テンパリング・ユア・ハート 2 タイミングは待つものではなく、作るものだ。そう言って憚らない従兄弟の勧めで大学近くのコーヒーショップのチェーン店に来てみたものの、もう10分も佐久早は店内に足を踏み入れることが出来ないでいた。 「みょうじが試合来ないのが、そんなに気になる?」 絶不調の従兄弟を心配した古森が、佐久早の部屋を尋ねてきたのは夜9時を過ぎた頃だった。 佐久早がコックリと頷けば、彼は困ったように頭を掻いた。 まぁ確かに、佐久早の中では普通の人間よりずっと細かく日々のルーティンが存在する。 そのルーティンの中に元マネージャーの存在があるのは、おかしく………ないか…? そこでふっと得心が行く。 そうか、こいつは多分自分に懐いていたみょうじが離れて行ってしまったのが寂しいんだな。 なんだ聖臣、随分人間らしくなったじゃん、とは死んでも口に出さないけれど。 「じゃあ、どうしたら試合に来てくれるのか聞いてみたら」 「…………」 「直接さ、正直に言ってみなよ。みょうじが来ないとなんか調子が悪い気がして使い物になりませんって」 「…………使い物にはなる」 「はいはい」 「でも、あいつは俺のこと」 好きなんだろ、と続く声はとても微かで、しっかりと耳を済ませていないと聞き取りそびれてしまいそうだった。 「ショック?それとも、気持ちに応えられないことに罪悪感がある?」 佐久早はたっぷり10秒間沈黙した。 他人から何を考えているか分からないと評される黒目がちの目は、古森からすればとても鮮やかに彼の心情を教えてくれる。佐久早は今、ひどく動揺しているようだった。いつもは凪いだ湖のように静かな漆黒の底が、僅かに揺れている。 長い沈黙の末、「分からない」と静かにかぶりを振る従兄弟に向けて、努めて明るい調子で呼びかけた。 「そっか。じゃあなおさら会って話してみるしかないね」 みょうじはお前のことが好きで、今のお前と距離をとりたいって思ってる。でもそれはみょうじの都合。 聖臣は聖臣の都合で、それでもこれまで通りに接してもらいたいと思うなら、本人に言ってみるしかないじゃん。それでみょうじは傷付くかもしれないし、そんなの無理だって拒否されるかもしれないけどさ、それはみょうじが決めることだよ。……なんかさ、みょうじには悪いけど、ちょっと感慨深いよな。お前いっつも来るもの拒んで去るもの追わずだったじゃん。 聖臣が本気で人間関係を構築したいって望むなら、やってみる価値はある。 *** 従兄弟の半ば強引なアドバイスを受け、佐久早はなまえのアルバイト先に来ていた。 「明日ラストまでって言ってたから閉店間際に行って、この後話があるから駅まで送るとか何とかいえばいいよ」 断られても表で待ってるって粘ればOKだから、と軽い調子で続ける古森に佐久早は目眩を覚える。 こいつは人間何回目なんだろうな。何回人間としてこの世に生を受ければ、彼のように嫌味なく他者と絶妙な距離を保つことが出来るようになるのだろう。 「……それって元也からあいつに言付けてもらえないの。俺が話したいことあるって」 「あいつの意思は固いから腹括った方がいいよ」 「みょうじとお前が会うときに着いてく……」 「やだよ俺、みょうじの地雷踏み抜いて嫌われたくないもん」 ちゃっかり言ってのける古森をみて、この男が実は優しいだけでないことを思い出したのだった。 ここへ来るのは初めてではない。 大学生になってバイトを初めたみょうじが働いているということで古森に引っ張られて何度か連れてこられたことがあった。 佐久早はカフェインを摂取すると頭が痛くなる体質なので(古森には気のせいだと言われる)、いつもデカフェしか頼まないのだけれど。 大学近くの総合公園の敷地内にあるそこは、ガラス張りのモダンな雰囲気のかコーヒーショップで学生や公園にランニングや犬の散歩に来る近隣の人々で溢れている。 平日の昼間から休日の夜まで園内のランニングコースは老若男女様々な人で溢れかえっていて、何を隠そう自分のランニングコースのひとつでもある。過去にはオリンピック会場のひとつでもあった園内には、奥に進むと陸上競技場、野球場、サッカー場にフットサル場もそろっている。 公園入口のオブジェの前で佐久早は途方に暮れていた。 さすがに閉店間際なだけあって店内に人はまばらだったが、入店するのは躊躇われた。 人に声をかけるとか誰かを誘うとか、基本的にそういうことは昔から得意ではないし、今現在避けられている相手ならなおさらだ。 さすがに気が引けたので、イヤホンをしジャージを来て、いかにもランニング終わりですという格好をしてきたものの、古森ならともかくそんな言い訳を自分が人前で出来るとは思えない。 ……いつもどういう感じで話してたっけ。 うだうだと考えているうちに、閉店の時間を過ぎCLOSEの札がかけられる。 やっぱりもう帰ろう。いくら他人の気持ちを察するのが苦手な自分でも、さすがに元チームメイトに夜待ち伏せされるのが普通ではないことくらい想像がつく。 その時、店からひとりの女が出てきた。 思わず身構えたけれど、髪が短いのでみょうじではなさそうだ。 店も公園の入口も大通に面しているので夜9時を過ぎても明るいが、スケートボードを抱えたあまり柄の良さそうではない連中が彼女に声をかけている。シカトして歩き出そうにも、3人の男にぐるりと取り囲まれて困っているのは明らかだった。 チッと思わず舌打ちが出る。ああやって群れていないと女に声もかけられない奴らは心底嫌いだ。 100%ナンパであることは認識できるが、普段なら見過ごすそれを、この時ばかりは気が咎めた。 一応、みょうじの同僚だろうし、まさかここまでお膳立てされてナンパされている彼女のバイト仲間を見捨てて帰ってきましたなんて従兄弟に報告も出来ない。 意を決して歩み寄ると「ねえ、何してんの遅かったじゃん」と、彼女というよりは男たちに向かって声をかける。 「あ?」と言って振り返った男の1人がギョッとした。普段バレー部の面々に囲まれていると忘れそうになるが、190センチのガタイのいい男に声をかけられることは、日本ではあまりないかもしれない。 「俺の連れなんで」ダメ推しとばかりに淡々と告げれば男たちは顔を見合わせて、そそくさとその場を立ち去った。 さぁ帰ろう、10月の夜はさすがに冷える。踵を返そうとした瞬間、聞き慣れた声が自分の名を呼ぶので思わず心臓が跳ねた。 「佐久早」 「………みょうじ?」 久しぶりにあった彼女は髪を短く切って、雰囲気がまるで違ったので明るい街灯の下とはいえ全く気付かなかった。 「久しぶり。あと、ありがとう」 フリーズしてしまった佐久早にみょうじが遠慮がちに声をかける。 「ああうん、別に。髪切ったんだな」 「うん、結構思い切って」 「……似合ってる」 その瞬間、彼女の目元がぶわっと赤く染まるのがわかった。街灯があるとはいえ、夜なのに。 こんなに分かりやすいのに、どうし今まで気づかなかったんだろう。 「……ありがと。じゃあね、佐久早」と言って駅の方へ歩き出そうとするみょうじの手首を思わず掴んだ。 「待って」 驚くみょうじの目を見返しながら佐久早は従兄弟に伝授された無敵の呪文を告げる。 「遅いし、駅まで送る」 「……明るいし、平気だよ」 「さっきさっそく絡まれてたやつがよく言う」 結局、みょうじは肩を並べて歩きながら佐久早は、先程から感じていたある疑問を口にする。 「みょうじ、痩せた?」 さっき手首を掴んだときにも思ったが、雰囲気が変わったのは髪型のせいだけではなさそうだ。 「ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ。ちょっと夏バテ引きずっちゃっただけ」 普段食い意地はってるこいつが夏バテか。 淡々と喋る彼女を見下ろす。目は合わない。 うつむき加減で歩くので、白くて細い首筋が見える。こいつはこんなに小さかっただろうか。 「この前の試合、残念だったね」 佐久早が物思いに耽っていると気を使ってかみょうじが声をかけてきた。 「観に来てなかっただろ」 「結果だけHPでみたよ」 「……なぁ、なんで試合観にこないの」 我ながらずるい聞き方だなと思った。 でも他にどういう言い方をすればいいか、佐久早には思い至らなかった。相変わらず視線は合わない。 「連絡したけど、返ってこないし」 避けられるのは堪える、と伝えれば彼女の肩がピクリと震えた。 「………みょうじが来ないと調子狂う」 本心だった。高校時代は改めて、自分にとっての楽園だったのだな、と思う。飯綱さんがいて古森がいてみんながいて、みょうじがいた。 佐久早は不用意、不注意な人間は嫌いだ。バレーは好きでも嫌いでもなかったけれど、出来なかったことが出来るようになるのは気持ちがいい。 他人が嫌う努力というものが、自分にとっては息をするのと同じくらい普通のことだと気付いたのはいつだったか。 だから、自分のバレーで結果を出せるのは単純に自助努力の賜物だろうと思っていた。 けれど違った。多分、自分でも気付かぬうちに自分はたくさんの人に守られてきたのだ。 「佐久早はずるい」 「うん」 「………わたしね、佐久早のことがすき」 「うん」 「だから試合には行けない」 未練が残っちゃうから、と彼女は言った。努めて明るく、という調子で。元也もそうだ、こういう喋り方をするとき大概こいつらは自分に気を遣っている。 ………ムカつく。鳩尾の辺りから鈍い怒りが込み上げてくる。 なんでこいつは、もっと自分本位に生きないんだろう。なんで俺は気ばかり遣わせてしまうのだろう。なぜ、どうして。 「なんで、来たらいいじゃん」 「え?」 「俺のこと好きなんでしょ?彼女と別れて自分と付き合えくらい言えばいいだろ」 「……意味わかんない」 「てか別れたし」 「………は?」 「彼女にフラれたって言ってる」 今度こそ、みょうじが俺をみた。驚愕に目を見開いている。 「な、なんで…いつ?」 「2週間くらい前?…マメじゃないし、バレーばっかでつまんないって」 1ヶ月付き合った彼女にそう告げられても、驚きはなかった。恋人らしいことをほとんどしてやれなかった罪悪感は多少あったけれど、どこかで安堵していた。 結局俺は彼女とそういう雰囲気になっても、唇を合わせるだけのキスしか出来なかったし、先に進みたいとも思えなかった。 別に嫌いでなかっただけで、好きでもなかったんだなと思う。 ユースの佐久早聖臣に寄ってくる女にうんざりしているのに、自分も案外人の外側しか見えていないのかもしれない。 そもそも、自分は他者を愛し慈しむことができるのだろうか。それを確認するために、付き合った。相手としては申し分ない。 結果、愛は生まれなかったのだけど。 そんな最低な話は全部省いてフラれたという事実だけをみょうじに伝えた。 自分が人でなしの最低野郎だということを、なぜだかみょうじには知られたくなかった。 「なんで、佐久早がフラれなきゃいけないの」 沈黙を破って、彼女が呟いた。声が震えている。 「佐久早、いっぱいいいとこあるのに」 「………うん」 「バレーだって、一生懸命やってるし」 「うん」 「背、高くてかっこいいし」 「うん」 聞いていて恥ずかしくなるような褒め言葉を紡ぐみょうじの目から、ポロっと一筋の涙が零れる。 「潔癖だし無愛想だけど、本当は優しい」 「…………」 血が沸いた。 俺の前で泣いたかつてのマネージャーが、初めて“女”であると思った。 こいつは以外と冷めているというか、試合に負けても、懐いていたマネージャーの先輩や1学年上の飯綱さんが引退するときも、自分が引退するときも卒業式でも泣いているところを見たことがなかった。 そうか、こいつは俺のために泣くのか。 そう思うと、全身の血がカッと熱くなった。 かわいい、もっと俺のために泣いて欲しい、抱きしめたい。そんな歪んだ欲がふつふつと湧き上がってくるのを感じで高揚した。 そしてふと思い出した。俺を優しいと形容したのは、祖母とみょうじだけだな、と。 「じゃあ、俺と付き合う?」 「……なんで」 「だって、俺のこと好きなんだろ」 「……そうだけど、佐久早とは付き合えない」 当然OKをもらえると思っていたのに、目の前の彼女の言葉に、頭の中が疑問符でいっぱいになる。 「佐久早はわたしのこと好きじゃないでしょ」 「は?」 「そういうことは、しちゃダメだよ」 「はぁああ?」 彼女のこと、諦められないならもう1回頑張ってみて。佐久早が本気だって分かれば、今度は上手く行くと思う。 聞き分けのない子供に言い聞かせるようにアドバイスを宣うみょうじを呆然と眺める。 気付くと、最寄り駅の改札前に着いていた。 「じゃあね、佐久早。今日はありがとう」 「……っ!試合!次の試合は絶対観に来て」 電子カードをタッチして改札の向こう側で困ったようにこちらを見ているみょうじに、なおも言い募る。 「ずっと俺のこと応援して。……見届けてほしい」 何も言わない彼女に向かって「待ってるからな!」とダメ押して踵を返す。 かっこ悪い。最悪だ。でもこれ以外にとれる行動が思いつかなかった。 “好き”という感情が、自分にはよく分からない。 みょうじの気持ちに応えたい、と思ったのは確かだ。みょうじが自分のことを好きで、俺が振り向かないから離れると言うなら付き合ってもいいと思った。 “そういう関係”を望むのなら、与えてやれる。 それでまたみょうじがいて、元也がいて、そんな日常が戻ってくるならなんの問題もないと。 この先ずっと関係が続いたとしても、女一人養う甲斐性くらい自分にもある。 でも、違った。そういうことではないらしい。 フラれた……? 2週間前、確かに恋人だった女から告げられた別れの言葉はすんなり受け入れられたのに、今日自分を好きだと言った女の拒絶の言葉には明確に心を抉られた。 大学の駐輪場に止めてあった自転車に乗って、寮への帰路に着く間に、あることに気付いた。 そういえば今日、みょうじの笑った顔を見ていない。 |