話があると言われたから、バイト先まで来てくれないかと。
オレを巻き込むなと言いたいものの、そういえば恋人役だったと思い出し。更には弱みを握られているから反抗出来ないことを思い出し。
面倒くささも相まって、苛々は募るばかりである。
大きく溜息をついて立ち上がり、ジャージを羽織る。玄関で出くわした母親の嬉しげな視線を感じつつ外に出た。
暑い、とにかく暑い。
太陽の光がじりっと肌を焼く。髪の毛が熱をはらんで焦がされるような暑さ。
だらだらと街中を歩いていると、イヤホン越しにエネが話しかけてきた。
「ご主人、大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃねーよ…」
「いえ、そうではなく。あの人にこうして振り回されていることですよ」
不安げなエネの言葉。
「嫌ならはっきり嫌って言った方がいいです。あの人だってご主人を苦しめたい訳じゃないんですから」
「どうだか。…セトの考えてることは意味分かんねえよ」
セトの思っていることはよく分からない。花屋での一件から分からなくなってしまった。
アヤノを見殺しにした記憶を知っているから、オレのことを嫌っている。オレを嫌っているから弱味を握ることも辞さなかったのだろうが。
花屋では妙に上機嫌によく笑っていて―それからオレの頭に手を置いた時の、あの表情。
「私にも、解りませんね。解りたくもないですけど」
「どうした、エネ。セトと何かあったのか?」
人を茶化したりいじったりするのが大好きなエネとはいえ、こうも刺々しい口調で誰かのことを語るのは珍しい。
携帯の画面を見下ろすと、その中でエネがぷくりと頬を膨らませた。
「何かも何も、ご主人のことでしょう」
「…え。何お前、オレの心配してんの?」
「うっ、うう、うるさい!ですっ!」
エネはかっと赤面して、ご主人をいじめていいのは私だけなんですからね、と喚きたてる。思わず吹き出してしまった。
「何か文句でもありますか!こっちだってご主人の弱味なんか山ほど握ってるんですからね!脅しなんてちょちょいのちょいです」
「自慢げに物騒なこと言うな!」
楽しそうな笑い声を聞きながら、肩の力を抜いた。
エネだけはオレの秘密もセトとのやり取りのことも知っている。
普段は素直じゃないが、オレが困っていれば手を差し伸べてくれるだろう。そんな存在がいてくれて、心から良かったと思う。
「…ありがとな、エネ」
「いいんですよ。…私だって、あの子のこと…」
「え?」
あの子って、と顔を見ると、エネは悲しげに首を横に振った。聞くな、ということだろう。だったら聞かない。オレたちはそういう関係性でいい。
「何でもありません。だけど、本当に。ご主人が嫌でたまらないなら私があの人の弱味でもなんでも握って、今すぐ終わりにしてもいいんですよ」
「いや、そこまでしなくてもいいから」
エネの情報収集能力の前では、爽やか好青年の皮を被っているあいつだってぼろを出しまくりだろう。
弱味を握られている被害者の筆頭であるオレにはその恐ろしさがよく分かっている。きっと、社会的地位を失うレベルの弱味を掴んでくるに違いない。
ヒキニートのオレならともかく、セトがそんな目にあうのは可哀想すぎるだろう。メカクシ団の唯一の稼ぎ手だし。
「あーあ、ご主人ってほんとお人好しですよね」
「そうかぁ?」
自分じゃ全くそんなこと思わないんだが。
「嫌われるのは平気なのに、誰かを嫌うことは出来ないんですから」
「…」
言い返そうとして、目の前に立っている人にぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。
「あ、しゅ、しゅみましぇ…っ」
「ぶふっ、噛み噛みじゃないですか」
イヤホンの向こうでエネが吹き出す。羞恥に顔を染めながらおろおろと視線を上に向けると、三人組の男女が立ち塞がっていた。
それも、いかにもリア充っぽい奴らばかり。脱色した髪の毛にちゃらい服装をしている。
リア充とか恐い恐い無理、と心の中で怯えて慌てふためきながら、すみませんと一礼して立ち去ろうとする。が、後ろからがっと腕を掴まれた。
「は、はあ!?」
「如月伸太郎くん、だよね?」
真ん中に立っている女がそう問いかけてくる。残りの男二人はにやにやと笑いながらオレを見つめている。
「ご主人、ご主人、あの子…格好は違いますが花屋のあの子じゃないですか!?」
「えっ」
男の一人に腕を掴まれたまま、茶髪に前を大胆に開けたワンピースの彼女を凝視する。
「あ!セトのストーカー!」
「…何、その言い方…」
前に見かけた時は眼鏡に質素な服装だったが、確かにそんな雰囲気がある。
服や化粧でこんなに化けるものなのか。女って恐い、とか考えているどころじゃない。
思わず叫んでしまった言葉に、ストーカー女子は口の端を引きつらせて怒りの表情を見せた。
それだけでひい、と怯えてしまうオレは弱いにもほどがある。
「きょ、今日はセトに会いに行くんじゃ…!」
「そうよ?だけどその前に、邪魔者を片付けておきたくて」
「邪魔者…って、もしかして、オレですか…」
もしかしなくても、と微笑まれた。
―ああ、今日は厄日だ。
腕を掴む手に力が込められて、うっと声を漏らした。
■□■
場所は変わって、どこぞの入り組んだ裏路地。漫画でいかにもな不良がいかにもカツアゲに使うような場所だ。
「…ったあ、っ」
壁に体を叩きつけられて悲鳴を上げる。
「で、これからどうするよ?」
「殴るでもなんでも好きにしていいわ」
男の問いかけに肩を竦めて離れた場所に移動すると、携帯を眺め始めるストーカー女子。主犯のくせにあんまりな態度ではないだろうか。
目の前には二人の男が立ち塞がっていて逃げられそうにない。
ちなみに二人ともオレより背が高い。筋肉の量なんぞは考えるまでもない。
―誰か助けて!なう、今すぐに!
祈りを捧げながら俯いて震えていると、突然顎を持ち上げられた。
「なっ…!?」
「ま、そのイケメン君がホモに走るのも何となく分かる気がするよな」
「確かに。すげえ色白いね、お前。マジで男なわけ?」
全身舐めるように見るのは止めて頂きたい。どことなく視線が獣のそれっぽい。
まさかとは思うがこれは…殴られるより酷い目にあう予感しかしない。背筋を冷たい汗が伝った。
「なあ、こいつやっちゃってもいい?」
「勝手にして」
「この街にはそっち系に寛大な奴しかいないの!?」
顔も上げずに素っ気なく答えるストーカー女子。そこは止めて欲しい。
目の前で男同士がそういうことをやっていて平気なのか、オレは平気じゃない。見るのも当事者になるのも。
「ま、待って、ちょっと落ち着きませんか」
「よし、どっちが先に行くかじゃんけんで決めようぜ」
「ああそうしよう」
「じゃんけんって子供か!」
オレのツッコミスキルもここ数日で大分上がった気がする。いや、それどころじゃ無いけど。
真剣な顔でじゃんけんに臨んでいた二人がくるりとこちらを振り返った。
「え、何。三人がいいってこと?」
「大胆だなあ」
「い、言ってねえぇええ!」
オレの叫びは当然聞き入れられることもなく。男の一人がオレの体を壁に強く押し付けた。
「…っ」
手首を握られて身動きが取れない。
「じゃあまずは俺からってことで」
「しゃあねえなあ」
「や、…ひっ」
ジャージの首元がぺらりとめくられた。かと思うと男の顔が近付いてくる。軽く肌に噛み付かれて、そのあとべろりと舐められた。
「やめろ、気持ちわりい…!」
「そのうちよくなるって」
「そ、そんなわけがあるか!」
じたばたと暴れても全く効果がない。更に力を込めて押さえつけられるだけだ。
男が顔を上げて、今度は耳に歯が触れた。
「っ」
じわりと視界が滲んだ。悪寒と恐怖で体の震えが止まらない。
「だっ、誰か、助け…!」
「こんなところ、誰も来ねえって」
ばっさりと希望を断つように言われて、両目から涙がぼろぼろと落ちた。
「ありゃ、泣いちゃったじゃん」
「はは、かわい」
「し、死ね…!」
耳の中に水の音。そんなところを舐めて何が楽しいんだ。
いつの間にか息が上がっていた。落ちる涙も拭えないで、ただされるがままになっているだけで。
本当に死んでくれ、と心の内で呟く。
男がオレの耳から顔を離した。にやりと嫌な感じに笑う。
これ以上は本当に洒落にならない。だけど、逃げられもしない。
―ああ、もういっそのこと死んでしまいたい。
左の手首がずくりと痛んだ。握り締められているからじゃなくて、癒えたはずの傷が、突き刺さるように痛い。
近付いてくる顔を諦めたように冷めた目で見つめた瞬間。
「何してるんすか」
聞き覚えのある声が、割り込んできた。
※続きます。