自虐願望

控え室に一人残っていた黒裂の目に浮かんでいた色が、憎しみでも怒りでもなくて、憐れみだった事に、俺は激しく苛立を覚えた。
 憎しみや、怒りなら、まだ俺は受けるべきだと自分で納得出来る。もし、いきなりぶん殴られたとしても、それは仕方ないと受け止められたと思う。ただ、哀れみは違う。俺は,やりたい様にやったのだ。その結果に憐れみの視線を向けられるのはどうしても許せない物が有る。
「何が言いたい!」
 気がつくと、俺は奴の胸倉を強く掴んでいた。それでも、奴の表情は変わらなくて、恐れを覚えて脅える様でも無くて、怒って殴り返してくる様な感じでもなくて、ただひたすら、憐れみの視線を俺に向けて淡々と向けてくるだけだった。
「別に、何も言いたいとは思っていませんよ」
 皮肉る様な口調で奴は言った。その口元には薄く笑みが浮かんでいる。
「貴方たちに交代を許したのも僕の力不足だと思っていますし、負けてしまったのも仕方ないと思っていますから−−」
 片方の手が、奴の頬を殴っていた。鈍い音が控え室に響く。殴られた際に奴の口の中は切れたらしくて、口元からは薄く血が流れていた。
「……」
 沈黙が流れた。多分、それは時間にしてみれば二分にも満たない短い物だったのだと思う。だが、それは俺には、何時間にも及ぶ様に感じられた。
「やっぱり」
 そんなとき、不意にそんな声がした。誰が言ったかは分かっている。俺が言っていないとしたら、今此処で俺に聞こえる様に言葉を発せるのは目の前に居る黒裂しか居ないのだ。
「いや、貴方はやっぱり、僕の思った通りの人だと思って」
 そうして、奴は俺を見下す様な顔をした。もちろん、その当人を前にして見下すなんて感情を表層に出したりはしなかったが、十分に見透かせる程、それを隠す感情は薄かった。
「どういう意味だ」
 俺は奴に尋ねた。けれど、奴はそれに答える様な様子は全くなくて、俺はそのことに、ますます腹が立った。
「どういうことだ!」
 胸倉を掴んだまま、俺は奴をロッカーに押し当てた。奴は、それに一瞬辛そうな表情をしたが、すぐにそれは元の、俺を見下す様な表情に戻って−−それに、さらにむかついて、俺は奴を、また、ロッカーに押し付けて−−そんな事が、多分二十回以上続いたと思う。そうなると、さすがに俺も力尽きていて、俺は、奴の胸元から手を話した。
「やっぱりだ。やっぱり、君は弱い人間だよ」
 不意に、奴の口からその言葉が漏れた。
「どういう、意味だ!」 
「心理的な意味だけどね。君は弱いよ。多分、僕よりも遥かに脆弱で儚い」
「そんな筈は、無い!」
「じゃあ、聞かせてくれよ、君は自分の意志で何かをやり遂げようと思った事は有るのかい? 自分で、何かしらの理想を見つけた事は有るかい? 無いだろう? だって、君のそれは、全て−−」
「黙れ!」
 また、俺の拳が奴の頬を打った。その音は、やはり虚しく反響する。
「俺は、ちゃんと理想を持っていた! それをやりとげようと努力した! それで負けたんだ! だから、そんな目を俺に向けるな!」
 奴に向かって、俺は思わず叫んでいた。
「ほらね」
 でも奴は、それさえも予想通りだという様に、俺にまた、憐れみの視線を向ける。
「君は、結局父親に依存していただけなのさ。その理想を自分の理想だと掲げて、それに依存して、自分から考える事の一切を逃避したんだ。ほらね、やっぱり君は弱いじゃないか」
 また手が出た。なんでこんな奴を殴っているんだと思ったが、思わず出た。
「そして手が出る。それが一番の証拠だよ。弱いって自分で知っているから、そこを探られる前に人を黙らせようとするんだ−−」
「うるせえ!」
 また、俺は奴を殴った。それでも、奴の舐めきった表情は変わらなくて、また、殴った。
 其処からは単純だった。もう、奴が何も言わなくなるまでひたすら奴を殴り続けた。
 我を忘れて、殴り続けた。そして三十分くらいして、ぼろぼろになった奴を見た。
 恐くなって、俺は逃げた。そして、そんな事をした、そんな事でしか抵抗出来なかった、自分を、猛烈に嫌悪した。

 *
 
 やっぱり、彼にも人間的な理性はあった様で、意識は朦朧としながらも、何とか立つ事は可能なレベルで落ち着いた。
「本当、馬鹿みたいな力してるよなあ……」
 五回以上殴られた様な所には、もう感覚はない。多分折れた所は無いだろうけど、内出血している所程度ならいくらでも有るだろう。口の中は、全面鉄の味で満たされていた。歯が折れていないだけ幸いと言った所だろうか。 
 全身の節々がずきずきと痛む。正直言って、相当に辛い。だが、不思議と嫌悪感は無い。多分、彼が自分の思った通りに動いたからだろう。覚悟して、それ通りに動いたら良いと思った様に彼が動いた。だから、きっと嫌悪感は感じていないのだろう。
 そして多分、自分はきっとこれを望んだんだろうとも思った。誰かに否定されたかったんではないか、誰かに痛めつけられたかったんではないのか、誰かに恨まれたいのではないか−−何だ、結局、僕も彼と一緒じゃないか。
 自嘲気味に、口から笑みがこぼれた。
 とりあえず、さすがにこの傷は治療しなくては。歩く事さえおぼつかない。命に別状は無いだろうけど、放っておいてはやばいだろう。いっそ死ねれば諦めるけど、多分、この傷は死ねる程重くはない。
 僕は、近くの自分のロッカーから、携帯電話を取り出した。そして、百十九番をコールする。
 電話対応の女性の、良く響く声が耳を打つ。それに僕は、場所と、自分の容態を告げた、相手の顔は、見ていないと告げた。
 そうして、電話を切った。やることを追えた右腕からゆっくりと力が抜ける。僕は、ふらふらな体をロッカーに立てかけた。
 不意に、溜め息が僕の口をついて出た。理由は知っている。嫌悪だ。こんな事をした、こんな事でしか勝つ事の出来なかった自分に対する自己嫌悪。
「それ以外に無いだろう?」
 そう虚空へと呟いて、僕はゆっくりと目を閉じた。救急車が来るまで、まだ時間は有るだろう。
 だから、祈ろう。たとえそれが叶わないと分かっていたとして。こんな下らない僕が、目を閉じている間に奇麗さっぱりと消えてしまいます様に、と。


モドル


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