「土方さん、入っていいですかィ」 宴会が終わった夜、借りていた宿の一室で休んでいた土方を尋ねてきたのは、五年間姿を消していた沖田だった。 襖の前で、ご丁寧に入っていいかと問う沖田は、以前までそんなことをしなかった。 五年間俺達から、真撰組から離れていたことで、世間を知ったのかもしれない。 これが当たり前であっても、それが沖田なら驚くべき進歩なのだ。 「ああ」 寝間着で布団に寝転がって、ぼんやりと考え事をしていた土方は、片手をついて上半身を起こして返事を返す。 「失礼しやす」 更にそんな言葉までつけて部屋に入ってきた沖田は、後ろ手で襖を閉めた。 まだ、昼間の返り血がついたままの格好だ。 後頭部で結わえた、長くなった髪を揺らして沖田は土方の布団の前まで歩いてくると、そこにらしくなく正座をする。 「どうしたんだ」 らしくない沖田の様子に、土方は声をかけた。 「特にどうということはありやせん」 沖田は応えるが、すでに土方はそんな沖田をみながら考え事をしていた。 五年間、その時間が沖田の外見を変えたとしても、性格まで変わってしまうことはあるまい。 そう思い直して、だが沖田につられて胡座をかいてから、枕元に置いておいた煙草を手に取る。 一本を取りだし、くわえようとしたとき、ふと思い立ってそれを沖田に向けた。 こいつも成人しているし、くわえていた棒は武器として昼間は扱っていたが、別のものなのかもしれない。 だが、一瞬きょとんとした沖田は苦笑いをして、顔の前で手を横にふった。 「まだ煙草は吸ったことないんでさ」 だからいりやせん、付け足してから、目を細めて懐かしむように、一緒に土方が持っていたマヨネーズ型のライターを見つめる。 「あんたは変わらずニコチン野郎ですねィ」 沖田は薄く笑ってから、人切りとは思えないほど細く白い腕を頭の後ろで組むと、そのまま後ろに倒れた。 足を投げ出し、どんっと土方の左右に踵をつけて、目をつむった。 「うっせぇ」 ニコチン野郎と呼ばれた土方も、それほど気を害された様子はなく、煙草に火をつけた。 「色男になりやしたね」 ぽつり、沖田は横向きに寝返りをうって、足元の土方を見下すと呟いた。 「女がほっとかねェでしょう」 からかうように笑うと、煙草をはなして白い煙をふぅーっと吐いてから 「まぁな」 と、こちらもふざけるように答えた。 だが、その答えに沖田は一瞬だけ、酷く傷ついたような顔をした。 土方はそれに気づかず、続ける。 「それより、てめぇこそその頭どうした」 吸っていた煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草をくわえて火をつけながら、今度は土方が尋ねた。 立ち上がり、沖田の頭の横までいくと、そこで再び胡座をかく。 房を掴むと、くいくいと軽く引っ張った。 少し考えるように黙っていた沖田だったが、やがて口を開く。 「別に、どうということはありやせん」 さっきと同じような返事をしてから、引っ張るなという意味なのか、沖田は軽く髪を引っ張る土方の手に触れた。 白く細い指が土方の手に触れると、土方はそれをどうとったのか、髪を括っていた紐をしゅるり、と解いた。 ぱさりと脚に落ちた髪の毛を、土方は目を細めて慈しむようにすいた。 土方がそのまま丸い頭を撫でると、昔からよく撫でていたこともあり、髪が長くなったことを余計に感じさせられ、ふと寂しくなって手を離す。 五年間、五年間。 短いととるか、長いととるか。 それこそ価値観や充実感の違いによって、人それぞれだろう。 「総悟」 低い声が五年ぶりにその名前を呼んだ。 沖田の身体に、ぞくぞくと何かが走り、ぬけることなく留まって心臓の鼓動を乱す。 だがそんな沖田の心中を、土方が知るはずもない。 沖田の肩をつかんで仰向けに押し倒し、その上に馬乗りになっていた。 突然のことに驚いて目を見開いた沖田だったが、すぐに目を合わせないように視線をさ迷わせはじめる。 「ぁ…どう、したんですかィ」 ひくつく喉から声を絞りだした沖田は、返事がない土方を見て、迷いながらも上半身を起こそうとする。 しかし、土方はようやく動いたかと思うと、沖田の腕をがっしりと押さえつけ、そのまま顔を首筋へと埋めた。 「…ひっ…」 びくりと体を跳ねさせた沖田は、くすぐったいのか頬を畳にこすりつけ、気を紛らわそうとする。 やめてくれ、その一言が出ないことが、本当はこうされることを望んでいたことが、急に恥ずかしくなった。 「…馬鹿が」 ふと、土方が呟いて顔をあげた。 すっかり涙目になっていた沖田は、その言葉に反応して、正面の土方に目をやって、息を飲んだ。 「…は」 声にならない声が漏れ、唇が乾いていることに気づく。 だが、そんなことはどうでもよくて、ただただ沖田は目の前の男から目がはなせなかった。 それは、言うなれば深い深淵、誰にも覗かせようとしない、暗く淀んだ瞳。 前髪が上がったことでよく見えるようになった、苦しそうに寄せられた眉根と哀しそうに下がった眉尻、自嘲めいた唇は、片方がクッと持ち上げられている。 こんな表情は、見たことがなかった。 「土方、さん…」 気づけば名前を呼び、緩んだ手から腕を引き抜いて頬に添えていた。 「そんな顔、しねぇでくだせェ」 何故かそう言わずにはいられなかったのだ。 その言葉に、土方はふっと笑う。 そして、唇を一度噛んでから、今度は目を細めてらしくなく微笑んだ。 「お前は、ミツバにそっくりになったな」 ガヅン、鈍器かなにかで殴られたような衝撃。 痛みこそないが、決定的な何かが、沖田の全神経を停止させるほどの威力をもって、身体中を駆け巡った。 水中にいるときに聞こえるような音が、沖田を支配して、どうにも上手く体を操れなくなる。 「俺、は…」 そう沖田の口が無意識に動き、腕がパタリと落ちたのと同時、土方が目を見開いた。 だが、それに気づかず虚ろな目で土方を見つめていた沖田は、言葉を続けた。 「髪、ほら。伸ばしたんですぜ」 動かないままの土方に、沖田は更に続ける。 「ねえ、土方さん」 ふと、沖田の顔から表情が消えた。 「俺は、少しでも女っぽくなれやしたか」 ミツバの様な優しい、だがどこか諦めきった様な笑顔で微笑む沖田が、そこにあった。 と、同時。 ふわり、沖田を煙草と甘い匂いが包んでいた。 昔から大好きだった、優しい大好きな匂い。 土方は、沖田を抱きしめていた。 細い背中に腕を回して、強く強く抱きしめていた。 「ぁ…」 ぽろぽろ、気づけば大粒の涙が、沖田の頬を伝っていた。 明かりが、涙にきらきらと反射して輝く。 滲み、歪む視界で薄目をあけて、流れはじめた涙を止めようと、沖田が土方から離れようとしてもがいた。 しかし、土方は余計に強く抱きしめて、片手で再び頭をなではじめる。 目を見開いて驚いた沖田は、一瞬息をつまらせたが、一度唇を噛み締めて堪えるような動作をしたあと、とうとう声をあげて泣き出した。 土方の胸元に額をこすりつけ、寝間着の襟にしがみついて声をあげる。 「…うぁあ"…ああ"ああ…ぅああ」 沖田が、土方の前で涙を流したのはいつぶりだろうか。 武州をでる前だったということは確かだから、とても幼い頃、ということになる。 今土方に泣きつく沖田は、図体だけ大きくなっても土方からすればまだまだ子供なのだろう。 そのまま沖田は泣き続け、時折「なんで自分は男なのか」だとか「ずっと会いたかった」だなんて、普段は言わないような言葉を吐いた。 やがて啜り泣きをはじめた沖田は、土方がそっと体を離して覗き込むと、真っ赤に腫れた瞼を下ろして眠っていた。 昔はほとんがこんな感じだった気がする。 土方は立ち上がると、沖田を抱き上げて電気を消し、床にそっと沖田を寝かせた。 枕元に胡座をかいて、煙草をくわえて火を点ける。 暗闇にぼんやりとした赤が浮かび上がった。 フーッと煙を吐き出した土方は、眠る沖田を虚ろな目で見つめながら呟く。 「報われねぇな」 静まり返った部屋のなか、寝息すらそれにはこたえてくれなかった。 ゆっくりと目を覚ました。 窓から射し込んでくる日光が眩しくて、血の匂いが残る袖で目元を覆う。 全身に張り付いた倦怠感は、きっと昨日あんなに泣いたせいだ。 武州を出る少し前に、近所の年上の嫌な奴らにぼこぼこにされそうになった。 そのとき偶然通りかかった土方に助けられたことがあったのだが、それが奴の前で涙を流した最後だと思う。 ぼんやりと靄がかかったままの頭で思い返して、ここはどこだろうと首を傾げた。 起き上がって辺りを見回してみれば、灰皿があることや、タバコの匂いがすることから、土方さんの部屋だと思い至る。 泣きつかれて寝たのだろう、自嘲気味に口角を上げれば、これ以上ないほど惨めな気分になった。 「まるで悲劇のヒロインでさァ」 呟いて、顔にかかった鬱陶しい髪の毛をかきあげる。 少しは女みたいになれたかと思った。 これで、あの人は俺を少しでも違う目で見てくれるのではないか、愛してくれるのではないか、と甘い考えを抱いていた。 期待していた、待ち望んでいた、聞きたかった、声は。 ぷつぷつ、と考えていたことがまとまらないままで消えていく。 あの人は、結局俺を見てはくれなかった。 それだけがただ一つ、確かな事として記憶の中で蠢いている。 あの人が愛しているのは、愛するのは、きっと後にも先にも姉上だけだろう。 弟であるのなら、姉上をそこまで想ってくれる事に対して感謝すべきだ。 「でも」 頭の中に浮かぶのは、木の影から聞いていた二人の会話。 月が綺麗な夜だった。 草や木が微風に揺れ、ザァッと音をたてるなかで、それでも二人の声は確かにはっきり聞こえていた。 土方に悪戯を仕掛けようと企んでいた俺が、その言葉にどれ程の衝撃を受けたのか、今思い出すだけでも視界は黒く塗り潰される。 頭を振って視界から黒を追い出すと、布団から抜け出した。 自室に戻ろうと思い、手櫛で髪を整え結い上げる。 姉上はいつもこれくらいの位置で結んでいた。 いつも髪を結うときは、それを思い出しながら結ぶ。 少しでも彼女に近づけるように、少しでも彼女になれるように。 「…ッ」 目をぎゅっと瞑る。 いけないとわかっていても、もうそう思わずにはいられない。 「姉上に、なりたい」 憧れなのか、嫉妬なのか。 最早それは俺自身にももう分かっていない。 また浮かんだあの光景を思い出して唇を噛み締めてうつむいた。 「ごめんなさい、姉上」 あの人に、土方さんに愛されるためには姉上になるしかなかったのだ。 だが、姉上になれるわけもなく。 結局俺は土方さんに見てもらうことすらないまま、今ここに居る。 自然と自嘲するように上がっている口角は、ひくひくと痙攣していた。 「誰も報われねェな」 ようやく絞り出した言葉は、嗚咽混じりの低い男の声だった。 『幸せな思い出まで汚しても、手には何も残らなかった』 |