小説 | ナノ




きみの劣性をあいする


最悪な日は、朝から予感がある。
寝坊を発端としたあれこれで同居人の機嫌を損ねてしまったし、通勤定期が昨日着たジャケットのポケットに入れたままだったことに気付いたのは駅に着いてからだった。

出社すると昨日のプレゼンに対する上司の叱責が待っていて、ランチは社内不倫中だと専ら噂の先輩につかまって惚気話に突き合わさるハメに。
極めつけは初めて顔を合わせる取引先の担当者に指定された喫茶店に赴いた際、一回り以上も歳上の男性に上から下まで舐め回すように見られたあげく「きれいな子が来てくれて良かった。いやあ、みょうじさんとお茶できて嬉しいなぁ」という一言だった。

出会い系アプリかよ。
急速に冷えて行く思考があるひとつの結論を弾き出す。ああ違うな、この人はちゃんと言う人を選んでる。わたしが気の強そうな、いかにもキャリアウーマンというタイプの女だったらこんなことは言わない。
それが分かっていてなおヘタクソな愛想笑いを浮かべることしか出来ない自分が惨めだった。

なぜだろう、ひとつひとつは軽く受け流せることなのに、それらは重なるとひどく精神を摩耗させる。

夕方、打ち合わせを終え帰社すると、端末に新着メッセージが表示されていた。
差出人は古森元也″mZ時代マネージャーを努めていたバレー部の同期だ。
急いでタップするとそれは自分と同じく同期であり現在同棲3ヶ月目の恋人である佐久早と3人のグループラインだった。

こっちに遠征来てるんだけど、今夜飲みいかない?

間髪入れずに佐久早から行かない≠ニ返事が入ったところで、なまえは思わず行く≠ニ返信していた。


***


終わらない仕事を無理やり片付けて定時で会社を出ると、待ち合わせの駅前へ向かう。

「オッスーみょうじ、久しぶり」

ジーンズにTシャツといういたってラフな格好で現れた彼は高校時代よりいくぶん大人びた、しかし相変わらず人好きのする笑みを浮かべた。

「古森久しぶり。元気してた?」
「元気元気。てか佐久早置いてきて大丈夫か〜〜?」
「うん、連絡入れたし。…たまにはね」

歯切れの悪い答えに、察しのいい彼は何か感じ取ったかもしれないが言及はしてこなかった。


***


古森といるのは楽しい。気の置けない女友達と話しているようにテンポよく会話が進む。

「何をやっても上手くいかない日ってあるよね」
「あーあるあるそういう日」
「良かれと思ってやったことが全部空回りするみたいな」
「それでも1日頑張ったじゃん社会人」

えらいよ、となだめながらも卒なく空いたグラスにビールを注いでくる。

この一を話して十返ってくる感じ。共感と労い。わたしの同居人はまず間違いなくこんなに気の利いた相槌は打てないし、そもそも相槌だって打たずに仏頂面なときもある。
でも、聞いていないようで話はちゃんと聞いている。
……そういうところが好きだと思っていた。


「で、なに。佐久早となんかあった?」
「……古森ってすごいね」

昔から、彼は人との距離感が絶妙だった。
古森だったら、きっともっと上手くやれる。
もっと佐久早の気持ちを察せるし、あんなに彼を不機嫌にしないだろう。わたしのように。
「しょうがないなぁ、佐久早は」そう笑って許せてしまう懐の深さがかつて高校NO.1リベロと言われた男にはあった。

「あー生まれ変わったら古森になりたい」
そう呟くと彼はブフォッと飲みかけの酒を軽く吹き出した。
「何それ、どういう状況?」

うーんと答えに窮しながら、それでも口をついて出た言葉はとても素直な本心だった。

「古森になって佐久早の笑った顔をたくさん見たいなって」
「うんうん」
「私って佐久早のこと大好きでしょ?」
「そうだねーそれは知ってる」
「大好きすぎて疲れちゃった」


おどけて言ったつもりだったのに、声音は切実さを含んでいた。しまったと思って古森にそっと視線を投げる。
さすがに彼はいつもみたいに即座に「わかるよ」とは言わなかった。
「なんだ惚気か〜〜」と軽口を叩くこともせず、しばらく考え込むようにグラスを見つめたので、少しの間2人の間に静寂が訪れた。



***



学生時代から極度の潔癖症である恋人と同棲を始めて3ヶ月になる。
大学卒業後、社会人VリーグのMSBYブラックジャッカルに進んだ佐久早は今年度4年目のシーズンを迎える。
独身選手は3年間は寮生活という規定があるが、それ以降は寮を出ることが許される。そのタイミングで「一緒に暮らさないか」と言われた時は天にも昇る気持ちだったけれど。
それまで高校大学社会人と全て寮生活だった彼と、家族以外の人間と共同生活を送ったことなどない自分。

しかも相手は日本代表にも選出された経験があるバレーボール選手とくれば、自分が彼の生活様式に合わせなければならないことは明白なように思えた。

はあ…と気付かぬうちに深い溜息が零れていた。
憧れの企画職4年目、右も左も分からないまま入社した4年前には出来なかったことが出来るようになり、分からなかったことがわかるようになった。
そして徐々に任せてもらえる案件も増えた。
毎日充実しているかと問われれば首を縦にふることはできないけれど、仕事を辞める自分も想像がつかない。

夜くたくたになって帰宅し、冷蔵庫の中にあるものを少しつまむ。
本当につかれている日はシャワーを浴びる前にソファで寝入ってしまう。
自分ひとりの時はいくらでも許された不摂生ができない。


実業団の選手は社業もこなすが、純粋な社員と同等な仕事量があるわけではない。
MSBYの選手たちも試合や遠征のある日以外は、午前中は配属された部署の仕事をし、午後から専用のコートで練習するというのが日課だった。
練習は遅くても夕方には終わるので、帰宅はいつも佐久早の方が早い。
必然的に夕食は彼の役割になるのだが、妥協を許せないあの性格のせいで料理の腕前はメキメキと上達した。
なまえが帰宅すると、既に洗濯物はとりこまれてきっちり畳まているし、お風呂も湧いている。部屋にはチリひとつ落ちてないないし、しわひとつなく敷かれたベットシーツは美しい。
今日は疲れたから帰ったら恋人にギュッと抱きしめてもらって、思い切り甘やかして欲しいなどという妄想は、佐久早相手に抱いてはいけないような気がしていた。
彼に合わせたクイーンサイズのベットに入るために、帰宅後は即メイクを落としシャワーを浴びて歯を磨き清潔な服に着替えて。

こんな完璧な空間がわたしを追い詰めていくことに、彼は一切気付かない。
本当だったらわたしがしなくちゃいけないことじゃない?
やっぱりこういうのは女がしなくちゃ、何時代の話?もう令和だよ?
だって共働きだし、でも佐久早はバレーボール選手で家族のサポートが……。
今日自分を女として値踏みしてきた取引先の担当者の顔が浮かんだ。やだ、気持ち悪い。

朝食だけは自分が作ると言い張ったのは意地だった。自分はコーヒーとバナナ1本で事足りてしまうが、佐久早はそういうわけにはいかない。
味噌汁とご飯におかず、なんとか続けていたけれど今朝は寝坊してしまった。連日続いた残業に心身ともに疲弊していたというのは言い訳だが。
あわててリビングの扉を開けるとキッチンからは味噌汁のいい匂い。


「おはよう。ごめんね寝坊しちゃった」
「……おはよ。顔洗ってくれば?」


本当に何でもなさそうに言ってのける佐久早にうっと言葉が詰まる。


「起こしてくれればよかったのに」
「別に。俺の方が料理うまいし」
「そうだけど、そういう問題じゃないし」
「……ハァ」


段々と深くなっていく眉間のシワに深い溜息。
この人にとっては日常的であるそれも、この日のわたしの神経を逆撫でした。
朝ごはん、ありがとう。聖臣の作るご飯は美味しいね。いつもなら素直に出てくる感謝の言葉は、今日はどうしても出てこなかった。


「……朝ご飯いらない」
「はぁ?」
「欲しい気分じゃない」
「はぁああ?」


ジト目で何か言いた気な恋人を無視して支度を済ませると、「いってきます」と顔を見ずに言った。
佐久早がああいう性格なのは元々なので、我ながら大人気の欠片もない対応をしてしまったと思う。

あーあ、本当にあーあ。


***


ブフォっと隣に座った男が酒を吹き出したのは本日2回目だった。


「じゃあ何?みょうじ、佐久早の朝食食べないで出てきたの?度胸あんなー」

心底感心したように古森が言った。
結局あの後沈黙に耐えきれなくなって、恋人の従兄弟にことのあらましを洗いざらい話してしまった。


「……本当に大人気なかったと思っています」
「いやいいんじゃない?たまにはさ。どうせいつもあいつの機嫌とってるのみょうじなんだし」
「それは、まあ」
「絶対今ちょっもヤキモキしてるよ佐久早!いつも従順な恋人に歯向かわれた上に、他の男と飲んでくるなんて」
「……古森は従兄弟で親友じゃん」


そう言うと古森は、はははとおかしそうに笑った。それに佐久早は呆れこそすれ、わたしの行動でヤキモキするなんて考えられない。高校時代から片思いしていた佐久早と付き合いだしたのは大学生になってからだし、それもわたしの諦めの悪さに根負けしたところが大きい。
いつだって、わたしの好きの方が大きいのだ。
その事実は少しずつ心を蝕む。


「さっきの話だけど佐久早はさ、根っからのエースじゃん」
ポツリと古森が話し出したので、ゆっくりと耳を傾ける。
で、あの性格でしょ?俺もそうだけど、みんなエースの気持ちを汲んでやろう、あわせてやろうって気遣い過ぎちゃったんだよね。
いつも面倒見てくれるやつがそばに居たからさ。
だからあいつは大切な人が落ち込んでてもどうやって接したらいいか分からないんだろうな。
学生時代、そういうことサボってばっかだったから。
だいたいみょうじも佐久早には甘かったじゃん。
バレンタインなんてよく毎年挑戦するなーって思ったし、大学の試合も差し入れ持って来てたよね。
佐久早、嬉しかったんじゃない?
あんな性格で離れていく人は離れて行っただろうし。
でもだからこそ、みょうじはどんな自分でも受け入れてくれるって思っちゃってるのかもね。
もらうばかりで与えることに慣れてないから、みょうじのことどうやって大切にしていいか分からなくて、分からないからイライラしてるんだよ、そんな自分に。バカだよね?

こんなに饒舌に佐久早のことを語る古森を始めてみた。バカだよね、と言いながらも彼の目は手のかかる弟の成長を見守るかのように優しい。


「でも、佐久早は優しいよ」

古森と同じくらい。ただ、優しさの種類は全く違うけれど。
古森の優しさが人に目に見える形として何かしてあげる足し算の優しさだとしたら、佐久早の優しさは引き算だ。分かりずらくて誤解されやすく、尊大なようで繊細で本当は傷つきやすいわたしの恋人。


「あー、みょうじもバカだったね。佐久早バカ」

呆れたように古森が言うので、笑ってしまった。笑うと我慢していた涙がついっと零れて止まらなくなった。泣いたら佐久早に会いたくなった。

古森は、好きでやってるんだから家事は全部あいつにさせたら?とか、疲れて帰ってきたらそのままベットに寝転んでやればいいじゃん、むしろ俺ならベットの上でポテチ食べるやるね、とか本気とも冗談ともとれないことを言ってわたしを笑わせてくれた。

そろそろ帰らないと、佐久早はもう寝ているだろうか。大きく損ねてしまった恋人の機嫌をとるのは大変だろうが、明日はお互い1日オフだし、謝る時間はたくさんある。


「おい…」

お会計を済ませて店を出ると出口に不機嫌を絵に描いたような顔をした佐久早が立っていた。
「ごめんごめん、俺が店の場所教えたんだー」という古森の悪気のない声が後ろから聞こえたけれど、まだ心の準備が出来ていない。

夜でも明るい繁華街の路上で彼の感情を押し殺した黒曜石の瞳がわたしを観察するように上から下まで眺め回したが、不思議と今日取引先の担当者がわたしを品定めしたときのように不快な気分にはならなかった。

からきし弱いお酒を今日は2杯飲んだので頬が火照っているし、年甲斐もなく少し泣いてしまったので目も充血していることをさっきトイレの鏡で確認した。こんな顔を見せたいわけではなかったのに。

案の定、わたしを見て佐久早は傷付いた顔をした。
その変化は微々たるもので普通の人はきっと気付かないけれど、傍らで見守っている聡い従兄弟には伝わっただろう。


「帰るぞ」
言葉はいつも通り尊大だけど、口調には不安が滲んでいることに気付いてしまった。
この人は今、わたしが帰って来ないかもしれないことを恐れているのだ。

「うん、迎えありがとう」
「ん」

今朝はごめんね、と小声で謝りながら佐久早の手をとる。普段人前ではなかなか繋がせてくれないけれど、今日はゆっくりと握り返してくれた。

手厚めに古森にお礼を言うと、大人気のある彼はいたずらっ子のように笑った。
「今度は3人で。聖臣、みょうじ仕事で疲れてるから明日1日ベタベタに甘やかしてほしいって」
「言ってない!それは言ってないから!」

古森と別れ2人で夜道を歩き出すと沈黙を破るように佐久早がポツリと言った。


「……愛想尽かされたのかと思った」
「え…?わたしに?」
「最近元気なかったし、話も上の空だった」
「……ごめん。ちょっと仕事のことで余裕なかったかも」
「それだけじゃないだろ」


黒曜石の全てを見透かす目がジッとわたしを見る。ここでヘタな嘘はつかない方がいいと本能が言っている。


「聖臣にっていうか、自分が嫌になってて」
「うん」
「家に帰ると何もかも完璧な恋人が待ってるのに」
「……うん」
「だってわたし本当は平気で化粧したままソファで寝るし、ジャンクフード大好き人間なんだよ」
「……知ってるけど」
「嘘!」

だって聖臣そんな人間と同じ家で暮らせないでしょ?と訴えれば、お前は俺の事なんだと思ってるの、と不機嫌な声が返ってきた。


「……俺もう4年目だし、一緒に暮らしてもなまえのサポート出来るぐらいの余裕はあるつもりなんだけど」

逆じゃない?!わたしがサポートする立場じゃない?という問いかけには、そんなこと期待してないとすげなく返されてしまった。


「お前、全然わかんない」
一緒に暮らすの、もっと喜ぶかと思ったのに俺に気ばっかり遣ってるし、もっと我儘言えよな。今日だって元也の誘いにはほいほい着いてくし、あいつの前で泣いてて本当腹立つ。

今日の彼は饒舌だと驚いて見れば、彼はあからさまにしまった、という顔をした。


「あー違う、別にこんなこと言いたかった訳じゃなくて」
「聖臣すき」
「は?」
「帰ってお風呂入ったらぎゅーってしていい?」
「……いいけど」


約束ね、と言って歩調を速めると佐久早も渋々といった様子でそれに習った。

明日の休日は、この優しくて不器用な人のために美味しい朝食を用意しよう。





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