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花になるための呪文


目を覚ましたときから小さな違和感はあった。
夫は昨夜から遠征で家をあけている。だからといって出社時間は待ってくれないので、倦怠感をごまかしてそろりとベットを抜け出す。起き上がってしまえば、自然と毎朝のルーティンをなぞれるもので、着替えて化粧を施せばすっかり出勤モードに切り替わった。

キッチンから炊飯器の機械音が聞こえ、ご飯が炊き上がったことを知らせてくれる。ひと昔前までは朝は抜いても平気だったけれど、佐久早と暮らし始めてから朝食の重要性をこんこんと説かれるので、今では朝食べないと昼までもたない身体になってしまった。
しゃもじを片手に炊飯器を開いて炊きたてのお米の香りをいっぱいに吸い込んだ瞬間、強烈な吐気に襲われてトイレに駆け込んだ。



***



「8週目だって」

1週間の関東遠征から帰宅すると、玄関で出迎えてくれたなまえがそう言ってはにかんだ。
妻から妊娠報告を受けたときはどう反応すべきか。こういう時に自然と愛と歓喜の言葉をささやけるような甘さを佐久早は生憎持ち合わせてはいなかった。
それでもやはりじわじわと喜びが込み上げてきて、なまえを包み込むように肩口に顔を埋めた。
「本当に俺の子だろうな?」という分かりにくい照れ隠しを添えて。
聞く人によっては冗談では済ませられないような軽口の意を汲み取って、なまえはくすくすと笑った。

「さあ?生まれてみたら若利くん似の子だったりして」

これはちょっとした意趣返しのつもりだったのだけど、旦那さまには効果的面だったようでむっつりと押し黙って後、拗ねるように口を尖らせた。

「ダメ。若利くんでも許せない」
「じゃあそんなこと言わないで。聖臣だって分かってるでしょ」

正直めちゃくちゃ身に覚えはある。新しい命を授かりたい、そう夫婦で決めてからはもちろん避妊具なしでそういう行為をした。そりゃ、中で出せば孕む可能性はあるわけで……理屈は分かる。でも理解は追いつかない。
もともと不順気味の彼女の生理が遅れることは珍しくなかったし、別段いつもと変わった様子はなかった。……でもこいつ、体調悪くても黙ってることあるからな。全然信用できない。そんなことを考えながら、なまえのまだ薄い腹を服の上から撫でる。
この中に新しい生命が宿っているなどとは到底信じられない。

「くすぐったいよ」

そう言いながらなまえが佐久早のに抱きついて胸元にぐりぐりと額を押し付けてくる。いつもなら帰宅してシャワーを浴びるまでは、触るのも触られるのも許さない佐久早がされるがままだ。彼女は日本女性の平均身長よりは多少高いけれど、佐久早とは30センチの身長差がある。自分よりはるかに小さく、か弱い、庇護すべき生き物。それが1人から2人に増える。

「悪かった。……驚いたけど、嬉しいよ」

胸の中でなまえがまた笑う気配がした。

「男の子と女の子、どっちがいい?」
「どっちでも」

いい、と口に出してしまってから、これは失言だったかなと思う。自分はいつも言葉が足らないのだ、従兄弟にさんざん窘められても、痛い目をみても気質というものはそう簡単に改められるものではないようだ。

「わたしもどっちでもいいと思ってた。聖臣はどっちでも大事にしてくれるでしょ?」

まるで心を見透かしたような妻の言葉に、一瞬固まってしまう。でもそうなのだ、本当にどちらでも構わない。無事に生まれてきてくれさえすれば。強いて言うなら見た目も中身もなまえに似ればいいと思っている。「……努力する」と答えると、なまえはまた少し笑った。

「聖臣に似るといいなぁ」

絶対かわいいから。心底、そう思っているという口振りで彼女が言うので「自分はなまえに似ている方がいい」と伝えるのはやめておいた。

ずっと玄関で話しているわけにも行かず、ひとまずリビングに移動すると、ローテーブルの三角型のカレンダーが目に入った。
今が夏の盛りということは、生まれるのは春か。順調に行けば、自分と同じ早生まれだな。と思う。

「順調に行けば、パパと一緒の早生まれだね」

なまえが佐久早の思考を読んだように発言するのは今日2回目だ。

「……そうだな」

軽く応じながら口下手なパートナーを持つともう一方は心が読めるようになるのかもしれないと佐久早にしては珍しく、非論理的なことを考えた。
なまえがまたそんなくすくすと笑い出し、今日の彼女は本当によく笑うと思ったところで、妻の手がそっと自分の頬に添えられた。

「聖臣気付いてる?さっきからにやけてるの」

佐久早は一瞬何を言わているのか分からずきょとんとしたけれど、おずおずと自分の顔に手を当てて「表情筋が死んでいる」「負の感情表現は豊か」と言われる自分の口角が上がっていることに気づいた。

なんだ、俺もか。
そう思ってこの男にしては本当に珍しく、フッと声を出して笑うのをみて、なまえがつられてまた笑った。彼女は佐久早の笑った顔が何より好きだ。

2人の笑い声に包まれて、幸福な夜は更けていく。




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