最後の君に愛しい口付けを
死神は残酷だ、でも神はもっと残酷だ。
だから、ねえ、僕は何をすればいい――?
†
「これが今の私、月の正位置。幻惑のカード。先は見えないんだけど何か展開があるのかも」
僕はダイヤモンド形に展開(スプレッド)したカードをめくる少女――キャローネを見やった。
キャンドルに照らされた髪はホワイトチョコと同じ色で暗い部屋の中でも眩しく艶めく。柔らかい石鹸の香りが僕の鼻腔を刺激し、微かに胸をくすぶらせた。
けほけほと空咳をしながら胸を押さえる彼女は病気など嘘みたいに楽しげにカードをめくる。とても微笑ましくて、とても痛々しい姿。
「少し休んだらどうだい?」
「ううん、朝になったら貴方は消えてしまうもの」
射抜くような眼差し。
蒼穹の色をした瞳はほんの少し涙で煌めいていた。
スフルカ・スピカ――僕の異名は死神。目をそらしても付きまとうその事実は一生投げ売れるものでなく、現に目の前の少女は愛しい思い人であり魂を回収する対象であった。
ふいにずきりと胸が痛む。
『――僕の魂をもらってはくれないか? そうすれば君は』
いつかの僕が言った言葉。無情にも頭蓋骨の右端の方でそんな言葉が残響した。
「お日様が出ている間は貴方はいない。だからその時はずっと一人、お昼寝も出来るわ。私の魂を貴方が回収してくれるまでは少しでも一緒にいたいの」
「キャロ……。僕は」
「それからこの右端のカードはね、スフル、貴方を示しているの。吊された男の正位置。これは"犠牲"を経て何かを得るカード」
僕に有無を言わす間もなくキャロはいつものしとやかな笑みを、貼り付ける。
「……それでこの下のは私達の現状」
キャロの細い指先がゆっくりめくると現れたのは恋人のカード。それを見た途端、キャロは頬を赤らめ、数秒じっと黙った後、小さく呟いた。
「恋人は、恋人の正位置は、その名の通り二人の思慕を表すカード。愛のカードね」
「本当に? 嬉しいよ」
「私も……。私も、嬉しい。じゃあ、最後、この一番上のカード。これは私達の未来。めくるね」
キャロがモノクロの模様に触れ、親指をそっとカードと机の隙間に入れた。掌に吸い付くようにカードが浮き、くるりと回る。
ああ、誰かが僕らを嘲笑うのではないだろうか。否、既に嘲笑われてるのだろう。
「……死神の、逆位置。生の象徴だよ、スフル」
生の象徴――。
それは誰の生なのだろうか。君と僕しかいない世界で、どちらの魂が栄華をうたいあげ、どちらの魂が敗北に身を委ねるのか。
「私、ね。最初にスフルを見たとき、ほら、お酒のチョコを食べた時のように胸が熱くなったの。しんどい体を引き摺りながらお城で寂しく生きてて、早く死にたいなって毎日思ってた。そんな時に貴方がやって来た」
キャロは先程まで広げていたタロットカードを一束にすると扇形にし、口元に添えてそっと瞳を閉じた。
「パープルベージュの長い髪と月が眠る夜空みたいなローブが印象的でね、死神さまだってすぐに分かったの。その時に、ああやっと死ねるんだって」
喉がひゅっと鳴る。
死神は残酷だ。でも神はもっと残酷だ。
無邪気に笑った彼女が一瞬、ぼやけた。
「寂しくて、辛くて、痛くて。生きてるってことが分からないの。だから、スフル、いいの、私――」
「言わないで」
机から身を乗り出すと、茶けた錆がキャロの白いドレスにかかる。咄嗟に彼女の細い体を抱き寄せると、キャロは何度か体を震わせて遠慮がちに腕を背中に回した。
「キャロ、僕は君を守りたい」
「あのね、聞いて」
「僕は君を死なせたりしない」
「スフル」
「お願いだ、僕の命を――」
そう言った途端、彼女は酷くむせこみ、巻き付けた腕にぐっと力を込めた。
「スフルは……、スフルは何も分かってない!」
「僕は君が好きだ。だから僕は命を明け渡す禁忌を犯してでも君に生き続けてほしい……!」
「違う! スフルが死んで、私が生きても、私はずっと一人ぼっちなの! 病気の苦しみと貴方を失った苦しみを一人で抱えて生きていくならば――」
手早く肩を引き寄せ、花弁のような唇に本能のまま自らの唇を押し付けた。
どれくらいの時が流れただろうか、いや、流れるまでもない僅かな時間だったに違いない。窓から覗く明けの明星は相変わらず僕らを黙視していた。
「キャロ、お願いだ……。時間がないんだ。僕が君の魂を回収するタイムリミットはもうすぐなんだ。君のこの髪も、手も、瞳も、耳も、唇も、全てなくしたくない」
言った通り一つずつ彼女自身に口付けていく。その度に緊張と歓喜が入り交じった表情で悶えるキャロは蜂蜜のように甘い顔を僕に向けた。
ねぇ、君の瞳から流れるそれも蜂蜜かい――?
突如、僕の体が透け始めた。憎い朝がやって来た証拠。朝が来た時は溶けて帰らなければならないのが死神の性質であった。
「行かなきゃ、キャロ」
『うん、また今夜』
朝日に照らされながらそう言うのが彼女の約束。
でも今夜は違った。
痛む心を押さえ、僕の腰元に擦り寄り、ぽたぽたと蜂蜜のような雫を流しながら見上げる。
「スフル……、大好きよ。貴方が大好き。好き。どうしようもないくらいに好き。優しくて、綺麗で、かっこよくて、頼もしくて、お伽噺の王子様みたいなスフルが大好き。だから、ねぇ、一人に……しないで」
青い瞳から流れた涙は消えた僕にかかることなく、鈍い音と共に床で潰れてしまった。
†
キャッツアイを嵌め込んだ十字架のペンダントが風にゆらゆらりと靡(なび)く。
時間がない。
死神は残酷だ。でも神はもっと残酷だ。
だから――。
空に浮かび、思い人の姿を静かに見つめる。
ああ、初めて出会った時もそうだった。
病的で不気味な城の唯一明かりが灯る窓。そこから見えるのは儚げな少女。あの日も三枚のタロットを一列に並べ、順番にめくってた。
一枚目――過去は戦車の逆位置、横たわる障害。二枚目――現在は恋人の正位置、思慕や愛情。三枚目――未来は死神の――。
刹那、突風が巻き上がりキャロが髪を押さえた隙にタロット達が僕の体に当たった。目の前がカードで遮られ、指で摘まむ。
「スフル」
愛しい人の声、脆くて悲しい響きを持った色。
摘まんだカードに視線を落とす。大きな鎌、黒いローブ、降り伏せる躯(からだ)を踏みつける骸骨、その名は――死神。
「キャローネ」
僕は空を切り裂くようにカードを投げ捨てた。ひゅっと鋭い音がして目下に落ちていく。
「あのカードは死神じゃない」
掌に意識を集中させると、光と共に大きな鎌が現れた。息を飲んで見つめるキャロ。自分の身長と変わらない鎌は鈍色をしており、少女の驚嘆する表情を写し出した。
「死神は僕だ。命を司るのは僕だ。タロットがいくら生を示そうが死を示そうがそんなものは関係ない。僕が君の死神だ」
僕は柵越しに立ち、鎌をキャロの後ろ側にやる。それから首にかけていたペンダントを外し、キャロの手に持たせた。
「キャローネの名前の由来はキャッツアイだって言っていたから。プレゼントだよ。キャロ、死神は残酷だ、でも神はもっと残酷だ。君を一人になんかしない。させない」
「ス、フルカ……?」
青い瞳から溢れた雫が十字架にかかる。その時、刀を研いだような音と共に十字架がナイフに変わった。
ゆっくり顔を近づけて、僕は少女の愛らしい笑顔を目に焼き付ける。無垢で、素直で、儚げな僕の愛しい人。
もう寂しい思いはさせない。
「迎えに来たよ、キャロ。逝こう、僕と一緒に」
ありがとう、そう聞こえた時にはキャロの透明な雫と赤い艶やかな雫が一滴、二滴と死神のカードにかかり、反射した。
移ろうことのない僕達。その果ては永遠。痛みさえも快感に変わり、闇と同化した僕達は再び永遠の口付けを交わし合ったのだった――。
written by 藤咲魅蘭(@Fujisaki_Miran)
illustrated by 水鳥樹由(@kiyu_sousaku)