「なあ葉月」
「なに?」
「シャンプー変えた?」


恋の匂い


その言葉に黙々と宿題を片付けていた葉月が漸く顔をあげた。
授業の合間の休み時間にも関わらず、葉月の前に広げられた教科書とノートにはいくつも訳の分からない数式が羅列してあり、それだけでうんざりしそうだった。
「別に変えてないけど?」
そう言うと葉月は自分の短い前髪を指先で摘まんでみせた。
葉月と弥生は小学校から高校に上がった今に至るまでの付き合いだが、初めて会った時からずっと葉月は髪も瞳も澄んだ黒い色をしていた。
生まれつき色素の薄い弥生にはそれが羨ましく思った時期もあったが、昨今の染髪ブームで今は特に気にしていない。
「ふうん」
更に葉月は弥生より頭ひとつ半程背が高く、向かい合うと視線の高さが少し違った。なんとなく見下ろされているような気がして、弥生はさりげなく視線を逸らした。
「じゃあ、香水は?」
「別に付けてないって。どうしたんだよ急に?」
そう言って葉月は笑ったが、その拍子に小さく揺れる髪からはやはりいつもと違う匂いがした。
それからも時折葉月から今まで嗅いだことのない匂いがして、それに気付く度に弥生の心は酷くざわつくのだった。

「それってさあ……」
体育の授業中、神那月(カナヅキ)は弥生のその話を聞くと暫く考え込んでから、やや怪訝そうな顔をした。
「え、なに?」
弥生はその浮かない表情にどきりとする。何かまずいことでも言っただろうか。
神那月はその慌てた様子に気付いたのか更に眉をひそめると、今度は呆れたように軽く息を吐いた。
「もしかして、気付いてない?」
「何を?」
「なら言わない」
「何だよそれ……」
高校から知り合ったこの友人はかなりドライな性格の持ち主だが、その性格でも嫌味を感じさせない端正な顔立ちが彼の強みであった。
「とにかくまずは自分で考えてみたら?」
神那月は素っ気なく言うと何やらひとり納得したように頷いた。
「……ありがとな」
話す相手を間違えた気がしなくもないと弥生は苦笑いを浮かべて礼を言った。
「頑張れよ」
小さな声で神那月は呟いたが、その呟きは授業へと戻ってしまった弥生の耳に入ることはなかった。

「──よい……弥生!」
ふわりと優しい匂いがした。
「え?」
その先を向くと、不思議そうな顔をする葉月と目が合った。真っ黒な葉月の瞳に驚いた自分がはっきりと見えて同時にかっと頬が熱くなった。
葉月の顔を見るだけでどういう訳か胸の辺りがくすぐったくて落ち着かない。
「どうかした?顔赤いよ?」
その様子に気付いた葉月は不安そうに眉をひそめながら尋ねた。
「いや、別に……」
神那月に言われた通りにしてみたのだが些か考え過ぎたのだろうか。
体育の授業後からの記憶は曖昧で、いつ放課後になったのか気が付くと辺りは見慣れた通学路だった。
「本当に?」
葉月は大きな身体で心配そうに弥生を見た。赤くなっていく頬を気付かれたくないと思いながらも、顔を逸らすことは出来ない。
「本当だって──」

言いかけたその時、匂いがふわりと弥生に重なった。
葉月は身長差のお陰か、ごく自然に自分の額を弥生のそれに合わせていた。
本人は熱を測っているつもりなのだろうが、弥生の心臓は飛び跳ねる。
けれど痛いくらいの高鳴りも気にならない程、葉月の匂いは弥生を包み込んだ。くらくらとどうにかなってしまいそうな程甘く、愛しい匂い。
弥生は、自分はもうずっと前からこの匂いを知っていた気がすると思った。ただ、気付かないフリをしていただけだったのかもしれない。

「ほんとだ」
ほんの数秒の後、弥生から離れた葉月は安心したように微笑んだ。
「ああ……」
最早返事をするのも苦しかった。
もっとこの匂いを感じていたい。あわよくば自分だけのものにしたい。
切実にそう願っていながら、その気持ちとは裏腹に急激に身体の熱は冷めていく。それは、とうとう認めてしまった罪悪感なのか。弥生は俯いて唇をきゅっと噛む。

「弥生」
そんな風に俯いてしまった弥生の頭上から、何も知らない葉月の優しい声がした。そんな風に呼ばれる資格なんてもうないのだ。弥生の眼にはじわりと涙が溜まる。
「葉月……俺、」
「あのさ、気付いたんだけど……」
「え?」
そう言うやいなや葉月は俯く弥生の頭に顔を埋めた。
「は、づき……?」
すぐに離れたものの、思わぬその出来事に弥生はしどろもどろになる。
「やっぱり、うん」
おろおろと慌てる弥生とは正反対に、葉月はにっこり笑った。

「弥生こそシャンプー変えただろう?」










*帰り道に「好きな人っていい匂いしない?」という話をしていた方々がいました。ありがとうございます。
初めて創作の子達に名前が付いた。
100506


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -