チョコレート革命
「古森、はいチョコレート」
「おっ、サンキュー」
2月14日は戦争だ。
Saint Valentine’s Day, 聖バレンタインなどといかにも荘厳な名前で呼ばれているけれど、実際は慎ましさなど欠片もない、思惑や駆け引きに踊らされる日。
神様、今日ばかりはどうか日本中が浮き足立つのを許してほしい。元旦にしか神棚に手を合わせないような罰当たりな人間の願いもよろしく聞き届けて。
「これ手作り?」
「うん、チョコレートブラウニー」
「へー洒落てるなー」
そう言うと古森はすぐに包装を解いて、中身をパクリと口に運ぶ。
「ん、美味しい!」
よかった、と肩を撫で下ろすと彼はむぐむぐと口を動かしながら「すごいよなーテスト期間中なのに、女子は」と感心したように言う。
友チョコという文化は、いつからこの国に定着したのだろう。バレンタインが女から男への愛の告白を許された日、という認識はもう古いのかもしれない。
今日は朝から教室の至る所で、女子生徒の楽しげな笑い声とともにお菓子の交換がなされている。
「古森もいっぱいもらったね」
机の横のフックにかかる紙袋はチョコで膨れあがってはち切れんばかりだ。
「……まあこれ半分以上は佐久早くんに渡しといてってやつだけど」
「えっ」
「まさかみょうじは俺にそんなことさせないよね?」
ニッコリ。そんな擬音が背景に見えそうなほどいい笑顔を浮かべた彼になまえは苦笑いを返すしかない。
普段の快活さや気遣いに溢れた言動は彼の表の姿なのだということを、こういう時に思い知らされる。
「わたしに直接渡す度胸あると思う?」
「………用意はしてきたところに執念は感じる」
「やっぱり古森もう1個食べない?」
「わかったから。早く行ってきなよ」
撃沈したら、骨くらいは拾ってあげると爽やかに笑ったリベロの顔は憎らしいほど清々しい。
古森が拾うのは骨じゃなくてボールでしょ、という憎まれ口は胸の中に締まっておく。
期末テストを目前に控えてはいたけれど、この日のために、3回も練習した。
味見した母も美味しいと言ってくれたし、端っこの焦げて香ばしくなったところは父と弟用に。
女友達用には女子らしく華やかなラッピングを、バレー部員に渡すものはシンプルなOPP袋に入れて口をシールでとめた。
なるべく不自然にならないように。
なるべくみんなと同じように。
1番きれいに焼けた生地の真ん中の、1番美しく切れたブラウニーを選んで、袋をとめる丸型のシールをひとつだけ星型にして。きっとこれなら誰にも気付かれない。
義理チョコに紛れ込ませた本命、純情の中の不純。
気付いてほしいけれど、気付いてほしくない。
部活動はテスト休みに入っていて、受験シーズンに突入した3年生は既に自宅学習期間なので、2月の校内はどことなくガランとしていて寒々しい。
体育館までの渡り廊下をパタパタと走る。
公式に部活は休みだけれど、体育館は3時まで解放されている。
テストは半日で終わるので、彼はきっと今日もそこにいるはずだ。
人気のない部室棟の前に差し掛かったところで、お目当ての人と他クラスの女子生徒が立っているのが目に入る。
絵に描いたような告白のシーン。
思わず物陰に隠れるように身を翻す。
たぶん吹奏楽部でフルートを吹いている子だ。小柄で長い髪の毛が細くてサラサラで、目が大きい小動物みたいなかわいい子。
距離はある程度あるはずなのに、ガランとした部室棟に声はよく響いた。佐久早のボソボソとした、でもよく通る低音が聞こえる。
「悪いけど、手作りのものはちょっと……」
「……もらうだけでも、だめ?」
死角に入っているので姿は見えないけれど、彼女が一生懸命言い募る姿が想像出来て、胸が軋んだ。
しかもあの佐久早が「悪いけど」なんていう枕詞まで使っている。
合宿の時にわたしが握ったおにぎりは「いらない」と一刀両断だったくせに。
それからは佐久早の分だけ、ラップに包んで
握るようになった。中味を梅干しにしてやるとわずかに顔を緩ませるので、いいように絆されてしまったのだ。
古森からは佐久早だけ特別扱いかと揶揄われたけれど、次期エースに面と向かって指摘するような部員は誰もいない。
それに、わたしがしてあげたかったのだ。
「……ごめん」
少しの沈黙の後、佐久早が応えた。
この謝罪にはおそらくチョコレートを受け取れないという意味以外にも、気持ちには応えられないという明確な意志があった。
「そっか。ごめんね呼び出しちゃって」
気丈にも、彼女はそれだけ言って早足で去って行った。
どうしてだろう、佐久早が断ったことに対してほっとしているはずなのに胸が痛い。
あの子、たぶん性格も良かったんじゃないかな。1人で勝負しにきてえらいな。
それにやっぱり佐久早も男の子だなぁ、かわいい子に告白されるといつもの刺々しさが3分の1くらいマシになる。
……いや違う、彼は誠意には誠意を返す人間だ。
あの子が本気だと分かったから、ちゃんと本気で考えたのだ。
「何してんの」
頭の中であれこれ考えすぎて、足音にも気付かなかった。不意をつかれて声がうわずる。
「さくさ」
「覗き見とか悪趣味なんだけど」
「最後の方しかみてないよ……」
ものすごく嫌そうに眉をひそめる彼を見て、こういう時の表情は豊かだ、と思う。
試合中はいつも冷静で、眉ひとつ動かさないのに。
できるだけ平常の調子を装って話しかける。
「そうだ、佐久早のこと探してたんだ、ちょうどこれ…」
「いらない」
「ま、まだなにも言ってない!」
「……チョコレートだろ」
察しのいいことで。わたしが持つ紙袋の中身をジトッと見つめて、佐久早は溜息を吐く。
今日はきっと朝からこの調子で、機嫌がすこぶる悪いのだろう。
でも溜息を吐きたいのはこっちだ。手が震えないように気をつけながら細く長く息を吐き出す。
「もらうだけでも、だめ?」
図らずしもさっきの彼女と同じ言葉が出てしまった。
人間、追い詰められると案外同じ行動に行き着くのかもしれないと頭の片隅で思う。
「……そっちの方が失礼だろ」
「はい?」
「食べられないのにもらうなんて、そんな失礼なこと出来ない」
わたしはびっくりして佐久早の顔をみる。高校1年にしてすでに180センチを超える彼と目を合わせるのは、正確には見上げる、になってしまうのだけれど。
日本人の虹彩は、黒に見えて実は茶色なのだそうだ。本当の黒だと、そもそも光をとりこめずに目が見えない状態らしい。
その中でも明るい色素と暗い色素の人がいて、瞳の色は各々違うんだよと生物の教師が言っていたのを思い出す。
佐久早の瞳は漆黒だ。烏の濡れ羽色、純度の高い黒曜石のように夜を閉じ込めた黒。
この目が本当は茶色いなんて、信じられない。
「ふふふ」
「……なに笑ってんの」
「ううん、佐久早らしいなぁと思って」
「は?」
やはり受け取ってもらえない、というのはショックだ。なかなかに堪える。
でもこれは佐久早なりの精一杯だ。
食べられないからもらえないなんて、めちゃくちゃな理屈だなあ。
愛想良く受け取って、こっそり捨てちゃえば丸く収まるのに。
本当に分かりにくくて不器用で、律儀な人。
「ハッピーバレンタイン、佐久早」
なんだこいつ、という視線には気付かないふりをして、わたしは佐久早を急かした。
「早く着替えてきなよ!ボール出ししてあげる」
来年は食べられるやつ、あげるからね。