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 火を食ったのだという。

「穢れだ」

 病で臥せって死にかけている家主がいるのに、その家で煮炊きした食い物を食った。

「用心しろと言ったろうに」

 でも、知らなかったから…と△は空になった鍋を洗った。
 大病人がいる家や、吉事を控える家では煮炊きした食い物を食べない。もし食えば、それを火を食うといい、食った者は狼に後をつけられるという。
 この古ぼけた家に引き取られて二ヶ月しか経っていない△には、知り得ない風習だった。

「用心ってたって、聞かされていないんじゃ、気をつけようがないじゃない」

 家主はこのところすっかり痴呆がはいってしまって、いつ何を言ったのか何を食ったのか、記憶が散らばっていてまともな会話にならなかった。

「穢れだ、狼に食われるぞ」
「狼?」

 聞き返したのに、返事を寄越さないまま、家主はああ恐ろしいと独り言のように呟いて寝室に閉じこもってしまった。

「狼なんて」

 いないでしょう、と和室に布団を敷いてイ草の香りの中でうつらうつらしていたら、その晩、本当に狼が来た。

「お前、昼に煮炊きした茄子を食っただろう」

 家主に用心しろと言われなかったのか?布団を剥ぎ取って私の上に馬乗りになると、死人のように色の悪い指先で頬を撫でられた。

「あなた…だれ…」
「人は俺を狼だというが」
「なんで、勝手に、家に」
「古くからの言い伝えは存外理にかなっているものだ」

 あの、と言いかけると、節くれだった指でまたそっと頬をなぞられる。
 恐ろしいのか、その美しい相貌に見惚れているのか、口を開けても乾いた音しか出てこない。

「あ、わたし、」
「食われたくはないだろうな」
「あ…」

 やっぱり、食べられるんだ。そう思うと、顔中から血の気が引いて、べっとりした汗がこめかみに滲む。
 あ、あ、と声にならない声を出して狼狽えていると、濁った瞳が徐に微笑んだ。

「お前が俺と契りを交わせば、食わないでやってもいいだろう」
「契り…」
「そうだ」

 古びた装いの隙間から、焚き込めた線香のような匂いが鼻先を掠める。
 ああ、と思う間もなく、太い親指が口の中に割って入る。

「どうだ、俺と契約するか」
「な、なに、を」
「この俺の、大神の妻としてお前を迎え入れる」

 つま?ツマ?妻?と思考回路をぐるぐると回しているうちに、狼の整った顔が、その僅かな息遣いが分かるほどに近くまで迫っていた。
 このとき、隈の濃いその目元に見惚れてしまったばかりに、△はもう一生この薄汚れた家屋には戻れなくなってしまった。

「美しい女だ、名を聞こう」


小指の欲得
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