夏はまだ終わっていないようで、肌をじりじりと焼く灼熱にひどく辟易した。それは、屋内に入ってもあまり変わらない気がする。広々とした上品な部屋も、このじめじめとした暑さの中では全てが台無しだった。 だからだろうか、こんなに気持ちが暗く澱むのは。 やわらかいソファに座る。疲弊した身体を優しく包んでくれるその感触に、静雄はゆっくりと瞳を閉じた。 それからどれくらいの時が過ぎただろう? かちゃりとドアが開く音と、誰かが入ってくる気配。 暑い部屋で身体が火照る中、心だけは妙に冷静であると静雄はぼんやり思った。 入ってきた男は、静雄を見るなりすぐに口を開く。 「悪い。待たせたか」 「待ってましたけど、構いません」 淡々とそう告げれば、シニカルに笑う四木。 その笑顔が、静雄はたまらなく好きだった。 四木は静雄の隣に腰を下ろす。自分はちゃんと笑えてるだろうか? 「しかし珍しいな。お前が俺を呼び出すなんて」 「自宅まで来るつもりはなかったんですがね」 「変なところで待たせるわけにはいかないからな」 「……お仕事だったんですか?」 「ああ」 静雄は四木の口許をじっと見る。もし地獄なんてものがあったら、彼はきっと一枚の舌しかなかったら到底やっていけないだろう。 例えば、花のような香りと少し乱れた服装。 それを指摘する気は毛頭なかったけれど。 黙ったままの自分を不思議に思ったのか、四木は怪訝な顔を静雄に向ける。そうして何かを言おうとしたから、静雄はその前に口を開いた。 「俺は、あなたの笑顔が好きなんです」 「そうなのか」 「はい、とても。その尊大なところがたまらなく」 「お前、意外と被虐的嗜好があるんだな」 「そう言うと、マゾもなんかかっこいいですね」 「静雄、」 いつもより饒舌で快活。違和感だらけの静雄に、四木は回りくどい真似をやめて単刀直入に問う。 「なにか言いたいことがあるのか?」 対する静雄は花のような笑みを顔に貼り付け、ソファから立ち上がった。 開いた距離。それを縮めようとした四木を片方の手で制し、静雄はもう片方の手でサングラスを外す。 「……」 四木は思わず息を飲んだ。その琥珀の穢れのなさに目眩がする。悪い予感も、じわじわと背中から這い上がってきた。 「暑いですね。今年の夏は特に。けれど、その長く辛い夏ももう終わりを告げる。そうしたら、もう秋です」 ねえ、四木さん……。 静雄は穏やかな顔のまま、囁くように言葉を紡ぐ。 「熱が冷めぬ間に、終わりにしましょう」 「俺は、別れを切り出されているのか?」 僅かな沈黙の後、四木は独り言のように呟いた。 静雄はなにも答えない。むしろ、答えないことが肯定のようだ。これはどうやら戯れではない。静雄の中では、四木との関係を終わらせることはもう決定事項なのだろう。 どうして? と過る疑問を嘲笑うように、静雄はいやに穏やかな微笑を浮かべる。 「静雄、俺は」 「言い訳も謝罪もいりません。俺が求めているのはそんなものじゃない」 「求めているのは別れだけなのか?」 「はい」 「どうして……」 静雄は少し考えるようにしてから、おもむろに四木に近づく。なんのためらいもなく抱きついてきた彼を見て、四木はさっきの言葉が夢であるように思えた。夢であってくれれば、いいのに。 「俺、このにおい好きです。でも、耐えられない」 品の良い花の香り。こんな香りを身に纏わせた女性なら、どんな男でも振り向いてしまいそうだ。 今まで嗅いだ事のない香り。 きっと、新しい女性なのだろう。新しい情報源の女性。 「これは……」 「いいですって。言い訳とか時間の無駄ですから。どうせ何も変わらない」 「……女と手を切れば、お前は満足か?」 「言ったでしょう? 俺が求めているのは別れだけ。それに、そういう関係は四木さんの仕事上必要な物なんでしょう? 俺ひとりの為に、大切な情報網を捨てることはないですよ」 「お前、知ってたのか」 四木に何人かの愛人がいるのは、付き合った当初から知っていた。それは仕事だと、静雄は割り切っていた。 だって、あの四木が愛人としてではなく恋人として自分を選んだのだから。 他にもいくらでも素敵な女性がいるだろうに、彼は男である静雄の手を取ったのだ。 静雄はほとんど力を込めずに四木の頬を叩いた。女に叩かれるよりもおそらく軽い。 傷痕なんか残さない。それにとらわれるのは、きっと静雄の方なのだから。 「馬鹿にしないでください。最初から知ってましたし、それでも構わなかったんです。あなたには女性の愛人しかいないと聞いた。それなのにあなたが恋人にしたのは俺。それだけで十分だったんです」 「じゃあ……」 「じゃあ」なんだろう? その後に一体何が続くのだろうか? 黙ってしまった四木は何を言うつもりだったのか。 もしかしたら、「じゃあ、どうして今更別れを切り出したのか」と言いたいのかもしれない。 「んなの、そんなの俺だってわかりませんよ。どうしてこんなことをしているのかも、どうして自分はこんなに強欲になってしまったのかも。けど、ひとつ言えることは、あなたに責任はないということです。悪いのは、俺の方なんですよ」 「何を言ってるんだ。お前が悪いだと? 悪いのは俺の方だ」 このひとはわかっていない。やはり俺のことを一番よくわかっているのは、くやしいけれどあの男なのか。 愛人の人数から、容姿、性格、所属など全てをリストアップして持ってきたあの男。さすがの静雄だって微かに女の影を感じ取っていただけなのに、臨也はまるで興信所の身辺調査のように、女たちの完璧な資料を作ってきた。 女が増えたり減ったりするごとに、臨也は静雄のもとを訪れる。いつものようにからかってくるわけでもなく、ただ真剣な顔をして。 渡された資料を静雄が見ている時、臨也はいつも悲しそうな顔をする。それはまるで静雄の代わりに悲しんでくれているようで、ずっと押し隠してきた胸の痛みが少し和らいだように思えた。 わからない。けれど、そんな臨也を見ていたら、ひとりでいることに耐えられなくなった。 余計な想像をして、痛みを無視して、そうしてたどり着くのはどこなのだろう? どこにも着かないで、ただ痛みをこらえているのはもうたくさんだ。 「俺はきっと、今まで花の香りが好きなふりをしていたんです。あなたとの別離がこわくて、波風を立てないように、自分を押し隠して生きていたんだと思う。 でも、もうそれじゃあ足りない。俺は強欲な人間です。あなたと俺とのルールを破って、あなたを独り占めしたいと思ってしまった。花のにおいを、許容できなくなってしまったんですよ」 吐き気がする、綺麗な花の香り。 俺と会う前に誰かといたんですか? それを抜け出して、俺と会うために来てくれたんですか? この家に上げるのは、きっと俺だけなんでしょう。 けれど、俺はもうそれだけでは満足が出来なくなってしまった。 「なんであのひとなの?」 からかいもせず、なんの強要もせず、臨也はただそれだけを言った。 自分はずるいな、と静雄は思う。臨也が自分に向けている気持ちを嬉しいと思ってしまうなんて、これでは四木ではなく自分の方が裏切り者だ。 「もう、なにもかも手遅れなのか」 苦いものを食べるように言葉を絞り出す四木。あなたを苦しめるつもりも、煩わせるつもりもなかったのに。こっちもこっちで、手遅れだ。 「お前の心は、もう俺にないのか」 「ひとの話は、ちゃんと聞いてください」 そう言って、静雄は四木にくちづける。 激しくもない、動きがない、ただ唇を合わせるだけのキス。それでも、体は不思議と熱を持った。 「さあ、熱が冷めぬ間に別れましょう」 あなたを失くした喪失感でも、胸の痛みでも寂しさでもいい。 もう少しだけ、あなたの余韻に浸らせてください。 熱が冷めぬ間に (あなたの記憶の中に、少しでも色濃く俺が残っていればいいから) ここから、一途臨也さんが報われるパターンを書きたいです。 |