「俺はシズちゃんが大嫌いだ。この世の誰よりも、君が憎くてたまらない。他に比べるひとがいないほど、君を憎悪している。だからさ、俺以外のひとはシズちゃんを傷つけちゃ駄目なんだよ。俺とくらべりゃカスにもならない憎しみでシズちゃんを害するなんておこがましい。そんなの、俺に失礼じゃない」 臨也は静雄の頬に手を添えた。 「傷つけるだけじゃない。この白い身体に触れて良いのは俺だけだ。シズちゃんの弱味だって、他人がしる必要なんてない。みんな、君のことを怖い怖いと言って、怯えて近づいてこなければ良い」 静雄の手首にはシャープな手錠がはまっていて、足首にも枷をつけられている。強度は警察で使用されているものより、遥かに高い。 この状況はなんなのだろう、臨也は冷静に事態を判断しようとする。 池袋最強、平和島静雄が、手枷足枷をはめられて壁にもたれかかっている。 それは分かっている。やったのは自分だからだ。 なのに、静雄の瞳にはいつものような煮えたぎる炎はなく、戸惑っているような、困惑の色ばかりある。 (気に入らない) 静雄が激昂しないことにではない。それも普段なら苛立つ要素なのだろうけれど、今日は少し違う。 静雄の馬鹿力が消えた。 そう言ったら、いくらか語弊がある。正確に言えば、静雄の鋼のように強い身体が不調であるということだ。 確かに、今喧嘩したって相手を倒すことは可能だろう。握力がなくなったわけでも、腕力が女の子並みになったわけでもない。けれど、それは普通の強さなのだ。ひとりで何百をも倒す彼ではない。自動販売機を投げ飛ばす彼ではない。ナイフだって、その機能の通りに刺さってしまう。 「駄目なんだよ、そんなことが起こっては。 だって、君は化物なんだ。世界で一番怪物に近い人間なんだ。俺が唯一、予測できない、愛せない人間なんだよ。そんな君がそんな簡単に平凡な人間になるって、どういうことだよ。 それは許されないことだ。俺が君のために費やした労力を、何だと思っているの?シズちゃんはね、最後まであがいてあがいて苦しんで、結局は俺に愛されるべき凡人であることを絶望しながら死ななきゃいけないんだ」 嘘だろ、そう思った。 いつものように池袋に繰り出し、いつものように静雄に会ってしまった。 追いかけてくる静雄に、うまく撒けないかなと思いながら、臨也は失態を犯した。 行き止まり。 嘘だろ、全身が冷たくなる心地がした。何がいけなかったんだ、今日の逃走ルートを思いめぐらせながら、臨也は答えを導く。 今日はいつもより逃げる気がなかった。 近頃、池袋に毎日のように降り立つ。が、それは情報屋としてだった。静雄と会ったのは久しぶりだったのだ。 (どう考えても、ラッキーな筈なんだけど) 無意識というのは恐ろしいものだ。意識的に物事をしないから、予測不能な危機にぶち当たることがある。 まさに、今の臨也のように。 静雄は足を止め、道にある自動販売機に手を添える。臨也は舌打ちした。こんな人気のないところに自動販売機を設置するひとの気が知れない。あれを投げられたら、臨也には回避する術がない。 ところが、静雄はなかなか自動販売機を持ち上げない。持ち上げようとしているのにだ。 隙あり、という風に、無防備な静雄の懐に入り込む。ナイフをつきだすと、滑るような感覚。不審に思い顔を下げると――、 赤。 嘘だろ、そう思った。 「ねえシズちゃん聞いてる? 出血多量で死ぬほど、血を流していないでしょ。勝手に死なないでよ。君をここに閉じ込めてからずっとだんまりだけど、どうしたの? 身体の強度だけでなく、沸点も下がったとか? ねえ」 臨也は静雄の肩を乱暴に押す。 「まさか、ここからどうやって出ようかとか考えてるの? シズちゃん、さっき俺が言ったこともう忘れちゃったの? 君は俺以外のひとに傷つけられちゃ駄目なんだって。 そんな化物じゃないシズちゃんが外に出たら、ボロボロになるに決まってるじゃないか。それはいけない。君を傷つけるのは――」 「いざや」 しんと部屋の中が静まり返る。何だか今の自分が悔しくて、臨也は穏やかな静雄を最大限に睨む。 「ようやく喋った? 俺に反抗したいからかな? だったら、出来るもんならしてみろよ。早く、その手錠を壊しちゃえよ。そんな玩具、シズちゃんなら瞬殺でしょ? あー、か弱いシズちゃんには出来ないか。なら、大人しく俺に従わなきゃね。それが嫌なら手錠くらいすぐ破壊しなきゃ。 ねえ、壊してよ。……壊せよ。はやく、ぐちゃぐちゃにしちゃってよ。シズちゃんなら出来るんだろ? はやく!」 「泣くなよ」 誰が泣いてなんて、そう呟きながら自分の顔を触ると、水分に触れる。これはなんだろう。そして、この状況はなんなのだろう。 ふわりと暖かい感触。抱き締められていることを認識するのにずいぶんかかった。静雄のしなやかな腕が臨也の背中に回り、綺麗なてのひらはあやすように優しく上下する。 「て……じょうは?」 「気に入らなかったからぶち壊した」 「どうやって?」 「お前の希望通り、瞬殺で」 「でも、シズちゃんは……」 「早とちりしすぎなんだよ」 静雄は臨也の肩に顔をうずめる。その身体は、少し震えていた。 「別に、俺は自動販売機を持ち上げられなくなったわけじゃない」 震える声は、臨也の耳に直接響く。臨也はなんとなく、静雄の背中に腕を回してみた。 「ただ、持ち上げたら投げなくちゃいけないかなと思ったら、持ち上げられなくて、いや、持ち上がらなくて、力をこめたつもりでも、ちっとも力が入らなくて。これを投げたらお前を殺せるのに。頭の中は妙に冴えていて、でも自分が何をしているのかわからなくて。それが、すげー悔しくて。お前がナイフをつきだしたとき、刺さってしまえと思った。自分に渇をいれるつもりで」 だけど、お前に渇を入れちまったな、そう呟く声はほんの少しだけ申し訳なさそうで、少し困惑気味だった。静雄は臨也が苛立っている理由が全くわからなかったのだろう。 刺されたのは静雄で、刺したのは臨也。普通、怒るのは静雄の方だ。それなのに、どうして諌められなければならないのかと、理不尽の度があまりにも過ぎすぎて、キレることすらできなかった。 「だって、傷は……」 「お前なあ、俺にだって鍛えきれてないとこぐらいあるんだよ。いつもと違って、刺さっても良いと思っていたし、まあ結局、ナイフの半分も刺さらなかったけど。それにな、いつもより血は出たけど、それは傷が深かったとかじゃなくて、血管の近くだったとか色々考えられんだろ? ちょっと血が流れたくらいで大袈裟なんだよ。あーうぜえ。他には何かあんのか? 答えてやるから早くしろ」 「君は何故、俺を殺せないの? もしかして、俺のことを愛しているの?」 途端に静雄の身体が強張る。 「違えよ!」 「違うの? その割りには、シズちゃんの耳、赤いよ。顔は見えないけど。ねえ、見せてよ」 「うるせえっ」 怒鳴りながらもすんなりと顔を見せてくれたシズちゃんは、拗ねたように顔を背ける。 「ねえ、シズちゃんってば」 「……勝手に判断しろ」 了解と口に出し、羞恥と他の何かで紅く染まった顔を掴み、深く口付けた。 (waltz 円舞曲) |