鬱憤がたまっていた。簡潔に事の起こった理由を考えると、それが一番ふさわしいと思う。

とにかく、異常に鬱憤がたまっていて、どこかで晴らさないと雇い主を包丁でひと突きしてしまうのではないか、というところまできていた。
ああ、危ない。もし殺人者になってしまったら、誠二に迷惑をかけてしまうかもしれないのだ。
本当に、死んでも迷惑な人間だわ。誰の手もわずらわせずに、自殺でもしてくれないかしら。

そんな物騒なことを考えていた時に、彼と会った。
バーテン服を着ていない、喧嘩人形ではない彼と。
風のない海のように、綺麗な顔には感情がほとんどない。雇い主で見飽きてるけれど、彼もよく見るとかなり綺麗な顔立ちだ。全体的に色素が薄く、体も華奢。波江は彼に透き通るようなイメージを抱いた。

穏やかで静か。なるほど、彼は雇い主やその他諸々がいなければ至極名前通りの人間なのだ。
トレードマークのバーテン服を着ていないから、彼に気づくような人影はない。加えて、彼はひっそりと無意識に隠れるように歩いているのか、存在が非常に希薄に見えた。

それでも、そのうっすらとした残像を一度視界に捕らえれば、こちらが捕まってしまう。
まるで今の波江のように。

彼は池袋駅にすたすたと長い足で向かう。慌ててその後を追えば、突然くるりと振り向いた。
目が合う。疑問となにかを含んだ、濡れるような瞳。
それを見た瞬間、波江は衝動のままに口を開いた。

「あなた、甘いものが好きなんでしょう?」

躊躇いがちにうなずいた彼を見るなり、波江はその白い手を取って歩き出した。
よくわからないが、それがとてもまっとうなことに思えたのだ。








上品なラウンジカフェに入り、適当にケーキセットを頼む。未だ多少混乱気味な静雄は、けれどもなにも言わずに波江の所作を見守っていた。
紅茶を淹れてもらい、波江はそれをストレートで飲む。静雄の方を伺えば、たっぷりとミルクを淹れて砂糖とかき混ぜていた。

「ミルクティー、好きなの?」

静雄は少しはにかむ。強ばった表情より、そっちの方が断然いい。

「よく、淹れてくれるひとがいるんですよ」

少し困ったような笑みを浮かべながら、静雄は少し冷めたミルクティーをこくりと飲む。
それは誰だろう。絶対、自分の雇い主ではない。波江は少し愉快な気持ちになった。

「それはあなたの恋人?」
「好きなひとですよ」
「ふうん」

好きなら、そんな顔をしなければいいのに。罪悪感にまみれた、泣きそうな顔。
好きというだけで、波江の心は満たされる。些細なことでも喜んでしまう。それが「好き」なのだから。
いつもの波江なら、そうやって思うだけにとどめる。だってそれはただのお節介だ。ひとにはひとの恋愛があって、それに無責任に首を突っ込むほど愚かではないと思っている。

けれど、波江は見過ごせなかったし、雇い主に対して鬱憤も晴らしたかった。だから、言う。

「どんな形であれ、好きという気持ちは尊いものよ」

この言葉がどんな影響を持つか持たないかはわからない。
けれど、腹立たしい雇い主の歪んだ愛の成就の妨害にはなったはず。
静雄の驚いた、どこか解放された顔を見る限りは。








「好きだったんですよ、嫌いだったけど、それ以上に。けど、もういいのかもしれない」

いつもと違う服を着て、いつもと違う場所に行くつもりだった。
池袋で臨也に会うたびに痛む胸を、どうにか慰める為に。

いや、違うかもしれない。静雄はミルクティーを一瞥する。
離れて、自分が求めるのはどちらなのか、知りたかったのだろう。臨也か、ミルクティーを淹れてくれる彼か。自分が本当に好きなのはどちらか知りたかった。
でも、遠くに行く必要はなかった。
名前も知らない彼女の一言で、静雄の胸中のわだかまりは綺麗に溶けてしまったのだ。

ケーキが運ばれてきた。波江の言葉にひとつ涙をこぼした静雄に、彼女は少し困ったように話しかける。
「適当に選んだんだけど、あなたのケーキも美味しそうね」

ひとくちくれないかしら、と真剣に言うから、静雄はおかしくなって笑った。

「実は、俺も同じことを言おうと思ってたんです」






シャルロットと
オレンジの乗った
レアチーズケーキ


(鬱憤晴らしと恋愛相談)



ミルクティーを淹れてくれた彼を以前書いた小話の正臣として受け取っても、そうでなくても大丈夫です。メインは波江さんとのお茶ですから。

とりあえず、素直じゃない臨也さんが誰かに静雄を盗られちゃう。あなたが秘書をこきつかうから、秘書もその後押しをしちゃいました。それが内容ですね。






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