小説 | ナノ



痛覚はいつからだか鈍い


応接室に着くと、中には広報部の担当者とチームキャプテンの明暗の2人が待っていた。

「単刀直入に聞くと、この記事に書いてあることは真実ですか?」

生真面目そうな担当者が開口一番に言った。
示された記事の内容にざっと目を通すと静かに答える。

「いいえ。でも、一部本当です」
「具体的には?」
「………学生時代に交際していた経験がありますが、今は全く。先週も酔った彼女をホテルまで送っただけです」
「俺があかんかったなぁ。佐久早なら大丈夫やと思うて……すまん」
「明暗さんのせいではないです」

実際本当に彼のせいではない。
飯綱もそうだが、キャプテンという人種は、本当に何もかもを背負ってしまいがちだ。そういうところが不可解で、好ましい要因でもあるのだけれど。


「……大体の事情は分かりました。ブラックジャッカルの公式見解として、この記事の内容に抗議しましょう」
「ご迷惑をおかけします」
「いやいや、これが仕事ですから。それにスキャンダル常連の宮くんは、佐久早くんと違って大体が真実ですからね」

生真面目そうに見えた担当者は、茶目っ気たっぷりに口許を緩めた。

「せやなぁ、佐久早は真面目やし自己管理も徹底しとるからな」
「夕方監督がいらっしゃったら一度話しましょう」

よろしくお願いします、と頭を下げて明暗と佐久早はそろって応接室を後にした。



「臣、彼女にはちゃんと話したんか?」
「いや、まだ……」

メッセージや電話口で話すより、帰ってから直接説明した方がいいと思った。

「余計なお世話かもしれんけど、こういうことは早い方がええで」

俺も昔1回やっててん。カミさんと結婚する前にな。えらい泣かれてな、怒り狂って「顔も見とうない、別れてくれ」言うから、土下座してそのままプロポーズしたんや。まぁ、俺の場合はお前と違ってほんまに手出してもうたからな。………女は想像以上に根に持つで。

いつになく歯切れの悪い主将の声を聞きながら、佐久早は思う。
なまえがそんな風に取り乱す姿はあまり想像できないけれど、確かに「別れる」と泣かれるのは困る。

この時はまだ、甘く考えていた。

既成事実はないのだし、運悪く週刊誌に撮られてしまったがなまえなら、きちんと説明したら解ってくれる。
恋人との仲は良好だったし、佐久早は誤解されやすい自分の性格を踏まえていつもストレートに愛情表現をしているつもりだ。
なまえはそれに応えてくれているし、あんな記事を読んだくらいでまさか本当に自分が浮気しているなんて思わないだろう。
潔癖な自分がパートナー以外の女を抱くなんて、チームのメンバーだって誰も信じていない。それをまさか、なまえが疑うなんてことがあるだろうか。
………しかし相手が悪かったのは認めるので、帰ったら心からの謝罪の言葉を送ろう、きっとなまえは「しょうがないなぁ、今回だけだからね」と言って、結局は自分を許してくれる。

何を隠そう、今日は佐久早の誕生日だ。
生まれた日だからといって特別な思い入れはないけれど、自分のために頑張るなまえをみるのは素直に嬉しい。
普段から自分に甘い恋人が、この日はとびきり甘くなるのを佐久早は知っていた。
普段なら絶対聞き入れてもらえないようなお願いも、叶えてくれようとする。
いつもなら明るいところで身体を見られるなんて絶対に嫌とごねる彼女が、去年は一緒に風呂に入ってくれた。そんなことは普段、正気の時はまずありえない。

浮ついた気持ちを抑えきれず、ひとまず簡単な謝罪と詳細は帰ったらという旨の連絡だけ入れておく。

愛されているという自信が、人を一番残酷にするのだけれど、そのことにはまだ気づかないまま。



***



なまえは商店街のアーケードをスーツケースを引きながら歩いていた。
故郷からは遠く離れたこの大阪の地に、こんなときに頼れる家族や、話を聞いてくれる友人はいない。
昼からこんなにたくさんの人で賑わう街の中心にいて、自分は今、こんなにも心細い。

初年度から志願し続けて、大阪の支社へは3年目の異動でやってきた。それから約2年、やっと馴染んできたと思っていた大阪の街は一瞬にして冷たい顔をした見知らぬ街へと変貌してしまった。

本当にここで頼れる人は佐久早しかいなかったのだな、と思う。

これからどうしよう。……東京へ戻る?
でも週が明けたらまた仕事がある。
ホテル、とりあえず今日はホテルに泊まって……。


「なまえちゃん?」

ショート寸前の頭に、思いもよらない人物の声が突き刺さる。
振り返るとそこには、金髪ではなく黒髪の、ブラックジャッカルの宮侑にとてもよく似た、彼。

「宮……治くん?」
「おん。なんでフルネームやねん」

やれやれと言った風に笑う治の目は、3月の午後のうららかな日差しを受けて優しい色を称えている。
この双子は入れ物はそっくりなのに、中身は全く別物なんだと思う。
侑が常に自転して輝き続ける太陽なら、この人は月だ。同じなのは、どちらも人を強く惹き付けて止まないこと。


「なん、そない大荷物で。出張にでも行くん?」
「……ああ、いや………その」

口ごもるなまえに治は気にした風もなく、両手にぶら下げた袋を軽く持ち上げてみせた。

「俺は買い出し」
「……そっか、お店夜からだっけ?」
「おん、ランチ営業終わったところやねん」
「ランチもやってるんだ」


おにぎり宮には何度か足を運んだ経験があるので、店主の彼とは顔見知りだ。
もちろんなまえの方は高校時代から、宮ツインズの片割れとして治のことを認識していたけれど。

チームの飲み会は、大体二次会でおにぎり宮に流れ込むことが多く、はっきり言葉にしたことはないが佐久早はここの梅茶漬けが大のお気に入りなのだ。たまの外食で店を訪れたこともあるし、酔いつぶれた佐久早を迎えに行ったこともある。
侑とは犬猿の仲なのに、治とは割とウマが合うようで、なまえはこれをDNAの神秘だと思っている。


「なまえちゃん、明太子すき?」
「……うん?すきだけど」
「いいのが入ったんや。食べていかん?」

その時初めて、なまえは自分の空腹を自覚した。
そういえば、朝から何も食べていない。


「どこへ行くんか知らんけど、まずは腹ごしらえせんと。人間腹が減ると碌なこと考えられへんからな」

その言葉を聞いて、ああこの人は今朝の報道を知っているんだなと思った。
知っていて、知らないふりをしてくれるのか。

さんざん迷った末に「侑くんには……」と小声で聞くと「言わんよ、分かっとる」という回答が降ってきたので、お言葉に甘えてお邪魔することにした。
誰かと並んで歩く大阪の街は、よそ者のなまえにちょっとだけ優しくなった気がした。



***



「ただいま」
「お邪魔します」
「なまえさん!……と、店長」
「俺はついでかい」

暖簾をくぐると、アルバイトの女子大生が顔を出した。

「莉子ちゃん、久しぶり」

女子大の栄養学科に通う彼女は栄養士の資格を取得して、4月からおにぎり宮で正式に働くことになっている。
なんでも、屋台の治に一目惚れして押しかけ女房状態なのだと、以前侑から聞いたことがある。何度も断っていた治もついに熱意に根負けして、半年前から彼女はこの店のアルバイトとして働き始め、今では看板娘だ。
金髪ショートで目がぱっちりした美人なのに、飲食店の店員らしく爪は短く切りそろえられている。

「俺、ほんまは大人しい女の子が好みなんやけどなぁ」

いつだか治が冗談とも本気ともつかない口調でボヤいていたことがあったが、彼女の派手だけど清潔感のある出で立ちは、銀髪だった頃の治と今の店主を連想させて、なまえをくすぐったい気持ちにさせる。


「そこで会うてん。なまえちゃんに明太子食わしたろ思って」
「ええですね」


ほどなく出てきたホカホカのおにぎりを、カウンターの端っこに座り、ひと口かじる。

食べることは生きることだなぁ、なまえはしみじみと思う。
こんなに悲しい気分のときでも、本当に美味しいものというのは味がわかるものなのだなと。

「美味しい……」
「せやろ」

ふふん、というようにカウンター越しに治が笑った。


「で、なまえちゃんは家出かい」
「……………」
「佐久早とは話したん?」
「…………まだ、だけど」
「ほうか」
「もう話すことも、ないと思って……」


尻つぼみになっていく自身の声を聞きながら、我ながら情けないと思った。
2人の、いや世間の目が恐い。わたしは今、一方的に関係を経って彼から逃げ出そうとしているのではないか。

「当たり前ですよ〜〜!なまえさん、帰ってやることないですからね」

シジミの味噌汁をなまえの前に出しながら、莉子があっけらかんと言い放った。

「記事に書いてあることが本当かもわからんしね?なまえさん」
「でも………」
「大丈夫、許すか許さないかなんて佐久早さんが帰ってきてくれ言うて土下座してきたら考えてやればいいんです」
「なんや、女は逞しいなぁ」

2人の言葉に少し笑って、湯気の出る味噌汁を口に含むと、あたたかいものに触れて涙が出てきた。
でも、でも………、佐久早は追いかけてきてくれないかもしれない。
別れ話もせず厄介者がいなくなって清々したと、そう思うかもしれない。

「っごめ……なさ」
「大丈夫大丈夫、ええんよ、なまえさん」

莉子が優しく背中をさすってくれる。

「いきなりあんな記事出て、ビックリしてしまうよね」
「……きょ、今日、佐久早の…誕生日なの」

しゃくりあげながら言うと莉子がまた「ほうなんですか、祝ってあげれんくて残念ですね」と優しく言うものだから、また涙が出た。

大人になったら、涙なんて出ないのだと思っていた。今は2人の優しさが嬉しくて、とても痛い。


「災難な誕生日やなぁ、臣くん」

治が頭上でポツリと呟くのが聞こえた。



***



佐久早は家路を急いでいた。
結局、練習後に監督を交えて打ち合わせをしたせいで遅くなってしまった。

何か彼女に手土産をと思ったが、今日は自分の誕生日。
ケーキが用意されているだろうしと思って、駅前で花を買った。こんなもので許してもらえるとは思っていなかったが、ないよりはマシだろう。

今から帰る≠ニ連絡を入れるが、今朝送ったメッセージには既読が付いていなかった。

相当怒ってるな。………いや、ただ準備に気を取られて見ていないだけかも。

マンションに着いて鍵を開けると、家の灯りはついていなかった。


「………なまえ?」


さすがに不信感を覚えて、リビングの灯りをつけるが、ガランとした室内は静まり返っている。

具合でも悪くて寝ているのだろうかの思い、寝室をみるもベットはもぬけの殻だった。


首をかしげながらリビングに戻ってみると、ふと目に入った。
ダイニングテーブルの上に置き手紙と、おそらく自分への誕生日プレゼントと、指輪ーー。

佐久早は早生まれなので、指輪は昨秋の彼女の誕生日に送ったものだった。
本当は左手の薬指に送っても良かったのだけれど、職場で直属の後輩が出来たと喜んでいる彼女をみて、もう少し仕事が落ち着くのを待ってもいいかと思って。
右手の薬指にはめた指輪をしげしげと眺めて、幸福そうに微笑む恋人の顔をみて、佐久早はたまらない気持ちになる。
これで変な虫が寄ってこないよう牽制にはなるだろうし、焦らなくてもなまえが名実共に自分のものになるのは時間の問題のように思われた。

慎重に万全を期す佐久早が、唯一読み違えていた、彼女の気持ちーー。


お誕生日おめでとう。突然出ていってごめんなさい


なまえの癖字でも丸文字でもないきれいな文字が、佐久早は昔から気に入っている。読みやすいのに馴れ馴れしい感じが少しもしないその文字は、彼女本人のようで。


飲み込むのに、たっぷり10秒かかった。

頭に?マークを浮かべながらもう一度、書き置きを読み直す。

そして佐久早は自分がしでかしてしまった事の重大さを理解する。
なまえは自分の意志で、この家を出ていったのだ。

急いで端末をタップして彼女に電話をかけるが、無機質なコール音が繰り返されるばかりだ。

「くっそ」

舌打ちしながら、メッセージアプリに今どこ∞連絡待ってるから≠ニ打ち込む。

そしてまた発信、コール音、の繰り返し。

何度もその動作を繰り返す中、佐久早の端末に着信を告げる振動がある。
知らない番号だったけれど、迷わずタップして応答する。


「……なまえ?」
「佐久早くん、白井です」
「………ああ」
「こんなことになっちゃって、ごめんなさい」
「うん」
「彼女さん、大丈夫?怒ってない?」


白々しいやりとりは、まるで茶番だ。


「記事に書いてあること、いっそ本当にしちゃおっか」

なーんて、と妖艶に笑う電話の向こうの彼女に佐久早の苛立ちは爆発寸前だった。


「悪いけど、もう連絡してこないで」

悪いけどなんて1ミリも思っていない温度でそう告げる。


「え?」
「なまえと別れるつもりはないし、噂を本当にする気もないって言ってる」
「…………」
「もうやめろよ、俺なんかに構うの。あんたが本気ですきな男のために時間使った方がいいよ」
「……全然好きじゃない女と付き合ったくせに?」
「それは……」


本当に悪かったと思ってる。心からの謝罪を口にする。学生時代からずっと、ずっと後ろめたかった。
白井百合香に対しても、なまえにも。


「………本当に変わったね」
「………」
「佐久早くんは本当に幸運な人間だよ」


さよなら。プツリと音を立てて通話が途切れた。
確かに自分は幸運だ。人に恵まれ、運に恵まれ、信じられないほど遠くに来た。
でも、自分と関わる人間は?
自分の軽率な行動で、白井百合香を傷付けた。
自分の最も大切な女性も。


「因果応報、これが報いだな」


一人ぽっちの部屋で溜息とともに吐いた独り言は誰の耳にも拾われることはない。

最愛の恋人に出ていかれ、ひとりでは広すぎる部屋で迎える誕生日は、控えめに言って最悪だった。




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