juju | ナノ





 部屋から出るなと言われた訳ではなかった。

「△」

 ただ私を呼ばうその声色が、ずっとここにいてと切望しているようで、出るに出られなくなっただけだった。

「手を握ってもいいかな」

 線香のにおいの隙間から手を伸ばされる。節くれだった美しい指。切り揃えられた丸くて短い爪先に、いいよ、と片手を伸ばした。

「君の手は綺麗だね」

 私の美しい△…と恭しく膝を折り、艶やかな黒髪で男は笑った。

「私だけの△」

 細く糸のような瞳の端に、爛れた心が夏の太陽のように滲んでいた。

 夏はいつも庭に菖蒲が咲く。





 部屋から出なくなって何ヶ月経つのか誰も知らない。美々子も菜々子も何も言わない。
 菖蒲が何度散ったのかも数えていない。あの紫色の花言葉も知らずにこの肉が土に還るまで部屋で待つ。

「帰ったよ」

 洗い立ての布団を抱き締めていると男が帰ってきたらしい。
 嗅ぎ慣れた香のにおいに瞼が開く。

「寝ていたのかい」
「なんだか最近眠くて」
「暇だからかな」

 困ったように眉を寄せて、男は少し悲しそうに笑った。

「ねえ、もっと私と一緒にいてよ、傑」

 ねえ、と袖を引っ張ると、善処するよと笑われた。

「なかなか忙しくてね」

 そっと頬を撫でる。手つきが優しい。また微睡んでしまう。よくないとわかっているのに。
 私がどうして部屋から出られなくなったのか。この男がどうして私に夢中なのか。ほんとは全部知っている。
 そして私が全部知っていると言うことを、この男は全部知っている。

「私も、もっと君と一緒に居たい」

 早く理想の世界へゆこうと、その指が私を誘なう。それに抗う術も持たぬ。そもそも抗う気もない。
 この男と落ちるところまで落ちて、地獄だろうがなんだろうが、どこへでもゆくがいい。
 この私の魂など、どこへでも。

「私と地獄でも一緒にいてくれるかい、△」
「勿論」

 燃え盛る炎が、針の山が、鬼が、それが一体なんだというのだろう。
 この男に魅入られることより、恐ろしいことなど何一つない。

「私の△」

 形のいい唇で何度も名を呼ばれる。名を呼ばれるたび地獄に近づく。
 それを、私もこの男も、ふたりともよく知っている。


ぱらり、崩壊
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