ブログ | ナノ

SS


↑new

南の島の聖臣くん

 ハネムーンは南の島へ。サファイアブルーの海を眺めながら、ビーチで浮かれた色のお酒なんかを飲んじゃったりして。

 ありきたりだと笑われるかもしれないけれど、小さい頃からの夢だった。でもたぶん無理だろうな、と思う。だってつい最近入籍したばかりの旦那さまは極度の潔癖で、青い空と海が死ぬほど似合わないのだから。

 一応の希望を告げると、聖臣は読んでいる雑誌――若利くんが表紙の月刊バレーボールだ――から顔もあげずに「そこでいい」と言うので仰天してしまった。おずおずと「本当にいいの?」と聞き返せば「……いいって言ってるだろ。くどい」と、これまた不機嫌な声が返ってきたので、口を噤んだ。

 聖臣がおかしい。ホテル(ちなみに旦那さまがこだわりにこだわり抜いた清潔感溢れる五つ星ホテル!)に荷物を預け、そのまま出かけたショッピングモールで見つけたアロハシャツ。

「かわいい、おそろいで着たいな」とダメ元で呟いた私の言葉を躊躇なく拾って買ってくれただけでなく、なんと自分も袖を通してくれた。あの聖臣が! こんな浮かれた柄のものを着るなんて…! 自分で言い出しておきながらビックリだ。

 普段からあんまり写りたがらない写真もたくさん撮ってくれたし、日本では絶対口にしないようなカラフルな色のジュース――ハート型のストロー付のやつ――にも嫌な顔をしなかった。
 あげく、絶対に「ひとりで行ってこい」と言われると思っていたホテルの部屋の庭にある、貸切プールにも付き合ってくれた。もちろん聖臣は入らなかったけど、プールサイドでサマーベッドに寝そべって、小難しそうな本のページをめくっている。サングラスとアロハシャツが全然似合ってないのが、少し笑えた。…そんなことは死んでも言えないけれど。でもやっぱり、今日の聖臣はちょっと変だ。

 ホテルでのディナーは素晴らしかった。あまり強くはないので普段は控えているアルコールも、南国のカラフルなカクテルになって出てくるとついつい飲みすぎてしまう。ジュースみたいに甘くて、見た目もかわいい。私は浮かれていた。非日常的な南国のビーチにも、いつもより優しい旦那さまにも。
 おぼつかない足取りでなんとか部屋まで戻ると「水、飲むか」と聖臣がボトルのキャップを捻って渡してくれる。酔っ払った私はそれですら気分が高揚して、「ふふふ」と締まりなく笑いながら聖臣のお腹にぎゅうぎゅうと抱きつく。

「聖臣が、優しくて嬉しい」

 ぐりぐりと頭を胸に擦り付けるようにしながら言えば「…あっそ」と簡素な返答があったけれど、言葉とは裏腹に優しく頭を梳いてくれた。お酒の力は恐ろしいもので、素面の状態だったら絶対に言えないような恥ずかしいことも口に出してしまえる。

「だいすき」「聖臣と結婚してよかった」「ずっと一緒にいたい」

 たぶん起きたら全部忘れてしまっているだろうから、羞恥心なく言葉が溢れてくる。そんなことを考えていたら突然、唇に優しい熱が触れた。いつもより性急な口付けに応えながら、ああそう言えば、まだシャワーを浴びてない……そう思ったところで記憶が途絶えた。

 朝起きるとベッドサイドの時計は十一時を回ったところだった。痛む頭を抑えながら、あれ? 今日は確か十時からイルカウォッチの予定を入れていて……一気に覚醒。やってしまった。聖臣は……と思って当たりを見回すと、ちょうどバスルームのドアが開いた。

「…おはよう。走ってきの?」
「うん。誰かさんが起きないから」
「ごめん。でも起こしてくれたって……!」
「言っとくけど、俺は起こしたからな」

 ガシガシとタオルで髪を拭きながら、何食わぬ顔で答える。

「…イルカ」
「明日、同じ時間に予約した」
「臣くん様…!」

 あまりの神々しさに思わず手を合わせると「その呼び方やめろ」と聖臣が眉間にシワを寄せた。どうやら私が寝ている間にルームサービスを頼んでおいてくれたらしく、テーブルの上にはサンドウィッチとフルーツ、サラダが並んでいる。まずはシャワーだ、さすがに気持ち悪い。……とその前に。

「ごめんね聖臣、今日の予定なくしちゃって」

 ――昨日は飲みすぎちゃって、面目ないです。

 部屋のテレビを付けて、リモコンでチャンネルを変えている旦那さまに謝る。ハネムーンの初日に寝落ちって、なかなかなんじゃないかな。記憶がなくなる前、なんだか随分恥ずかしいことを言った気もする。気もするって言うか、ぶっちゃけ全部覚えている。私、記憶はしっかり残るタイプみたい。最悪だ。

「お前、わかってるんだろうな」
「…なにが?」

  聖臣はリモコンを置いて振り返る。恐ろしいことに、口元に笑みを浮かべて。とても機嫌が良さそうだ。

「だいすきな俺と、今日は一日一緒にいられるな」

 やっぱり、昨日寝落ちしたこと根に持ってる…!
 真っ赤になった顔を誤魔化すように、私はあわててバスルームに駆け込んだ。

古森とバレンタイン

 2月14日は戦争だ。女と言わず男と言わず、日本中の思惑が入り乱れる日。

「おっすーミョウジ、チョコありがと!」
「……まだ渡してないですよね?」

 放課後、颯爽と体育館に現れた古森先輩は遠慮も何もなく、人好きのする笑みを浮かべながらずいっと両手を差し出した。相変わらずの軽口と愛嬌に苦笑いしながら、私は紙袋の中からラッピングされたチョコを取り出す。

「はい、どうぞ」
「おーサンキュ。…参ったなぁ、本命かぁ」
「あ、普通に義理です。いつもありがとうございます」
「まったまた〜、…これ手作り?」
「普通にお店のやつです」
「おい古森、そろそろやめてやれ」

 もちろんマネージャーである私も例外なくこのバレンタインに乗っかって、部員の分のチョコレートを用意したわけだ。本当は手作りしてもよかったんだけど…ちょうど体育館に入ってきた佐久早先輩の姿を捉えて、思わず目を泳がせた。私が手作りを選択しなかった理由、均等に並ぶ既製品に覚える安心感。
 ど、どうしよう。いやどうしようもこうも、ただ普通に渡せばいいだけだ。古森先輩にそうしたように。他の部員たちにそうしたように。佐久早先輩にはいつもお世話になっているんけだし(そこまでお世話になってるかは微妙だけど気持ち的に、ね)、何もおかしいことはない。
それでも一歩が踏み出せない私に焦れたのか、生意気な後輩に老婆心が湧いたのか。

「だいじょーぶ、佐久早ああ見えて1年間今日を楽しみにしてたから」
「…つまりずっとじゃないですか」

 ほら、早く。情けない顔で古森先輩を振り返ると、行った行ったと言わんばかりにヒラヒラと手を振られた。普段ふざけてばかりのくせに、たまにこの人には全てお見通しなんじゃないかと思うことがある。一瞬だけあった目は優しくて、でもやり切れなさにも似た色を宿していた。
その瞳に背を押されるようにして、一歩、私は踏み出した。

「佐久早先輩」


***


「だからぁ、ナマエのパパとママのキューピットは お・れ・な・の!」
「え〜〜」

 賑やかな笑い声がリビングに木霊する。母親に促され、ナマエと呼ばれた少女は、幼い頬を赤らめながらラッピングされた包みを差し出した。

「はい。もとやくんにはナマエがチョコあげるね」
「おーありがとう!ナマエは優しいなぁ」
「これね、ママと作ったの」
「そっかそっか、手作りか〜」

 隣でおもしろくなさそうに会話から外れている少女の父親をチラリと盗み見て、古森はふふんと勝ち誇った笑みを浮かべた。どうだ、ナマエのこの懐きっぷりは。

「…古森先輩、これ何チョコだと思います?」
「ん?」
  ねぇ、ナマエ? かつての後輩は今や立派な一児の母に。はにかむ娘の顔を覗き込むようにして、言葉を促す。

「これはねー、ほんめいチョコ!もとやくん、だいすき」

 2月14日。老若男女、様々な人々の思惑が交錯する日。幼い少女の幼い想いに、騒然とするこの部屋にも、カカオの香りは甘くとろける。

「な、ナマエ〜〜〜!!!!」
「うるさい、うちの娘に触るなチョコを置け」

佐久早とバレンタイン

「今年は来ないね、あの子」

  2月14日の校内は、どこか浮き足立ったようなざわめきに溢れている。チョコレートをもらえる予定があってもなくても、この日が特別な意味を持っていることに違いはない。特に男子生徒にとってこの日は、どんなに平静を装っていても、嫌でも意識を持っていかれる、魔の日だ。義理チョコ友チョコに忙しくも楽しげな女子達とは違って、男の方が繊細なのだと古森は思う。
 クラス全員、部員全員に配ってくれるならまだいい。仲の良い男子だけとか、席が近いからとか、忖度があるから不幸が生まれる。あいつはもらえたのに、俺はもらえなかった。もらえなかった奴には、もらった奴が気を遣う。何度も言うようだが、男は女子が思う以上に気にしいで繊細な生き物なのだ。
 そのプレッシャーに耐えかねて、朝から登校してきた女子に「俺の分ある?」「チョコちょうだい!」と、直撃するやつ、バレンタイン?俺は全く気にしてませんけけど?みたいな澄まし顔で内心そわそわしているやつと、その対応は様々だ。
 そしてそれは、隣を歩く従兄弟にも当てはまるわけだけど。

「まぁ、聖臣つれないもんなー」

 俺だったら、初回で心折れるもん。と言いながら、さっきから返事を寄越さない佐久早を横目で確認する。思った通り、古森に対して完全無視を決め込む従兄弟は、マスクで顔半分を覆い、唯一布で隠れていない目元からもなんの感情も読み取ることは出来ない。
 けれど古森は知っている。彼が今朝から我関せずを装いながら、ずっと1人の後輩が来るのを待っていたことを。

 年明けから受験のため3年は自由登校期間だ。古森も佐久早もいわゆるスポーツ推薦で進路はとっくに決まっていたし、特に学校に来る必要はないのだけれど、身体が鈍ることを嫌って佐久早は引退後も毎日部活に顔を出す。さすがに朝練はよくね?と思う一方で、どこまでも従兄弟に付き合ってしまう自分に苦笑してしまう。
 そんな仙人のような生活を送る佐久早が、今日は休み時間の度に教室の出入口に視線をやるのも、移動中にそわそわと周囲を見渡すのにも気付いていた。古森以外の他人には分からないくらいのさり気なさで。
 ははぁ、なるほど。今年はまだあの子が佐久早にチョコを渡しに来ていない。中学の頃から佐久早の大ファンで、よく練習を観に来てた子。さすがに高校まで追いかけてきたときは驚いた。根性入った子だなー、もしかしてもしかすると、聖臣も絆されるかも。という古森の予想を裏切って、ここまで何も無かった訳だけど。

「佐久早先輩、バレンタインです!」
「要らない」
「今年はもらってください〜〜!」
「だから無理」

 毎年彼女と佐久早の攻防を生暖かく見守るのが恒例になっていて、なんだか今年は物足りない。いつも朝一で来てたのに。放課後まで焦らす作戦か…? あの子、駆け引きとか出来るタイプじゃなさそうだけど。

「風邪で休んでるのかもね」
「………」

 放課後になって部活が終わっても、彼女は来なかった。無言を貫く不機嫌な従兄弟を持て余しながら、これはもしかしたらもしかするのかも…?

「おい」
「さ、佐久早先輩…?」
「お前、なんで来ない」
「え?」
「昨日」
「昨日…?」

 翌日、2年の教室に乗り込んでいく従兄弟の姿を見て、古森の疑念は確信に変わった。

「チョコ、毎年渡しに来てただろ」
「…先輩、いつも要らないって言うじゃないですか」
「今年はまだ言ってない」

 あー、これはまだ時間がかかりそうだな。

 それでも見えた進展の兆しに、古森はやれやれと肩をすくめた。

及川と七夕

“東北は梅雨前線の影響で、日曜日ころまで梅雨空が続きそうです。今日7月7日は七夕ですが、あいにくの曇り空になるでしょう”


ふんふふんふふーん♪
鼻歌交じりにスキップを踏みながら体育館に現れたのは、青葉城西高校ボレーボール部の大王様こと及川徹だ。

「なんだあれ、どうした」
「キモ」
「浮かれマックソ川」
「マッキー岩ちゃん、それただの悪口だから!」
主将の及川が同期に雑な扱いを受けるのは、もはや恒例になりつつあるので、特に気に留める者はいない。それでも、1年の金田一が気を遣って口を開いたのをみて、優しい子だなぁと思う。

「…で、何かあったんスか?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました〜!今日は何の日?」
「7月7日・・・七夕?」
「あー、部室棟の短冊っすね」
納得した、と言わんばかりに金田一が頷くのを、3年部員はきょとんとした顔で眺めている。
部室棟の短冊というのは、毎年7月になると、生徒会が中心になって校内各所に設置する笹と短冊のことだ。お手軽七夕セット。青城の生徒なら誰でも自由に願い事を書いて吊るすことができる。

「クラスの女子が騒いでましたよ」
なんか、部室棟の笹に“及川先輩と両想いになれますように”、って短冊が結んであるって。金田一の言葉に、及川がふふん、と勝ち誇った顔をする。

「もう告白されたも同然だもんねー!俺ってば後輩女子にモテモテだからー」
「まじか、どんな子?」
「かわいかったらラーメンおごりな、及川」
「お前はまずどうして同学年の女子にモテないのか胸に手を当てて考えてみろ」
「岩ちゃん、モテないからって嫉妬はやめてね」

途端に色めきたつ同期たちを尻目に、私は溜息を吐いた。男子高校生ってどうしてこんなに単純なんだろう。コートの中とは違った幼い一面をみせる彼らは、いったいいくつの顔を持っているのか。

「マネさんもみました?」
ボーっとしていたところを、急に話を振られて思わずどきりとする。
咄嗟に口をついて出てきた「みてない」という素っ気ない返答にも、気のいい後輩は気を悪くした様子もなく「そっすか」と頷く。

金田一、嘘吐いてごめんね。心の中でそっと謝る。本当は昨日みてしまった。追加のドリンクを作りに水道に向かう途中、2年の女の子2人組みが楽しそうに短冊を吊るすのを。
テニス部の、結構かわいい子だったよ。たぶん部活、頑張ってる子なんだろうね。よく日焼けした褐色の肌に、笑うと白い歯が眩しかった。
単純にうらやましかった。伏字でも、イニシャルでもなく「及川先輩」と実名で好意を示せる若さと素直さが。あわよくば本人にバレてしまっても構わない、むしろ少し狙ってますと言わんばかりの傲慢さと勇気が。私にはないものばかりだったから。

「ほらほら、せいれーつ!そろそろ練習始めるよ」
「お前が騒いでたんだろうがクソ川ボケェ」


“Oと両想いになれますように”

どうにもならない現状をどうにかしたくて、密かに恋の成就を願ったことが私にもあった。2年前の七夕、さすがにここまでは青城生はこないだろうと思って、地元の商店街のはしっこに用意された笹に気まぐれに結んだ短冊。見られたところでイニシャルだしね、テニス部のあの子には二重の意味で負けてるなぁ。
 こんな青くさい痛みも若かった、青春だったと振り返る日が、いつか来るのだろうか。

朝のWSでお天気お姉さんが言っていた通り、自主練が終わる時刻になっても、ここ仙台の空は曇ったままだった。まさしく、星もない夜ってやつ。なんか、バカみたいじゃない? 見えもしない天の川にこぞってお願い事なんかしちゃってさ。いっぱしの悲劇のヒロインぶっても、似合わないっつーの。

「ねえ及川」
「なぁに」
「すきって言ったら驚く?」
「うん、驚くおど……エッ?!」

大王様は体育館のカギを閉めたままの形で固まっている。青天の霹靂、寝耳に水。驚愕の表情を浮かべた及川をみて、私は笑った。あれ、女の子に告白されたら嬉しいんじゃなかったっけ。マネージャーって別枠?
まぁいいか、大王様のこんな顔を知っているのは、たぶん私だけだから。

「ちょ、ちょっと待って。今のってどういう――」
彼の焦った声を背中に聞きながら、さてどうしたものかと考える。
星に祈るのは、もうやめた。雲の上ではきっと今、顔も知らない織姫星と彦星が、たまの逢瀬を楽しんでいることだろう。

星海とマネージャー

「龍はみんな優しいよ。優しくて愚かだ」

ずっと昔にみた、アニメーション映画のワンシーンを思い出す。
午後の陽射しが差し込む体育館、2チームに別れて行われるミニゲームの最中。いつものように、マネージャーの私は得点係で、いつものように星海はドンと床を蹴って飛び上がる。確か、2年に上がったばかりの春だった。1年のときから見慣れた横顔が、その時突然に得体の知れないもののように感見えて、私は思わず瞬きした。彼の特徴的な大きな目に春の光が反射して、まるで龍の眼のごとくきらきらと眩しかったのだ。

あ、この人昔、龍だったことがあるじゃないかな。お母さんのお腹にいたときよりもっと前。たぶん星海が星海になる、ずっと前に。
龍なんて架空の生き物を信じているわけでも、もちろん見たことだってないくせに、その時そう思った。私はどくどくと波打つ脈を感じながら、恐る恐る左右を見渡す。よかった、誰も星海が龍だって気付いてないみたい。
それは春の体育館で私だけが知っていた、小さな秘密だった。


***


最後の春高が終わっても、星海は泣かなかった。一方の私は、試合に出ていたわけでもないのに選手顔負けの大号泣で、整列が終わってからもグズグズと鼻をすすっていた。本当に終わってしまった。永遠にも思えた、私たちの春が。
マネージャーがいつまでも浮かない顔でいる訳にはいかないので、トイレで顔を洗って気持ちをリセットすると、チームメイトが待つロビーへと急ぐ。辿り着いた集合場所には、待ち構えるように腕組みをした星海が立っていた。

「俺は世界一になる」

唐突に何を、とは思ったけれどすぐにこれは彼なりの励ましなのだということに気付いて「うん」とだけ返した。それ以上喋ったら、また泣いてしまいそうだった。星海は卒業後、社会人Vリーグの強豪・シュヴァイデンアドラーズに内定している。彼が世界の“小さな巨人”になる日もそう遠くはないだろう。


「光来くんに告白でもされた?」

荷物の整理をしていると、さっきまでの殊勝な顔つきはどこへやら、すっかりいつもの調子を取り戻した昼神が、私の顔を覗き込んできた。

「…そんなんじゃないけど。星海、世界一になるんだって」

ありのままを伝えれば、不動と呼ばれる男の口元がヒクリと震えた。

「…光来くんは、バカな上に優しいからね」

私は小さく息を呑んだ。そして次の瞬間、くすくすと笑いが止まらなくなった。怪訝な顔をするチームメイトを尻目に、私は笑い続ける。
なんだ、昼神も気づいてたんだ。星海が龍だって。

古森先輩と卒業式

「こ、古森先輩、第二ボタンください…!」
「えー、どうしようかなー」

緊張で頬を紅潮させた後輩の顔がみるみる萎んで行くのをみて、悪いとは思いつつもプッと吹き出してしまった。ボタンごときにそんなに必死にならなくても。

「……うそうそ!はい、どーぞ」

三年間着古したブレザーのボタンはとれかかっていて、力を込めると簡単に糸が千切れた。
「ああ、ハサミ…」とかなんとか苗字がぼやいていたけれど、卒業してしまったら二度と袖を通すことのないものだ。今さら穴が空いたってどうってことない。

「ありがとうございます…!大事にします」

苗字はボタンを厳かに受け取ると、清潔そうなハンカチに包んでポケットにしまった。
その様子があまりに嬉しそうだったので、ああよかったなと少し感慨深く思った。
なんの接点もない後輩が卒業式の日に3年生に声をかけるのは至難の業と言える。卒業生がクラスメイト、部活仲間との別れを済ませた後に、校門でつかまえるしかない。
だからその前にそれなりに喋る仲のクラスの女子や体育が合同だった他クラスの女子から気まぐれに、「第二ボタンちょうだい」と強請られていたのだけれど、なんとなくはぐらかした。
確信はなかったが、苗字が待っている気がした。
たかがボタンに価値があるとは思えなかったが、こんなに喜んでくれるならまぁ、俺のボタンは行くべき人の手に渡ったのだろう。
苗字はなぜか俺に懐いていて校内ですれ違えば走って話しかけに来るし、大会も練習試合もただの練習でさえよく観に来ていた。
年頃の男女だ、自惚れでなければ苗字はたぶん俺の事がすきなのだろうし、こちらとしても慕ってくれる後輩を憎からず思っていた。
でも彼女は一度も俺にすきだとも付き合って欲しいとも言わなかったし、もちろんこちらからも言わなかった。………なんとなく、このくらい距離が一番楽だと思っていた。


***


「それじゃ先輩、大学でも頑張ってください」
「ありがと、苗字も元気で」

そんな当たり障りないやりとりをして、先輩を見送った。本当は今日、賭けをしていた。先輩が振り返ってくれてら、すきだと言おうと。一度だけでいい、振り返ってくれないだろうか。
だけどやはり先輩はいつもと同じように、わたしにもこの学校にも未練なんてまるでないといった様子で去っていくのだ。
振り返ってくれないので、わたしには追いかけるしか選択肢がない。


***


あの春の日から10年の歳月が流れて、わたしの前に跪くのは、3ヶ月前に別れた恋人だった。

名前じゃなきゃダメだった、もう一度やり直してほしい、今度は結婚を前提として。と彼は言った。

何をバカな。別にわたしじゃなくても上手くやれる気がすると、チームメイトに漏らしたことを知っていた。悪気はないのだろう、でも耐えられなかった。それが決定打だった。別れ話をしたときも、彼は驚いた様子で理由を尋ねてきたけれど、最後は振り返らなかった。

「……信じられない」

そう漏らすと彼は「だよなぁ」と困ったような傷付いた顔で笑った。
わたしは昔からこの顔に弱い。たぶんあとひとこと、もうひとこと何か言われたら家にあげてしまうし、差し出された指輪を受け取ってしまうだろう。

「もう一度だけ、振り返ってほしい」そう願う側はいつもとてもつらいので、大好きな先輩にそんなことはさせられないと思った。

佐久早と卒業式

「佐久早、握手して」
「……なに、急に」

高校の卒業式の日、わたしが差し出した手を前に彼は訝しげに眉毛を寄せた。わかる、他人の手なんて握れないよね。だけどこちらも、今日は引いてやる気はない。

「いいじゃん、最後なんだから。ちゃんと除菌したよ」

ほら、と言ってポケットに忍ばせた除菌ジェルを顔前に差し出す。
制服のブレザーには卒業生を示す花を模した紅白のリボンが留められていて、この人はおめでたい雰囲気全開の紅白のリボンが世界一似合わないなと思った。
頑なに手を引こうとしない部活のマネージャーを前にして、佐久早はハァと溜息をひとつ吐くと渋々ポケットに突っ込んでいた手を取り出した。
暦の上では春とはいえ、3月上旬の東京はまだ風か冷たい。
ゆるい力で、握るというより包み込まれたという方が正しい表現になる。大きな手からは温もりが伝わってきて、確かに彼が今生きて鼓動していることを感じた。
握られた右手にさらに左手を重ねる。佐久早はビクッと肩を揺らしたけれど、特に払い除けられたりはしなかった。さすがにこの男も、3年間一緒に過ごしたチームメイトをぞんざいには扱えないらしい。

神様、どうか。どうか彼を守ってください。
バレーの神様でも、何の神様でも構いません。

すきだと、このたったひとことが言えない臆病自分の代わりに、彼の幸福を祈った。


***


それから10年の歳月が流れ季節はまた春になった。
結婚式の日、佐久早の胸元につけている一輪のブートニアをみて、やっぱりこの人はおめでたいものが世界一似合わないな、と思った。
差し出された手をとりながら、これからは2人で幸福を創っていかなければと胸に誓う。

神様には、もう祈らなかった。

古森先輩と後輩

パリン。
心が砕けるというのは、例え話だと思っていた。昨日まで。

あ、古森先輩だ。ラッキー、朝から会えるなんて。
………嘘だ。本当は朝練終わりの先輩に偶然を装って出会すことを目論んで、わざわざ2年の教室の反対側にある体育館前の自販機でジュースを買うことが日課になっている。
今日は会えるかなと、うきうきしながら廊下を歩いていると、ちょうど着替え終わった彼が出てきたようだった。
「こもりせ……」
おはようございます、と続くはずの言葉は出てこなかった。
彼の視線の先に、半年前に別れたと噂の吹奏楽部の副部長がいる。小柄で華奢で、女の目から見ても守ってあげたくなってしまうようなかわいい先輩。吹奏楽部員は自主練と称して、校内至る所で楽器を鳴らしている。こちらも朝練を終えたところなのだろう。体育館へ続く渡り廊下で譜面を片付けている最中だった。

好きだから、分かってしまった。だって、ずっと見てきたんだから。ふたりの中で、恋人という関係は終わってしまったのかもしれないけれど、たぶん、古森先輩の中では、まだ終わっていない。
振り返ってくれないだろうか。一瞬だけでもいい。譜面台と楽器を抱えて遠ざかっていく彼女の背中を見つめる彼がそう思っているだろうことが手に取るように分かった。長いようで一瞬の出来事だった。

「おー苗字、はよ」
わずかに遅れて自分への呼びかけに反応した先輩が、わたしに気付いて片手をあげた。
どしたー?今日早いじゃん。
不自然なほど自然に、まるで何事もなかったように振る舞うこの人を、今日ほど愛しいと思ったことはない。そして哀しいと思った。

パリン。
その時、薄氷を踏見抜いたような澄んだ音を、確かに聞いた。おかしいな、別にフラれた訳じゃないし、先輩今フリーだし、割と仲良い後輩のひとりだと思うんだけど。
生まれて初めて、わたしは自分の心が砕け散る音を聞いた。たぶん、この人はわたしを好きにならない。早く諦めてしまわないと、ずっと苦しい。

分かっているのに砕けたハートが乱反射して、いつまでもキラキラと眩しいのだ。

古森とガチファン

「ほらあの子、また来てる」


チームメイトの角名が指指す方に視線を向けると、ブルーのうちわに白い切り抜きというEJPカラーで古森≠フ文字。

最近はもう見慣れた光景になりつつあるので 「ああ、うん」と適当に相槌を打つ。俺のファンらしい彼女、ーー通称うちわちゃんは、全国各地で行われるVリーグの試合の大半に足を運んでくれるありがたいお客様だ。
俺が視線を向けたので、パッと第三のうちわが登場する。まさに匠の技。銀河一すき≠フ文字に思わずブフォッと盛大に吹き出す。初めて目にするうちわだ。……新作じゃん。

「古森のその笑い方、どうかと思う」という隣のチベットスナギツネみたいな同期のツッコミに「俺は角名の笑い方のがキモいと思ってるよ」と返せば、オッホという笑い声なのかすら分からない音が聞こえてきた。やっぱキモいじゃん。

今日もありがとう、の意味を込めてうちわちゃんに向かって軽く手を振ると、彼女はその場に崩れ落ちる。 ………大げさだな。


「銀河一すきだって、壮大な愛だね」
「そだな」


今日も飄々としているチームメイトと肩を並べ、ロッカールームへの道を歩きながら考えた。
銀河一と宇宙一って、どっちが大きいんだろうなぁ。

宮侑に片想い

金木犀が香る季節になると、必ず思い出す人がいる。

金木犀みたいな髪色のその人は、無駄に整った顔をしているくせに、口喧しくて乱暴で、いつも人の輪の中心にいる。

いかにもカースト上位の派手めな女子や、運動部の男子生徒に囲まれている彼が苦手だった。
確かにかっこいいけど、絶対にすきにはならない。………向こうだってそうだろう。
ごくごく平均的な容姿をした、ことなかれ主義の自分と彼とは、絶対に交わらない世界線にいる。
そう、宮侑が苦手だった。
文化祭の準備に追われる10月の夜、金木犀が香る中庭で、静かに泣く彼を見るまでは。


人通りの少ない中庭のベンチに座って頭からすっぽりスポーツタオルを被ったその人を、宮侑だと一目で認識できたのはなぜだろう。

それはとても深く、静かな慟哭だった。
この距離と暗さでは彼の表情まで窺い知ることは出来なかったけれど、確かに泣いていると思った。

後から銀島に聞いた話では、この日は双子の片割れが高校でバレーを辞める辞めないで大喧嘩をした日だったらしい。そして、学校一の人気者、宮兄弟の誕生日でもあった、と。


宮侑はうるさくて口が悪くて粗野で、女の子を「喧し豚」なんて呼んだりする。
すごく苦手だ。でもなぜだろう、彼のことを目で追ってしまうのは。かわいい彼女が出来る度に胸が痛むのは。

“なんとなくすき”というのは厄介だ。
だって“なんとなく”は言葉で説明出来ない、もっと心の奥底の、1番動かしがたい感情をそのまま表したものだから。


***


秋の風が運んできた香りに思わず足を止める。
あの花はどこにあるのだろう。
姿が見えなくても、どこで咲いているのか分からなくても確かにある。圧倒的、存在感。
まるで彼のようだ。

でもあの人ついて思い出すときに真っ先に浮かぶのは、あの勝気な眼差しでも、好戦的な笑顔でもない。

秋の夜、中庭で深い悲しみを湛えていた彼と、金木犀の香りだ。

[ << | >> ]

トップページへ戻る

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -