小説 | ナノ



愛の魔物をてなづけたい


「聖臣ほら、お風呂入らないと」

おにぎり宮の店内で治に名前を呼ばれ、恐る恐る出ていったなまえの腕を佐久早は逃さんとばかりに離さなかったのだが、その状態は帰宅してからも続いていた。

自らの口で潔白を証明した恋人に、「帰って来てほしい」と懇願されて、なまえには断る理由がなかった。

自由に動けないなまえの代わりに、莉子が二階から運んできてくれたスーツケースとともにタクシーに乗り込み、車内でも強く握られたままの腕に「聖臣、ちょっと痛いよ」と告げてみるが力が弱まる気配はない。

やっとのことでマンションの部屋の鍵を開け、腕が解放されたと思いきや、今度は後ろからホールドされる形になり、今に至る。
散々飲み歩いた後に、浴室に直行しない佐久早を見るなど、一緒に暮らし始めてから初めてのことだ。


「聖臣……?」
「……風呂入ってる間にまた出ていく気だろ」
「もうそんなことしないから」
「信用出来ない」


お前はすぐに嘘を吐くから、と言われてなまえは二の句が継げなくなってしまう。

とりあえずソファーまで誘導すると、肩口に巻き付いている腕を優しく叩く。


「顔みせて」
「………………嫌だ」
「ほら、座って。わたし立ってるの疲れちゃった」


190センチの大男を力ずくでどうこうすることは出来ないので、彼の意思をソファーに向けるしかない。
なんとかソファーの真ん前に辿り着くと、観念したように佐久早が腰を下ろし、やはり名前を後ろから抱き込むようにして自分の膝の上に座らせた。


「顔、見せてくれないの?」

出来るだけ優しい声でそう言うと、背後からスンと鼻をすする音がした。
驚いて首だけで後ろを仰ぎみると、目の周りをべしょべしょに濡らした佐久早が「見んじゃねぇ」と不機嫌な声を出した。

「聖臣、ごめんね」

がっちりホールドされた腕から抜け出そうと少し強めに身体をよじったが、今度は抵抗されなかった。膝の間に割り込むように向かい合った形をとると、そっと濡れた目元を指で拭う。


「なんで謝る」


目元を濡らした佐久早はどこか幼い。
彼がこんな風に泣くところを、初めてみた。
自分が佐久早をこんなに追い詰めてしまったという事実が、なまえはショックだった。


「急にいなくなってごめんね」
「………俺のせいだろ」
「でも、何にも聞かなかったのはわたしのせい」
「お前、もしかして携帯みたの」
「白井さんから連絡来てたのは知ってたよ」


聖臣がお風呂に入ってる間に通知見ちゃって、と言い訳のように付け加える。


「なんでそのとき聞かない?」
「だって、」


心の底から恐かった。
これまで佐久早と過ごしてきた歳月を否定されるのは。とても耐えられないと思った。
終わりだと彼の口から告げられるくらいなら、自分から逃げ出した方がまだマシだと思ったのだ。
いらないと言われるくらいなら自分から手放してしまおうとさえ思った。
泣き濡れた彼の顔を見ている今にして思うと、なんて身勝手な、と思う。
自分がもし逆の立場だったらと考えるだけで身の毛がよだつ。


「本当にごめんね」
「違う、別に謝ってほしいわけじゃない」
「うん。えーと、自信がなかった、ので…」

わたしの方が浮気相手だったんだ…って、思っちゃいました。
正直に告げれば、佐久早は雷に撃たれたように目を見開いてからガックリと肩を落とした。


「……なまえ、そんなこと思いながら俺に抱かれてたの」
「………………」
「俺のこと優しいって言ってたけど、内心人でなしだと思ってたんだ」
「……ちが、けど」


思わず鼻声になると、佐久早があわてたようになまえの後頭部を抱いて自身の胸に押し付ける。


「あー違う、なまえを責めてるわけじゃない、自分に苛立ってるだけ」


鼻腔に佐久早の匂いがいっぱいに広がった。
潔癖な彼は、柔軟剤もあまり強い香りのものを好まない。清潔なせっけんと、微かな体臭と、居酒屋の香り。
そこではっとした。帰ってきてからお互いにシャワーも浴びていなければ、服も着替えていない。普段の彼なら飲み会後はバスルーム直行だ。居酒屋独特のタバコや食べ物の匂いが染み付いた服を佐久早は親の仇と思っていると言っても過言ではない。


「聖臣、大すき。ずっと一緒にいたい」


なんとか彼の胸から顔を上げてそれだけ言う。
佐久早はもう泣いてはいなかったけれど、キョトンと大きく見開かれた目が充血している。


「………それだけでいいのかよ」


そのまま唇を寄せてくる佐久早になまえは思わず、自分の口を手で覆った。


「………ダメ。お風呂入ってないし、歯も磨きてない」
チューなんてしたら、聖臣死んじゃう。

信じられない生き物を見るように眉間にシワを寄せた佐久早が、諦めたように溜息を吐いた後、とんでもない事を口にした。


「一緒に入るからな」
「……もうどこも行かないよ」
「ダメ。誕生日のお願い」
「…………………」


恋人が散々渋っても、最後には一緒に湯船に浸かることを了承するだろうと、佐久早はもう分かっている。



***



寝室に差し込む朝の光が眩しくて、なまえはゆっくりと重たい目をあける。

190センチの巨体に後ろからバックハグされた状態で眠っていたらしく、抜け出そうと試みるがピクリとも動かなかった。
おまけに遅れて知覚した鈍い腰の痛みが、昨夜の情事を思い起こさせる。

佐久早は一緒に入浴すると必ずなまえの身体を洗いたがる。
死にたくなるほどのひどい羞恥心に晒されるので、彼女もめったにそれを許さないが、昨日はことさら丁寧に暴かれた。

文字通り暴かれる、だ。

なまえの身体を泡立てたボディーソープで覆いながら、この青アザはどうしただの、背中にひとつニキビができているだの、足の付け根の際どいところに黒子があるだの、全身をくまなくチェックしては、それを逐一報告された。

もちろんそれだけで済むはずがなく、その後ベッドで散々鳴かされる羽目になったのだけれど。

佐久早は見るからに、そして真実ベットの中で甘い言葉を囁くタイプの人間ではないが、「なまえは口で言わないと分からないから」と、昨日は「すきだ」「かわいい」「どこにも行かないで」を繰り返し耳元で囁かれた。


思い出すだけで顔から火が出るくらい恥ずかしい昨夜の記憶を消し去るように、なまえは自分にお腹に巻き付いている佐久早の手をペチペチ叩いた。起こすのはかわいそうだが、背に腹はかえられない。


「聖臣、出して」


シャワーを浴びたら、昨日ろくに食べていないこの寝坊助さんに治くん直伝の梅干し茶漬けを作ってあげなければ。


「……………どこ行くの」
「シャワー浴びるだけだよ」
「俺も行く」
「すぐあがるからまだ寝てていいよ」
「…………いいけど、お前立てんの?」


確信犯め、と恨めしげに言うと佐久早はふんと鼻で笑った。
それから2人でシャワーを浴びて、2人でキッチンに立った。
遅い朝食をとって、ソファーで肩を寄せ合いながら日曜のワイドショーを見るとはなしに見る。


昨日あまり寝かせてもらえなかったせいか、なまえはそのままうとうとと船を漕ぎ始める。
目覚めたときはソファーに横たえられ、肩からブランケットがかけられていた。時計は午後2時を回ったところだった。


「聖臣……?」


同居人の名前を呼ぶも、彼は出かけてしまったのか室内はしんと静まり返っている。

テレビをつけると、ちょうど午後のワイドショーで週刊誌の芸能誌面が紹介されていた。
嫌な予感がしてチャンネルを回そうとすると、図ったようなタイミングで人気女子アナウンサーとイケメンバレーボール選手熱愛か、の記事が紹介された。


「真偽を確かめるために番組が、テレビ局と所属企業に取材を申し込んだところ、どちらからも"2人は大学時代の友人で現在、交際の事実はありません"との回答をいただいています」
「何でも佐久早選手には、一般人の婚約者がいらっしゃるようですね」
「婚約者を不安にさせたらいかんでしょう。佐久早選手に喝!」


キャスターとゲストのやり取りを、なまえは放心状態で眺める。
婚約……?わたし佐久早と婚約なんてしてた?

あまりに画面に集中していたので、なまえは玄関の扉が開いて恋人が帰ってきたことにも気づかなかった。


「……こんなもの見てんじゃねぇ」

彼はバツが悪そうにリモコンを取り上げ、テレビを消してしまう。


「聖臣、おかえりなさい」

どこ行ってたの?というなまえの問いかけはスルーされて、恋人が名前の前に立つ。


「なまえ?今回のことは俺が悪かった」
「どうしたの改まって」
「心から反省してるし、もう二度とお前を不安にさせるようなことしないって誓うから」


うん、と首を傾げるなまえに佐久早は意を決したように大きく息を吐いてから、恭しくソファーの前に跪く。


「俺と結婚してください」


目の前には、緊張した面持ちの恋人とパカっと開かれた小箱の中から除く、エンゲージリング。


絶句。黒目がちな瞳をまじまじと見返していると、沈黙に耐えかねた佐久早が先に口を開く。


「………おい、なんとか言えよ」
「いや、ビックリしちゃって」
「あ〜〜〜もう!」


ぎゅっと抱きしめられ、佐久早が顔を肩に埋めてくる。


「俺だってもっとちゃんとプロポーズしたかったけど、ぼやぼやしてるとお前また逃げそうだから」
「………信頼がないなぁ。もう逃げるようなことしないんでしょ?」
「そうだけど。で、返事は?」


佐久早は気が長いようで、こういうところはとてもせっかちだ。
いつも通りの秩序と規律を重んじる彼には、刺激や変化、他人の気持ちといった自分の力ではコントロール出来ないものに不安を覚えるのだ。


「キレイなものは、遠くにあるからキレイなんだって」
「は?」


でもわたしには遠くにあるカストルとポルックスより、あなたの額に輝く双子の星の方がすてきに見える。


「………わたしね、聖臣と結婚したい」



まだ少し冷たさを孕んだ春風が窓枠のカーテンを揺らして行く。
そういえば、大阪に春一番が吹いたのは先週のこと。本当の春はこれからだ。


例えばこの完璧な3月の午後を売っても、わたしたちはこれから何度でも、新しい春を迎えるだろう。




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