悩む男


さようなら、そう告げて去っていく。
まってくれなんて言う間もなく、手を伸ばす間もなく、ぐにゃりと歪んだ視界の向こうに消えていく。
「ミツ、バ」
ふと、頬に冷たい何かが触れて目を開けた。
そして、数度瞬きをすれば、今度は熱い何かがこめかみの辺りを伝っていく。
辺りは暗くて、何も見えなかった。
それでも、寝起きで視界がぼんやりしているのと暗いのとが重なっても、俺の頬に触れているのが人の手だとは理解できた。
それは、枕元に正座をして俺の方を見下ろしている。
ミツバだろうか、真っ先に浮かんだ存在はそれだった。
「ミツバ、なのか」
幽霊の類いは正直に言えば大の苦手で、考えるだけでも鳥肌が立つ。
だが、何故かミツバの幽霊だと思えば何も怖くはなかった。
それどころか触れたいと、見たいと、喋りたいとすら思った。
その影は、俺の問に首を縦に振って肯定する。
「ミツバ」
今度は、そいつを呼ぶために名前を呼んだ。
これはミツバの幽霊なのだと、わかってもやはり怖いとは思わなかった。
だが、返事はない。
「話せないのか」
また俺が問うと、ミツバは再度首を縦に振る。
どうやら、話すことはできないらしい。
「触れるのか」
今度の問には、一瞬ミツバの影は固まったあと、首を横に振った。
「そうか」
俺は、敢えてさっき頬に触れた手には気づかないフリをして、そう返した。
目を瞑って、ミツバは死んだのだと再度自覚すると、胸の奥がじくりと痛んだ。
「お前が死んでから、ずっと痛ェ」
困らせたいとは思わなかった。
それでも、これだけは聞いてほしいと思った。
「俺はあのとき、お前を連れていけばよかったんだろうか」
す、とミツバの影に手を伸ばすと、それは身を引いたが、やがて諦めたように俺の手を細い手で掴み、頬に当てさせた。
「冷てェ」
ひんやりとしていて、死者を連想させる。
ああ、違う。
もうコイツは死んでるんだ。
ミツバはもう死んだのだ、そう改めて自覚させられた。
「これが、今のお前の体温なのか」
うっすらと目を開けてそう尋ねると、ミツバは肩をすくめたあと頷いた。
あの体温は、もう失われてしまったのだ。
俺は連れていくべきだったのだろうか。
俺があのとき、ミツバを受け入れていればミツバは死なずにすんだのだろうか。
せめて、人並みの幸せを感じられたのだろうか。
「ミツバ」
消えてしまいそうなぼんやりとした影を呼ぶと、手に触れている頬が、手が、カタカタと震えているのが分かった。
今にも消えてしまいそうなミツバに、とうとう堪えきれなくなる。
バッと身を起こし、ミツバに両腕を伸ばして抱き締めた。
ミツバが身を固くしたのがわかったが、もうどうしようもないような気になって、強く強く抱擁した。
「ミツバ、ミツバ」
うわ言のようにその名前を呼ぶと、ミツバはとうとう嗚咽を漏らしはじめる。
「ちがう」
声がした。
次の瞬間には、ぐいっと押し倒されていた。
胸の上に手を付き、俺を見下ろすミツバ。
こんなに力が強かっただろうか、それとも死して強靭な肉体を手にいれた、なんて。
そんなわけないのに。
押し倒されたことで近くに見えたミツバの顔は、ミツバではなかった。
「総悟」
ぽたりと顔に何かが落ちてきた。
それは手や頬と違い熱い何かで、先ほど俺も落とした涙だと理解する。
「十四郎さん」
総悟が、震える声で俺の名を呼んだ。
胸の上に置かれた手が、ぎゅっと拳を作るのがわかる。
「十四郎さん」
それでも、総悟はまだ俺の名を呼ぶ。
声は泣きそうで弱々しく、それがまた一層ミツバのモノに近づいている…なんて今のコイツに言えるわけがないな。
「総悟」
びくり、と大袈裟なほどに総悟が跳ねる。
「ち、が…ちが、う」
震える声で否定する総悟は、あくまでもまだミツバでいるらしい。
じゃあ、なんでさっき"ミツバ"と呼んだとき否定したのだろうか。
そんなの簡単だ。
「総悟」
腕を再度伸ばす。
今度は総悟に向かって、総悟の名を呼び腕を伸ばした。
うでのしたに手を伸ばし、ぐいっと引き寄せると胸に収まった。
僅かな抵抗をする総悟だったが、強く抱き締めれば、やがて全身から力を抜いて、呟いた。
「すいやせん」
総悟らしくない、泣きそうな声。
「すいやせん」
鎖骨の辺りに埋められた頭を撫でると、またそう呟いた。
かかる吐息がくすぐったい。
「ごめんなさい」
今度は泣きながら、強く言った。
「ごめんなさい、土方さん」
やっと俺をいつもの通りに呼んだことに、どこか安堵を覚えながら頭を撫でる。
「俺が、生きてごめんなさい」
俺の着物を両手で掴んで、絞り出すような声でそう言った。
「幸せにできなくて、ごめんなさい」
もう何度目の謝罪だろうか、コイツはどれ程の罪悪感を背負って生きていたのだろうか。
「お前は何も悪くないだろ」
撫でていた頭を、強く胸に押し付けた。
ひくっ、と息を止めた総悟から、段々嗚咽が漏れ始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
噛み殺したような鳴き声をあげながら、総悟は何度もそう謝った。
何度も何度も、ずっと苦しかったのだろう。
それでも俺はどうすることもせず、気づいていたのに、ただのうのうと居てしまった。
謝るのは俺の方だ。
「ごめんな、総悟」
こちらも存外上擦った声がでた。
その声にぴたりと泣き止んだ総悟は、しかし弱々しく「うっせェ」と哭いただけだった。
「俺は、どうすればよかったんだ」
ぽつりと呟いたその声は、誰に向けたものなのか、もう自分でもわかっていない。







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