海というと、どことなく陰鬱なイメージを持ち始めたのは何時の頃からであったろうか。大事な、大事な人の死を目の当たりにした日からであろうか。仲間達の墓が、地面に沢山刺さるようになった日からであろうか。いつも隣にいた人が、遥か彼方の空にまで行った日からであろうか。全て正しいような気がする。とにかく俺はいつからか、海に暗いイメージを持つようになったのだった。
そして何故か、そんな海を、今俺は防波堤から眺めている。


何故ここまで来たのかは、全然記憶がなかった。家に誰もおらず(眼鏡は休みであり大食い娘は近所にお出かけである)、暇だから何処かに行こうと何気ない思い付きでスクーターを走らせたところまでは覚えている。まだ夏になりきらない季節とはいえ、陽射しが強く汗が滲む。もしかしたら涼をとりたくて、俺は海に行ったのかもしれない。しかし良い思い出のあまり思い付かない海になぞ、いくら暑いとはいえ向かわないであろうとも思い始めた。何か無意識のうちに突き動かされるものがあったのかもしれない。過去が何処か頭の隅にでも過ぎったのかもしれない。

そこの海は、青と灰色が混ざったような色をしていた。あまり綺麗な海ではなかった。サーフィンをする人や船で釣りや漁をする人がまばらに存在している。天人の姿は、珍しく見えなかった。
俺は防波堤に座り、波打つ海をただ眺めていた。何もせず、ただ、青い空と青と灰色の海の境界線を眺めていた。それは驚く程幻想的で、美しい光景であった。何だかもう現実には戻れない気がして、俺は怖くなった。
海は広い。そして思わぬところに自然というものの美を魅せられる。それが、海が嫌いな理由の一つである。あまりの広さに、美しさに、もう現実には戻れない気がして、海を見ると何だかどうしようもない喪失感、恐怖感に襲われる。若い頃、よく感じていたことであった。何時のことだったろうか。

突如、昔の記憶が蘇ってきた。あまり思い出したくない過去である。しかし、溢れるようにして蘇る記憶は、もうとどまる術を知らなかった。あの日の光景がフラッシュバックして、俺を襲った。


その日は暑い、夏の日であった。蝉の音が煩わしく、戦場に出る前うるさいうるさいと文句を言う俺を、幼馴染みの長髪男はまるで母のように叱った。毛玉男はそれを豪快に笑って、片目包帯男(その当時は片目に包帯を巻いてはいなかったが)は俺をからかった。平和、とは一番遠い場所にいながらにして、平和、という言葉以外に形容のし難い朝であった。

敵の襲来は夕刻からであった。今日は来ないだろうと予測する日であったから、皆予想だにせぬ襲来であった。急いで俺達は指揮をとり、戦場に出た。走っている途中、俺は死んだ蝉を踏んだような感触がしたが、今の自分にはそんなことを気にしている余裕はなかった。

結局、その戦いで俺達の仲間から沢山の死傷者が出た。さっきまで笑い声が聞こえてきた仲間も、さっきまで一緒に笑い合った仲間も、呆気なく宇宙からの得体の知れない生き物に刺されてしまった。嗚呼、俺はそういうところにいるのだ。仲間達の墓を立てながら、俺は思った。

そういえば戦争中、あんなに煩かった蝉の鳴き声が聞こえなかったな。
誰からかの声がして、俺は後ろを振り向いた。もとより振り向かなくとも、あまりに馴れ親しんだその声は誰だかを判断するに十分であった。振り向くと案の定、全身を返り血で染めた、幼馴染みの姿があった。
仲間達の鳴き声の方が、煩くていけねぇな。俺は返事をした。今も蝉の声は聞こえない。綺麗な星空と蒸し暑さだけがそこには存在していた。彼は額を拭った。いつもは月明かりに照らされて艶やかに輝く彼の紫の髪も、今や乾いた血の赤茶色い色しか見えなかった。

突然彼は墓を立て終わった俺の手を引いた。ちょっと付いてこい。そういう彼にただ、されるがままに付いていった。

そこは、海であった。暗く、何もかも吸い込んでしまいそうな、恐ろしい闇であった。今日感じた喪失感の全てを再現したかのような、ただ恐ろしい闇であった。
何でこんな場所、聞こうとして俺は止めた。彼が見ずからの血のこびりついた着物を洗い始めたからである。しかし、川の方が良かったのではなかろうか。そもそもその血は取れるのだろうか。頼りない、灯台の光だけが暗く深い海を照らす。彼の顔は、終始見えなかった。
何でいきなり海で洗濯なんか、って思ってんだろ。彼に俺の心を読まれて、俺は焦った。流石腐れ縁なだけはあるな。俺は苦笑した。

彼は、俺を気遣ってここに来てくれたようであった。あんな場所に何時までもいちゃあ、辛気臭くなると。しかし自分の為でもあるとも言った。たまに、この大きな海に行きたくなるんだと。俺は返り血を洗う彼の横顔を見つめた。頬にこびりついていた血を、手に付けた海水で拭ってやった。いつか泥だらけになって帰ってきた俺達に、先生がよくすることであった。

その時、俺は泣きそうになった。幸せな過去、凄惨な今。基地に戻っても、傷ついた仲間達と沢山の墓しかない。そして、何よりも温度を感じさせない彼の頬の冷たさが、なんとも悲しい気分にさせた。彼は生きているのであろうか。数年後も、数十年後も、俺の隣にこうして存在しているのであろうか。

涙をこいつに見られてたまるか。それに、今最も泣きたいのは彼の方だろう。俺は涙が溢れそうになる自分の顔に、水を思いっきり掛けた。しかし、涙はそう簡単に止まらない。口に入って感じる塩気は、海のものだか自分のものだか、それすらもうわからなくなってしまった。
俺はもう一度、彼の頬に触れてみた。やはり冷たかった。そして何やら冷たい滴が、俺の指を濡らしていることに気付いた。彼もまた、泣いていたのだ。
俺は両の手で彼の頬を包んで、彼の涙を拭った。彼は何もせず、ただ静かに涙を流していた。彼の頬を何とか温めようとしてみたが、俺の手も冷たかったので、それは無理なことであった。
彼もまた、俺の頬に付いた返り血を少し拭って、そして立ち上がった。帰るぞ、と。俺達が今いる場所へ。現実へ。俺も立ち上がった。やはり今にも喪失が襲ってきそうな闇である。俺は改めて恐ろしくなった。彼を闇で包んで、そしていつかは消えてしまうんではないかと、そんな恐怖を感じた。まだ十代だった俺にとって、あまりにも悲しい夜であった。


波が防波堤に打ち付ける音が聞こえて、俺ははっ、となった。いつの間に記憶に呑まれてしまっていたのか。勿論、隣に彼はいない。基地もない。彼も俺も、死ぬことはなかった。彼はまだ、生きている。遠い彼方に。

やはり海に来ると、悲しい気持ちが俺の心を満たす。彼とのどうしようもない距離を、埋めようのない距離を、思い出してしまった。人を失う悲しみも同様である。喪失感に襲われる海。やはり来るべきでなかったのだろうか。

俺は何年かぶりに、静かに涙を流した。彼や戦争のことの他に、身近な人を護れなかったこと、大事な人を失ったこと、仲間達の涙、苦難。沢山の悲しみを思い出して、そして洗い流した。堪えてきた感情や想いが、全て海に還って、浄化されていく気分であった。何だか俺は、生まれ変わってでもいるようであった。

たまには海というのも、いいのかもしれない。海は喪失の場である。同時に、再生の場でもあるのであろうか。何も得るものはない。彼の頬にもう一度触れることも出来ないし、仲間達と笑い合えることもない。泥だらけになった頬を拭ってくれる師が蘇ることもない。しかし、それでいい。それを大事に心の中にしまって歩き出すことこそが、俺の再生なのだ。


俺は防波堤から降りた。そして足が埋まってしまいそうな不安定な砂場を一歩、一歩と進む。もうすぐ日暮れ頃である。俺も今ある現実へと帰っていくのである。大事なものの待つ、現在へ。









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -