小説 | ナノ



テンパリング・ユア・ハート 3


「女の子は、髪と爪をきれいにしてるといい事があるかもね」

母からしたら、身だしなみに気を遣える娘に育つようにとの意図があったのかもしれないけれど、幼い頃から繰り返し言われた言葉を鵜呑みにしたわたしは、髪と爪の手入れを怠ることがなかった。サラサラのロングに憧れがあったから、特に髪の毛は念入りに。

癖毛ではないけれど、錦糸のようでもなく、烏の濡れ羽色でもない、ごくごく平均的な日本人の太さと色を持った髪を胸にかかるくらい伸ばした。
毎日丁寧に洗髪し、トリートメントをつけて乾かし、ブラッシングをすると人並みにきれいに見えるようになる。
長い髪は密かにわたしの自慢だったし、自信でもあった。
体育や部活のときは邪魔にならないようにポニーテールにしていたけれど、髪を結ぶということ自体が、いつしかわたしの中で気持ちを切り替えるためのスイッチになっていた。

高校時代、何を思ったか一度だけ、モップがけをしているわたしの後ろ髪に佐久早が触れたことがある。


「………!なに、佐久早」


近しい人に、彼はたまにとてつもなく無防備になる瞬間があって、その時もきっとそうだったのだろう。
佐久早は、これどうなってんのとでも言いたげに、しげしげと髪の束を眺めて上に持ち上げてみたり、ゆるく引っ張ってみたり、本当にただ純粋に興味の対象を確かめる赤ん坊のようにわたしの髪を弄んでいた。

いい感じの高校生の男女が、戯れに髪を引っ張って目を合わせて笑い合うなんて甘いものではなく、彼の場合は本当に下心がないのだ。
残念ながらわたしにはそれがよくわかっていたけれど、周囲はそうは受け取らなかったらしい。
あるチームメイトが「お前らあんまイチャつくなよ。部活中だぞ」とからかい半分に窘めた瞬間、佐久早はサッと手を離してフイっとその場から立ち去ってしまった。

彼は"そういうこと"をからかわれるのが1番嫌なのだ。何も言わなくても機嫌が急降下してるのが、手に取るようにわかる。

「そういうんじゃないよ」

残されたわたしは代わりにチームメイトに笑いながら弁明する。
みょうじなまえがたった今深く傷付いたことには、この体育館にいる誰も気付いていませんように。そう祈った夏の夕暮れの記憶が蘇る。


好意の形は人それぞれ、何遍もの形がある。
佐久早がわたしに向けるそれは、友愛や家族愛に近いかもしれない。
自分に害をなす人間でないと信じて疑わないから、わたしの中にある隠された下心にも気付かないのだ。
もちろん、それは佐久早だけのせいではなくて、自分自身が後生大事に育ててしまったこの恋心を失うのが怖くて、ずっといい友達を演じてしまったせいもある。

失恋が想いを寄せる相手に恋愛対象として見てもらえないことを言うなら、わたしはとっくの昔に失恋している。
気付いていたけど、本当に気付くのは嫌だった。

佐久早のためだと言い聞かせながら、結局わたしは自分のことしか考えていない。

そんな自分が嫌いで仕方なかったから、あの日、髪の毛に触れた熱を思い出さなくてすむようにバッサリ髪を切った。なのに………


「彼女にフラれたって言ってる」 「じゃあ、俺と付き合う?」
真っ暗な自室のベッドの上でつい今しがた自分に向けて放たれた言葉を反芻する。

信じられない、なんて無神経なと泣いて怒ればよかったのか、彼に恋心が芽ばえる僅かな可能性に賭けて頷けばよかったのか。

正解は分からない、でも知っている。
佐久早は、わたしが彼を想うようにはわたしのことを想っていない。

正直、少しだけ嬉しかった。
わたしは佐久早にとって、形式ばかりと言っても恋人になる提案までして繋ぎ止めておきたい存在だったのかと。
でもその微かな喜びはすぐ大きな絶望に飲み込まれる。
だって、そんな不毛な関係に先があるはずが無い。

佐久早はわたしとキスできる?
…………それ以上のことは?

それだけ考えただけでも瞼がピクピクと震えるように痙攣した。
自分が一時の欲に負けて軽率に了承すれば、彼との関係は一生拗れて二度と元には戻らないだろう。
今終わらせてしまえば一生美しい思い出として残して置けるのに。

いつか、もし自分の子供が持てたら言って聞かせるのだ。

「お母さんの高校時代のチームのエースは、お母さんが1番すきなバレーをする人だった」と。



***



古森元也は困惑していた。

あれ、お前みょうじに試合に来てもらえるよう頼みに行ったんじゃなかったっけ。
なんで告白してんの?………フラれてるし。
いつの間にか読モと別れてるし。

ツッコミたいことは山ほどあるが、今は下手なことを言ってこれ以上従兄弟の機嫌を損ねるのは得策ではない。
とりあえず佐久早を、深夜0時で閉まってしまう寮の大浴場へと送り出し、自身は寮の共用スペースのひとつである食堂のテーブルの一角に腰を下ろす。

備え付けの大型テレビがあり、朝夕の食事の時間以外は部員たちの歓談の場になっている食堂は、あらかた個室に引き上げてしまったのか、この時間帯はほぼ無人だった。

今回のことは少なからず古森の心も疲弊させていた。
端末を操って写真フォルダを開く。
高校の卒業式、井闥山の制服に身を包み卒業証書の入った筒を持ちながら、はにかんだ笑顔を浮かべるなまえと仏頂面の佐久早。
自分が気を利かせたつもりで、無理やり撮ったツーショットだ。

画面から、好きが溢れてくる。

井闥山には進級のタイミングでのクラス替えがないので、みょうじなまえとは高校時代3年間同じクラスだった。
最初に彼女をマネージャーに誘ったのは古森だ。
入部当時は3年の先輩に1人女子マネージャーがいただけだったけれど、高校ってすごいところだな、女子マネかぁ…と感動したものだ。
中学のときは女子マネージャーなどいなかったので知る由もなかったが、女子マネっていい。すごくいい。
男じゃ気付かないところに気が回るし、やっぱり大抵の男は単純だから、むさ苦しい体育館に同世代の女子がいるというだけで頑張れてしまったりする。
ただ、誰でもいいわけではない。
男狙いじゃないっぽい、よく気がつく真面目な子で、出来れば多少かわいい子の方がいいに決まってる。
………本当にどうしようもない生き物だよな、男って。


みょうじさんでいいじゃん!

3年の先輩が引退したら女子マネージャー不在という危機的状況に陥ることは明白だったので、お前らクラスでそれとなく探してみろよと2年の先輩からお達しがあった時、閃いてしまった。

隣の席のみょうじなまえ。
話しやすくていい子だし、貸してもらったノートの字もきれいだった。確かまだ部活決まってないって言ってなかったけ。

きっかけはたったそれだけだ。
そしてその選択は間違っていなかったと今でも思っている。
でも彼女には、随分とつらい思いをさせてしまったかもしれない。

髪を切って明るくした彼女は垢抜けた。
けれど、遮るものがなくなった白くて細いうなじに太陽光が当たってチリチリと焼け焦げる音が聞こえるような気がして、古森には少し痛々しく思えた。

佐久早は自分とみょうじは八方美人なところが似ている言うが、みょうじは誰にでも優しかった訳ではない。もちろん本人の気質というものは存在するけれど、みょうじは佐久早に特別優しかった。

古森にはむしろ、佐久早とみょうじの方が似た者同士に思えた。
パーソナルスペースが狭くて、一度懐にいれた人間のことをどこまでも大切にしすぎてしまう。


「何見てんの」


背後から突然声をかけられて心臓が止まるかと思った。風呂上がりの佐久早が、先程より幾分か血色のいい顔をして立っている。


「ビッックリした〜〜風呂、早くない?」
「最後だったから、シャワーだけ浴びた」


なるほど。この潔癖な従兄弟は他人の菌が入ったものを極端に嫌うので、寮の風呂はできる限り早く入りたがる。部の飲み会も歓送迎会くらいしか顔を出さないし、日付けが変わる前には寝てしまうので、夜遅く出歩くなんてことがまずない。


「写真」
「え?…ああ、懐かしいなと思って」
「あいつ、髪切ってた」
「あ、そうそう。言ってなかったっけ」


むっつりと頷いた佐久早に、ごめんごめんと笑って誤魔化す。

「垢抜けたよな。この前先輩にショートの子紹介してって言われちゃった」
「…………紹介したの」
「してないけど」

回答を聞いているのかいないのか、何か探すように明後日の虚空を見つめる佐久早を見やる。


「で、なんでみょうじに告白したのか聞いていい?」
「……………って思ったから」
「え?」
「付き合えば前みたいに戻れるって思った」
「いや、発想の転換が天才か」


本人を前にして頭を抱え出した古森に、佐久早は特に気分を害した様子もなく続ける。

「でも、俺とは付き合わないって」

何となく何があったか悟ってしまった古森は大きな溜息をぐっと飲み込む。

「佐久早はわたしのこと好きじゃないでしょって」

さっきは飲み込んだはずの溜息は、気付くを口から吐き出されていた。


「付き合うって意味わかる?聖臣」
「それくらいわかる」
「……じゃあみょうじとキスできる?」

チュってやつじゃなくてブチュウって方だから!お前他人の唾液とか無理だろ。大体……なおもくどくどといい募ろうとする古森を遮って、佐久早は即答した。

「できる」
「……じゃあセックスは?」

お前が言っただけで気絶しちゃいそうなとこまで触ったり舐めたりしなくちゃいけないんだけど。

「うるさいそれくらい知ってる。俺はできる」

みょうじの方はどうか知らないけどな。何でもなさそうに言ってのける従兄弟に、古森は疑いの目を向ける。

「本当に?みょうじは友達でしょ?」
「………付き合ったら恋人じゃん。それに友達とはキスもセックスもしねェだろ」

従兄弟の回答に古森は今度こそ目を見張る。


「えっえ、じゃあお前みょうじのことすきなの?」
「………すきってどういうこと」
「かわいいとか、キスしたいヤりたいとか思うんじゃねーの? 一般的には」
「お前も思った?元カノに」
「……まぁ、思った。思ってたよ」

何だこの拷問みたいな時間は。何が楽しくて従兄弟に過去の恋愛事情を話さなくちゃいけないんだと思いながらも、佐久早がこんなことを聞いてくるのは珍しいので正直に答える。


「じゃあ、やっぱり俺はみょうじのことすきじゃない」

冷静な、感情のみえない声で佐久早が言った。


「待って聖臣、お前はみょうじのことどう思うの?」
「どうって………危なっかしいやつ」
「うんうん、それで?」
「俺の事で泣かれると興奮する」
「あーうん?うん」
「泣いてる顔がかわいいと思った」
「うん」
「でも他のやつの前では泣いて欲しくない」
「うんうん」
「もう1回笑って欲しい」


辛抱強く、我慢強く、古森は耳を傾けた。拙くて、不器用で、到底自分と同い年だとは思えない従兄弟の言葉に。

「わかった。聖臣はみょうじにどうしてほしい?」
「……これから冬になっても、春も夏も、秋も一緒にいてほしい」
「そっか。それならそれをみょうじに分かってもらわなきゃね」
「………どうやって?」
「お前のことすきだって、今度こそみょうじに言ってやれるな」


5秒ほどして言葉の意味を理解したらしい佐久早の頬がじわじわと熱を帯びていく。
なんだよ、そういう顔はみょうじに見せてやれよな。
それからみょうじには観念しろよ、と心の中で呟く。
すきを“初めてしまった”佐久早聖臣から逃げ切れるなんてことは、万に一つもないだろうから。

全部上手くいったら叔母さんに連絡して、赤飯でも炊かせようか。
………そんなことしたら、しばらく口を聞いてもらえなくなるだろうけど。


末端のロックを解除すると、画面にはまだ卒業式の写真が表示されていた。

「……俺は長い方がよかったな」と覗き込んだ佐久早が呟くのを聞いて、思わず吹き出してしまう。

「……実は俺もそう思ってた」


顔を見合わせて、笑い合う。
さすが従兄弟だ、DNAが八分の一同じだけはある。
俺はみょうじをマネージャーに勧誘する時も、佐久早だったらきっと彼女を気にいるだろうって、思ってたけどね。





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